裁縫するのを見ていたが、不審らしい顔をして、烟管《きせる》を下に置いた。「なんだい。そんなちっぽけな物を拵《こしら》えたって、しようがないじゃないか。若殿はのっぽでお出《いで》になるからなあ」
 りよは顔を赤くした。「あの、これはわたくしので」縫っているのは女の脚絆甲掛《きゃはんこうがけ》である。
「なんだと」叔父は目を大きく※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。「お前も武者修業に出るのかい」
「はい」と云ったが、りよは縫物の手を停《と》めない。
「ふん」と云って、叔父は良《やや》久《ひさ》しく女姪《めい》の顔を見ていた。そしてこう云った。「そいつは駄目だ。お前のような可哀らしい女の子を連れて、どこまで往くか分からん旅が出来るものか。敵《かたき》にはどこで出逢うか、何年立って出逢うか、まるで当《あて》がないのだ。己《おれ》と宇平とは只それを捜しに行くのだ。見附かってからお前に知らせれば好《い》いじゃないか」
「仰《おっし》ゃる通《とおり》、どこでお逢になるか知れませんのに、きっと江戸へお知らせになることが出来ましょうか。それに江戸から参るのを、きっとお待になることが出来ましょうか」罪のないような、狡猾《こうかつ》らしいような、くりくりした目で、微笑を帯びて、叔父の顔をじっと見た。
 叔父は少からず狼狽《ろうばい》した。「なる程。それは時と場合とに依る事で、わしもきっととは云い兼ねる。出来る事なら、どうにでもしてお前をその場へ呼んで遣るのだ。万一間に合わぬ事があったら、それはお前が女に生れた不肖《ふしょう》だと、諦《あきら》めてくれるより外ない」
「それ御覧遊ばせ。わたくしはどうしてもその万一の事のないようにいたしとうございます。女は連れて行かれぬと仰ゃるなら、わたくしは尼になって参ります」
「まあ、そう云うな。尼も女じゃからのう」
 りよは涙を縫物の上に落して、黙っている。叔父は一面|詞《ことば》を尽して慰めたが、一面女は連れて行かぬと、きっぱり言い渡した。りよは涙を拭《ふ》いて、縫いさした脚絆をそっと側《そば》にあった風呂敷包《ふろしきづつみ》の中にしまった。

 酒井忠実は月番老中大久保|加賀守忠真《かがのかみただざね》と三奉行とに届済《とどけずみ》の上で、二月二十六日附を以《もっ》て、宇平、りよ、九郎右衛門の三人に宛てた、大目附連署の証文を渡して、敵討を許した。「早々本意を達し可立帰《たちかへるべし》、若《もし》又敵人|死候《しにさふら》はば、慥《たしか》なる証拠を以可申立《もってまをしたつべし》」と云う沙汰である。三人には手当が出る。留守へは扶持《ふち》が下がる。りよはお許は出ても、敵を捜しには旅立たぬことになって見れば、これで未亡人とりよとの、江戸での居所《いどころ》さえ極《き》めて置けば、九郎右衛門、宇平の二人は出立することが出来るのである。
 りよは小笠原邸の原田夫婦が一先《ひとまず》引き取ることになった。病身な未亡人は願済《ねがいずみ》の上で、里方桜井須磨右衛門の家で保養することになった。
 さていよいよ九郎右衛門、宇平の二人が門出《かどで》をしようとしたが、二人共敵の顔を識らない。人相書だけをたよりにするのは、いかにも心細いので、口入宿の富士屋や、請宿《うけやど》の若狭屋へ往って、色々問い質《ただ》したが、これと云う事実も聞き出されない。それに容貌が分からぬばかりでなく、生国も紀州だとは云っているが、確《しか》としたことは分からぬらしい。只酒井家に奉公する前には、上州高崎にいたことがあると云うだけである。
 その時、山本平作方へ突然尋ねて来た男がある。この男は近江国《おうみのくに》浅井郡の産《うまれ》で、少《わか》い時に江戸に出て、諸家に仲間《ちゅうげん》奉公をしているうちに、丁度亀蔵と一しょに酒井家の表小使をして、三右衛門には世話になったこともあるので、若しお役に立つようなら、幸《さいわい》今は酒井家から暇《いとま》を取っているから、敵の見識人《みしりにん》として附いて行っても好《よ》いと云うのである。名は文吉と云って、四十二歳になる。体は丈夫で、渡者《わたりもの》の仲間には珍らしい、実直なものだと云うことが、一目見て分かった。
 九郎右衛門が会って話をして見て、すぐに宇平の家来に召し抱《かか》えることにした。

 九郎右衛門、宇平、文吉の三人は二十九日に菩提所遍立寺から出立することに極めて、前日に浜町の山本平作方を引き払って、寺へ往った。そこへは病気のまだ好くならぬ未亡人の外、りよを始、親戚一同が集まって来て、先ず墓参をして、それから離別の盃《さかずき》を酌《く》み交《かわ》した。住持はその席へ蕎麦《そば》を出して、「これは手討のらん切《ぎり》でございます」と、茶番めいた口上を言った。親
前へ 次へ
全14ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング