戚は笑い興じて、只一人打ち萎《しお》れているりよを促し立てて帰った。
寺に一夜《ひとよ》寝て、二十九日の朝三人は旅に立った。文吉は荷物を負って一歩跡を附いて行く。亀蔵が奉公前にいたと云うのをたよりにして、最初|上野国《こうずけのくに》高崎をさして往くのである。
九郎右衛門も宇平も文吉も、高崎をさして往くのに、亀蔵が高崎にいそうだと云う気にはなっていない。どこをさして往こうと云う見当が附かぬので、先ず高崎へでも往って見ようと思うに過ぎない。亀蔵と云う、無頼漢とも云えば云われる、住所不定の男のありかを、日本国中で捜そうとするのは、米倉の中の米粒一つを捜すようなものである。どの俵に手を着けて好いか分からない。然しそれ程の覚束《おぼつか》ない事が、一方から見れば、是非共|為遂《しと》げなくてはならぬ事である。そこで一行は先ず高崎と云う俵をほどいて見ることにした。
高崎では踪跡《そうせき》が知れぬので、前橋へ出た。ここには榎町《えのきまち》の政淳寺《せいじゅんじ》に山本家の先祖の墓がある。九郎右衛門等はそれに参って成功を祈った。そこから藤岡に出て、五六日いた。そこから武蔵国《むさしのくに》の境を越して、児玉村に三日いた。三峯山《みつみねさん》に登っては、三峯|権現《ごんげん》に祈願を籠《こ》めた。八王子を経て、甲斐国《かいのくに》に入って、郡内、甲府を二日に廻って、身延山《みのぶさん》へ参詣《さんけい》した。信濃国《しなののくに》では、上諏訪《かみすわ》から和田峠を越えて、上田の善光寺に参った。越後国《えちごのくに》では、高田を三日、今町を二日、柏崎《かしわざき》、長岡を一日、三条、新潟を四日で廻った。そこから加賀街道に転じて、越中国《えっちゅうのくに》に入って、富山に三日いた。この辺は凶年の影響を蒙《こうむ》ることが甚《はなはだ》しくて、一行は麦に芋大根を切り交ぜた飯を食って、農家の土間に筵《むしろ》を敷いて寝た。飛騨国《ひだのくに》では高山に二日、美濃国《みののくに》では金山《かなやま》に一日いて、木曽路《きそじ》を太田に出た。尾張国《おわりのくに》では、犬山に一日、名古屋に四日いて、東海道を宮に出て、佐屋を経て伊勢国《いせのくに》に入り、桑名、四日市、津を廻り、松坂に三日いた。
一行が二日以上泊るのは、稀に一日の草臥休《くたびれやすみ》をすることもあるが、大抵何か手掛りがありそうに思われるので、特別捜索をするのである。松坂では殿町に目代《もくだい》岩橋某と云うものがいて、九郎右衛門等の言うことを親切に聞き取って、綿密な調べをしてくれた。その調べ上げた事実を言って聞せられた時は、一行は暗中に燈火《ともしび》を認めたような気がしたのである。
松坂に深野屋佐兵衛と云う大商人《おおしょうにん》がある。そこへは紀伊国熊野浦《きいのくにくまのうら》長島外町の漁師|定右衛門《さだえもん》と云うものが毎日|魚《うお》を送ってよこす。その縁で佐兵衛は定右衛門一|家《け》と心安くなっている。然るに定右衛門の長男亀蔵は若い時江戸へ出て、音信《いんしん》不通になったので、二男定助一人をたよりにしている。その亀蔵が今年正月二十一日に、襤褸《ぼろ》を身に纏《まと》って深野屋へ尋ねて来た。佐兵衛は「お前のような不孝者を、親父様《おやじさま》に知らせずに留めて置く事は出来ぬ」と云った。亀蔵はすごすご深野屋の店を立ち去ったが、それを見たものが、「あれは紀州の亀蔵と云う男で、なんでも江戸で悪い事をして、逃げて来たのだろう」と評判した。
後に深野屋へ聞えた所に依ると、亀蔵は正月二十四日に、熊野|仁郷村《にんごうむら》にいるははかたの小父林助の家に来て、置いてくれと頼んだが、林助は貧乏していて、人を置くことが出来ぬと云って、勧めて父定右衛門が許《もと》へ遣《や》った。知人にたよろうとし、それが※[#「りっしんべん+(はこがまえ<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》わぬ段になって、始めて親戚をおとずれ、親戚にことわられて、亀蔵はようよう親許へ帰る気になったらしい。定右衛門の家には二十八日に帰った。
二月中旬に亀蔵は江戸で悪い事をして帰ったのだろうと云う噂《うわさ》が、松坂から定右衛門の方へ聞えた。定右衛門が何をしたかと問うた時、亀蔵は目上の人に創を負わせたと云った。そこで定右衛門と林助とで、亀蔵を坊主にして、高野山《こうやさん》に登らせることにした。二人が剃髪《ていはつ》した亀蔵を三浦坂まで送って別れたのが二月十九日の事である。亀蔵はその時茶の弁慶縞《べんけいじま》の木綿綿入を着て、木綿帯を締め、藍《あい》の股引《ももひき》を穿《は》いて、脚絆を当てていた。懐中には一両持っていた。
亀蔵は二十二日に高野領清水村の又兵衛と云うものの家に泊って、翌二十三
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