りません」宇平は又膝を進めた。「おじさん。あなたはどうしてそんな平気な様子をしていられるのです」
 宇平のこの詞を、叔父は非常な注意の集中を以《もっ》て聞いていた。「そうか。そう思うのか。よく聴《き》けよ。それは武運が拙《つたな》くて、神にも仏にも見放されたら、お前の云う通だろう。人間はそうしたものではない。腰が起《た》てば歩いて捜す。病気になれば寝ていて待つ。神仏《しんぶつ》の加護があれば敵にはいつか逢われる。歩いて行き合うかも知れぬが、寝ている所へ来るかも知れぬ」
 宇平の口角には微《かす》かな、嘲《あざけ》るような微笑が閃《ひらめ》いた。「おじさん。あなたは神や仏が本当に助けてくれるものだと思っていますか」
 九郎右衛門は物に動ぜぬ男なのに、これを聞いた時には一種の気味悪さを感じた。「うん。それは分からん。分からんのが神仏《かみほとけ》だ」
 宇平の態度は不思議に恬然《てんぜん》としていて、いつもの興奮の状態とは違っている。「そうでしょう。神仏《かみほとけ》は分からぬものです。実はわたしはもう今までしたような事を罷《や》めて、わたしの勝手にしようかと思っています」
 九郎右衛門の目は大きく開いて、眉が高く挙がったが、見る見る蒼ざめた顔に血が升《のぼ》って、拳《こぶし》が固く握られた。
「ふん。そんなら敵討は罷《やめ》にするのか」
 宇平は軽く微笑《ほほえ》んだ。おこったことのない叔父をおこらせたのに満足したらしい。「そうじゃありません。亀蔵は憎い奴ですから、若し出合ったら、ひどい目に逢わせて遣ります。だが捜すのも待つのも駄目ですから、出合うまではあいつの事なんか考えずにいます。わたしは晴がましい敵討をしようとは思いませんから、助太刀もいりません。敵が知れれば知れる時知れるのですから、見識人《みしりにん》もいりません。文吉はこれからあなたの家来にしてお使下さいまし。わたしは近い内にお暇をいたす積です」
 九郎右衛門が怒は発するや否や忽《たちま》ち解けて、宇平のこの詞《ことば》を聞いている間に、いつもの優《やさ》しいおじさんになっていた。只何事をも強《し》いて笑談《じょうだん》に取りなす癖のおじが、珍らしく生真面目《きまじめ》になっていただけである。
 宇平が席を起って、木賃宿の縁側を降りる時、叔父は「おい、待て」と声を掛けたが、宇平の姿はもう見えなかった。しかし宇平がこれきりいなくなろうとは、叔父は思わなかった。

 夕方に文吉が帰ったので、九郎右衛門は近所へ往って宇平を尋ねて来いと云った。宇平は折々町の若い者の象棋《しょうぎ》をさしている所などへ往った。最初は敵の手掛りを聞き出そうとして、雑談に耳を傾けていたのだが、後には只何となしにそこで話していたのである。文吉はそう云う家を尋ねた。しかしどこにもいなかった。その晩には遅くなるまで九郎右衛門が起きていて、宇平の帰るのを待ったが、とうとう帰らなかった。
 文吉は宇平を尋ねて歩いた序《ついで》に、ふと玉造豊空稲荷《たまつくりほうくういなり》の霊験《れいげん》の話を聞いた。どこの誰《たれ》の親の病気が直ったとか、どこの誰は迷子の居所を知らせて貰ったとか、若い者共が評判し合っていたのである。文吉は九郎右衛門にことわって、翌日行水して身を潔《きよ》めて、玉造をさして出て行った。敵のありかと宇平の行方とを伺って見ようと思ったのである。
 稲荷《いなり》の社《やしろ》の前に来て見れば、大勢の人が出入《でいり》している。数えられぬ程多く立ててある、赤い鳥居が重なり合っていて、群集はその赤い洞《ほら》の中で蠢《うごめ》いているのである。外廻りには茶店が出来ている。汁粉屋がある。甘酒屋がある。赤い洞の両側には見せ物小屋やらおもちゃ店《みせ》やらが出来ている。洞を潜《くぐ》って社に這入ると、神主がお初穂と云って金を受け取って、番号札をわたす。伺を立てる人をその番号順に呼び入れるのである。
 文吉は持っていただけの銭を皆お初穂に上げた。しかし順番がなかなか来ぬので、とうとう日の暮れるまで待った。何も食わずに、腹が耗《へ》ったとも思わずにいたのである。暮六《くれむ》つが鳴ると、神主が出て「残りの番号の方は明朝お出《いで》なさい」と云った。
 次の日には未明に文吉が社へ往った。番号順は文吉より前なのに、まだ来ておらぬ人があったので、文吉は思ったより早く呼び出された。文吉が沙《すな》に額を埋《うず》めて拝みながら待っていると、これも思ったより早く、神主が出て御託宣を取り次いだ。「初の尋人《たずねにん》は春頃から東国の繁華な土地にいる。後の尋人の事は御託宣が無い」と云った。
 文吉は玉造から急いで帰って、御託宣を九郎右衛門に話した。
 九郎右衛門はそれを聞いて云った。「そうか。東国の繁華な土地と云えば
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