形に添うように離れぬと云うのであった。
さすがの九郎右衛門も詞の返しようがなかった。宇平は蘇《よみがえ》った思《おもい》をした。
それからは三人が摂津国屋を出て、木賃宿《きちんやど》に起臥《おきふし》することになった。もうどこをさして往って見ようと云う所もないので、只|已《や》むに勝《まさ》る位の考で、神仏の加護を念じながら、日ごとに市中を徘徊《はいかい》していた。
そのうち大阪に咳逆《がいぎゃく》が流行して、木賃宿も咳《せき》をする人だらけになった。三月の初に宇平と文吉とが感染して、熱を出して寝た。九郎右衛門は自分の貰った銭で、三人が一口ずつでも粥《かゆ》を啜《すす》るようにしていた。四月の初に二人が本復すると、こん度は九郎右衛門が寝た。体は巌畳《がんじょう》でも、年を取っているので、容体《ようだい》が二人より悪い。人の好い医者を頼んで見て貰うと、傷寒《しょうかん》だと云った。それは熱が高いので、譫語《うわこと》に「こら待て」だの「逃がすものか」だのと叫んだからである。
木賃宿の主人が迷惑がるのを、文吉が宥《なだ》め賺《すか》して、病人を介抱しているうちに、病附《やみつき》の急劇であったわりに、九郎右衛門の強い体は少い日数《ひかず》で病気に打ち勝った。
九郎右衛門の恢復《かいふく》したのを、文吉は喜んだが、ここに今一つの心配が出来た。それは不断から機嫌の変わり易《やす》い宇平が、病後に際立《きわだ》って精神の変調を呈して来たことである。
宇平は常はおとなしい性《たち》である。それにどこか世馴れぬぼんやりした所があるので、九郎右衛門は若殿と綽号《あだな》を附けていた。しかしこの若者は柔い草葉の風に靡《なび》くように、何事にも強く感動する。そんな時には常蒼《つねあお》い顔に紅《くれない》が潮《ちょう》して来て、別人のように能弁になる。それが過ぎると反動が来て、沈鬱《ちんうつ》になって頭を低《た》れ手を拱《こまね》いて黙っている。
宇平がこの性質には、叔父も文吉も慣れていたが、今の様子はそれとも変って来ているのである。朝夕《ちょうせき》平穏な時がなくなって、始終興奮している。苛々《いらいら》したような起居振舞《たちいふるまい》をする。それにいつものような発揚の状態になって、饒舌《おしゃべり》をすることは絶えて無い。寧《むしろ》沈黙勝だと云っても好い。只興奮しているために、瑣細《ささい》な事にも腹を立てる。又何事もないと、わざわざ人を挑《いど》んで詞尻《ことばじり》を取って、怒《いかり》の動機を作る。さて怒が生じたところで、それをあらわに発動させずに、口小言を言って拗《す》ねている。
こう云う状態が二三日続いた時、文吉は九郎右衛門に言った。「若檀那《わかだんな》の御様子はどうも変じゃございませんか」文吉は宇平の事を、いつか若檀那と云うことになっていた。
九郎右衛門は気にも掛けぬらしく笑って云った。「若殿か。あの御機嫌の悪いのは、旨《うま》い物でも食わせると直るのだ」
九郎右衛門のこう云ったのも無理はない。三人は日ごとに顔を見合っていて気が附かぬが、困窮と病痾《びょうあ》と羇旅《きりょ》との三つの苦艱《くげん》を嘗《な》め尽して、どれもどれも江戸を立った日の俤《おもかげ》はなくなっているのである。
文吉がこの話をした翌日の朝であった。相宿《あいやど》のものがそれぞれ稼《かせぎ》に出た跡で、宇平は九郎右衛門の前に膝《ひざ》を進めて、何か言い出しそうにして又黙ってしまった。
「どうしたのだい」と叔父が云った。
「実は少し考えた事があるのです」
「なんでも好いから、そう云え」
「おじさん。あなたはいつ敵に逢えると思っていますか」
「それはお前にも分かるまいが、己《おれ》にも分からんのう」
「そうでしょう。蜘蛛《くも》は網《い》を張って虫の掛かるのを待っています。あれはどの虫でも好いのだから、平気で待っているのです。若し一匹の極《き》まった虫を取ろうとするのだと、蜘蛛の網は役に立ちますまい。わたしはこうして僥倖《ぎょうこう》を当にしていつまでも待つのが厭《いや》になりました」
「随分己もお前も方々歩いて見たじゃないか」
「ええ。それは歩くには歩きましたが」と云い掛けて、宇平は黙った。
「はてな。歩くには歩いたが、何が悪かったと云うのか。構わんから言え」
宇平はやはり黙って、叔父の顔をじっと見ていたが、暫くして云った。「おじさん。わたし共は随分歩くには歩きました。しかし歩いたってこれは見附からないのが当前《あたりまえ》かも知れません。じっとして網を張っていたって、来て掛かりっこはありませんが、歩いていたって、打《ぶ》っ附《つ》からないかも知れません。それを先へ先へと考えてみますと、どうも妙です。わたしは変な心持がしてな
前へ
次へ
全14ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング