り繕って寺を出たが、皆|忌々《いまいま》しがる中に、宇平は殊《こと》に落胆した。
 一行は福田、小川等に礼を言って長崎を立って、大村に五日いて佐賀へ出た。この時九郎右衛門が足痛を起して、杖《つえ》を衝《つ》いて歩くようになった。筑後国《ちくごのくに》では久留米《くるめ》を五日尋ねた。筑前国では先《ま》ず大宰府天満宮に参詣《さんけい》して祈願を籠め、博多《はかた》、福岡に二日いて、豊前国|小倉《こくら》から舟に乗って九州を離れた。

 長門国《ながとのくに》下関に舟で渡ったのが十二月六日であった。雪は降って来る。九郎右衛門の足痛は次第に重るばかりである。とうとう宇平と文吉とで勧めて、九郎右衛門を一旦《いったん》姫路へ帰すことにした。九郎右衛門は渋りながら下関から舟に乗って、十二月十二日の朝播磨国|室津《むろのつ》に着いた。そしてその日のうちに姫路の城下|平《ひら》の町《まち》の稲田屋に這入《はい》った。本意を遂げるまでは、飽くまでも旅中の心得でいて、倅の宅には帰らぬのである。
 宇平は九郎右衛門を送って置いて、十二月十日に文吉を連れて下関を立った。それから周防国《すおうのくに》宮市に二日いて、室積《むろづみ》を経て、岩国の錦帯橋へ出た。そこを三日捜して、舟で安芸国《あきのくに》宮島へ渡った。広島に八日いて、備後国《びんごのくに》に入り、尾の道、鞆《とも》に十七日、福山に二日いた。それから備前国岡山を経て、九郎右衛門の見舞|旁《かたがた》姫路に立ち寄った。
 宇平、文吉が姫路の稲田屋で九郎右衛門と再会したのは、天保六年|乙未《きのとひつじ》の歳正月二十日であった。丁度その時|広岸《こうがん》(広峯)山《ざん》の神主《かんぬし》谷口某と云うものが、怪しい非人の事を知らせてくれたので、九郎右衛門が文吉を見せに遣った。非人は石見産《いわみうまれ》だと云っていた。人に怪まれるのは脇差を持っていたからであった。しかし敵ではなかった。
 九郎右衛門の足はまだなかなか直らぬので、宇平は二月二日に文吉を連れて姫路を立って、五日に大阪に着いた。宿は阿波座《あわざ》おくひ町の摂津国屋《つのくにや》である。然るに九郎右衛門は二人を立たせてから間もなく、足が好くなって、十四日には姫路を立って、明石から舟に乗って、大阪へ追いかけて往った。

 三人は摂津国屋に泊って、所々を尋ね廻るうちに、路銀が尽きそうになった。そこで宿屋の主人の世話で、九郎右衛門は按摩《あんま》になり、文吉は淡島《あわしま》の神主になった。按摩になったのは、柔術の心得があるから、按摩の出来ぬ筈はないと云うのであった。淡島の神主と云うのは、神社で神に仕えるものではない。胸に小さい宮を懸けて、それに紅《もみ》で縫った括猿《くくりざる》などを吊《つ》り下げ、手に鈴を振って歩く乞食《こじき》である。
 その時九郎右衛門、宇平の二人は文吉に暇《いとま》を遣ろうとして、こう云った。これまでも我々は只お前と寝食を共にすると云うだけで、給料と云うものも遣らず、名のみ家来にしていたのに、お前は好く辛抱して勤めてくれた。しかしもう日本全国をあらかた遍歴して見たが、敵はなかなか見附からない。この按排《あんばい》では我々が本意を遂げるのは、いつの事か分らない。事によったらこのまま恨《うらみ》を呑《の》んで道路にのたれ死をするかも知れない。お前はこれまで詞《ことば》で述べられぬ程の親切を尽してくれたのだから、どうもこの上一しょにいてくれとは云い兼ねる。勿論《もちろん》敵の面体《めんてい》を見識らぬ我々は、お前に別れては困るに違ないが、もはや是非に及ばない。只運を天に任せて、名告《なの》り合う日を待つより外はない。お前は忠実この上もない人であるから、これから主取《しゅうどり》をしたら、どんな立身も出来よう。どうぞここで別れてくれと云うのであった。
 九郎右衛門は兼て宇平に相談して置いて、文吉を呼んでこの申渡《もうしわたし》をした。宇平は側《そば》で腕組をして聞いていたが、涙は頬を伝って流れていた。
 黙って衝《つ》っ伏《ぷ》して聞いていた文吉は、詞の切れるのを待って、頭を擡《もた》げた。※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った目は異様に赫《かがや》いている。そして一声「檀那《だんな》、それは違います」と叫んだ。心は激して詞はしどろであったが、文吉は大凡《おおよそ》こんなことを言った。この度《たび》の奉公は当前《あたりまえ》の奉公ではない。敵討の供に立つからは、命はないものである。お二人が首尾好く本意を遂げられれば好し、万一敵に多勢の悪者でも荷担して、返討《かえりうち》にでも逢われれば、一しょに討たれるか、その場を逃れて、二重の仇《あだ》を討つかの二つより外ない。足腰の立つ間は、よしやお暇が出ても、影の
前へ 次へ
全14ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング