江戸だが、いかに亀蔵が横着でも、うかと江戸には戻っていまい。成程我々が敵討に余所《よそ》へ出たと云うことは、噂に聞いたかも知れぬが、それにしても外の親戚も気を附けているのだから、どうも江戸に戻っていそうにない。お前は神主に一杯食わされたのじゃないか。後の尋人が知れぬと云うのも、お初穂がもう一度貰いたいのかも知れん」
文吉はひどく勿体《もったい》ながって、九郎右衛門の詞を遮《さえぎ》るようにして、どうぞそう云わずに御託宣を信ずる気になって貰いたいと頼んだ。
九郎右衛門は云った。「いや。己は稲荷様を疑いはせぬ。只どうも江戸ではなさそうに思うのだ」
こう云っている所へ、木賃宿の亭主が来た。今|家主《いえぬし》の所へ呼ばれて江戸から来た手紙を貰ったら、山本様へのお手紙であったと云って、一封の書状を出した。九郎右衛門が手に受け取って、「山本宇平殿、同《おなじく》九郎右衛門殿、桜井須磨右衛門、平安」と読んだ時、木賃宿でも主従の礼儀を守る文吉ではあるが、兼て聞き知っていた後室《こうしつ》の里からの手紙は、なんの用事かと気が急《せ》いて、九郎右衛門が披《ひら》く手紙の上に、乗り出すようにせずにはいられなかった。
敵討の一行が立った跡で、故人三右衛門の未亡人は、里方桜井須磨右衛門の家で持病の直るのを待った。暫くすると難儀に遭《あ》ってから時が立ったのと、四方《あたり》が静になったのとのために、頭痛が余程軽くなった。実弟須磨右衛門は親切にはしてくれるが、世話にばかりなってもいにくいので、未亡人は余り忙《せわ》しくない奉公口をと云って捜して、とうとう小川町|俎橋際《まないたばしぎわ》の高家衆《こうけしゅう》大沢|右京大夫基昭《うきょうたいふもとあき》が奥に使われることになった。
宇平の姉りよは叔母婿原田方に引き取られてから、墓参の時などには、樒《しきみ》を売る媼《うば》の世間話にも耳を傾けて、敵のありかを聞き出そうとしていたが、いつか忌《いみ》も明けた。そこで所々《しょしょ》に一二箇月ずつ奉公していたら、自然手掛りを得るたつきにもなろうと思い立って、最初は本所の或る家に住み込んだ。これは遠い親戚に当るので、奉公人やら客分やら分からぬ待遇を受けて、万事の手伝をしたのである。次に赤坂の堀と云う家の奥に、大小母《おおおば》が勤めていたので、そこへ手伝に往った。次に麻布《あざぶ》の或る家に奉公した。次に本郷弓町の寄合衆《よりあいしゅう》本多|帯刀《たてわき》の家来に、遠い親戚があるので、そこへ手伝に往った。こんな風に奉公先を取り替えて、天保六年の春からは御茶の水の寄合衆酒井|亀之進《かめのしん》の奥に勤めていた。この酒井の妻は浅草の酒井石見守|忠方《ただみち》の娘である。
未亡人もりよも敵のありかを聞き出そうと思っていて、中にもりよは昼夜それに心を砕いていたが、どうしても手掛りがない。九郎右衛門や宇平からは便《たより》が絶々《たえだえ》になるのに、江戸でも何一つしでかした事がない。女子《おなご》達の心細さは言おう様がなかった。
月日が立って、天保六年の五月の初になった。或る日未亡人の里方の桜井須磨右衛門が浅草の観音に参詣して、茶店に腰を掛けていると、今まで歇《や》んでいた雨が又一しきり降って来た。その時茶店の軒へ駆け込んで雨を避ける二人|連《づれ》の遊人体《あそびにんてい》の男がある。それが小降になるのを待ちながら、軒に立ってこんな話をした。
一人が云った。「お前に話そうと思って忘れていたが、ゆうべの事だった。丁度今のように神田で雨に降り出されて、酒問屋《さかどいや》の戸の締っている外でしゃがんでいると、そこへ駆け込んだ奴《やつ》がある。見れば、あの酒井様にいた亀じゃあねえか。己はびっくりしたよ。好くずうずうしく帰って来やがったと思いながら、おい、亀と声を掛けたのだ。すると、えと云って振り向いたが、人違《ひとちがえ》をしなさんな、おいらあ虎《とら》と云うもんだと云っといて、まだ雨がどしどし降っているのに、駆け出して行ってしまやがった」
今一人が云った。「じゃあ又帰っていやがるのだ。太《ふて》え奴だなあ」
須磨右衛門は二人に声を掛けて、その亀と云う男は何者だと問うた。二人は侍に糺《ただ》されるのをひどく当惑がる様子であったが、おとどしの暮に大手の酒井様のお邸で悪い事をして逃げた仲間《ちゅうげん》の亀蔵の事だと云った。そして最後に「なに、ちょいと見たのですから、全く人違で、本当に虎と云うものだったかも知れません」と詞を濁した。只見掛けたと云うだけのこの二人を取り押さえても、別に役に立ちそうではなく、又荒立てて亀蔵に江戸を逃げられてはならぬと思って、須磨右衛門は穏便に二人を立ち去らせた。
大阪で九郎右衛門が受け取ったのは、桜井から亀蔵の江
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