いる。石田は雨覆をはおって馬で司令部に出る。東京から新《あらた》に傭って来た別当の虎吉が、始て伴《とも》をするとき、こう云った。
「旦那《だんな》。馬の合羽《かっぱ》がありませんがなあ。」
「有る。」
「ええ。それは鞍《くら》だけにかぶせる小さい奴ならあります。旦那の膝に掛けるのがありません。」
「そんなものはいらない。」
「それでもお膝が濡れます。どこの旦那も持っています。」
「膝なんざあ濡れても好《い》い。馬装に膝掛なんというものはない。外の人は持っておっても、己《おれ》はいらない。」
「へへへへ。それでは野木さんのお流儀で。」
「己がいらないのだ。野木閣下の事はどうか知らん。」
「へえ。」
その後は別当も敢て言わない。
石田は司令部から引掛《ひきがけ》に、師団長はじめ上官の家に名刺を出す。その頃は都督《ととく》がおられたので、それへも名刺を出す。中には面会せられる方《かた》もある。内へ帰ってみると、部下のものが名刺を置きに来るので、いつでも二三枚ずつはある。商人が手土産なんぞを置いて帰ったのもある。そうすると、石田はすぐに島村に持たせて返しに遣る。それだから、島村は物を貰うの
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