ハ当はあれで麦を量りはしないかと云うのである。婆あさんは、別当の桝を使ったのは見たことがないと云った。石田は「そうか」と云って、ついと部屋に帰った。そして将校行李の蓋を開けて、半切毛布に包んだ箱を出した。Havana の葉巻である。石田は平生|天狗《てんぐ》を呑《の》んでいて、これならどんな田舎《いなか》に行軍をしても、補充の出来ない事はないと云っている。偶《たま》には上等の葉巻を呑む。そして友達と雑談をするとき、「小説家なんぞは物を知らない、金剛石《こんごうせき》入の指環《ゆびわ》を嵌《は》めた金持の主人公に Manila を呑ませる」なぞと云って笑うのである。石田が偶に呑む葉巻を毛布にくるんで置くのは、火薬の保存法を応用しているのである。石田はこう云っている。己《おれ》だって大将にでもなれば、烟草《たばこ》も毎日新しい箱を開けるのだ。今のうちは箱を開けてから一月《ひとつき》も保存しなくてはならないのだから、工夫を要すると云っている。
 石田は葉巻に火を附けて、さも愉快げに、一吸《ひとすい》吸って、例の手習机に向った。北向の表庭は、百日紅《さるすべり》の疎《まばら》な葉越に、日が一ぱ
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