「にさして、夾竹桃にはもうところどころ花が咲いている。向いの内の糸車は、今日もぶうんぶうんと鳴っている。
石田は床の間の隅に立て掛けてある洋書の中から 〔La Bruye`re〕 の性格という本を抽《ぬ》き出して、短い鋭い章を一つ読んではじっと考えて見る。又一つ読んではじっと考えて見る。五六章も読んだかと思うと本を措《お》いた。
それから舶来の象牙紙《ぞうげし》と封筒との箱入になっているのを出して、ペンで手紙を書き出した。石田はペンと鉛筆とで万事済ませて、硯《すずり》というものを使わない。稀《まれ》に願届なぞがいれば、書記に頼む。それは陸軍に出てから病気|引籠《ひきこもり》をしたことがないという位だから、めったにいらない。
人から来た手紙で、返事をしなくてはならないのは、図嚢《ずのう》の中に入れているのだから、それを出して片端から返事を書くのである。東京に、中学に這入っている息子を母に附けて置いてある。第一に母に遣る手紙を書いた。それから筆を措かずに二つ三つ書いた。そして母の手紙だけを将校行李にしまって、外の手紙は引き裂いてしまった。
午《ひる》になった。飯を済ませて、さっき手
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