《おんせめくち》にて、御幟を一番に入れ候時、銃丸左の股《もも》に中《あた》り、ようよう引き取り候。その時某四十五歳に候。手創《てきず》平癒《へいゆ》候て後、某は十六年に江戸詰《えどづめ》仰つけられ候《そろ》。
寛永十八年妙解院殿存じ寄らざる御病気にて、御父上に先立《さきだち》、御卒去遊ばされ、当代|肥後守殿光尚《ひごのかみどのみつひさ》公の御代《みよ》と相成り候。同年九月二日には父弥五右衛門景一死去いたし候。次いで正保《しょうほう》二年三斎公も御卒去遊ばされ候。これより先《さ》き寛永十三年には、同じ香木の本末を分けて珍重なされ候仙台中納言殿さえ、少林城《わかばやしじょう》において御薨去《ごこうきょ》なされ候《そろ》。かの末木の香は「世の中の憂きを身に積む柴舟《しばふね》やたかぬ先よりこがれ行《ゆく》らん」と申す歌の心にて、柴舟と銘し、御珍蔵なされ候由に候。
某《それがし》つらつら先考御当家に奉仕《つかえたてまつり》候《そろ》てより以来の事を思うに、父兄ことごとく出格の御引立を蒙《こうむ》りしは言うも更《さら》なり、某一身に取りては、長崎において相役横田清兵衛を討ち果たし候時、松向寺
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