来から根まで見えていて、その根に茂っている草もめったに苅《か》られることがなかった。
 坂の北側はけちな家が軒を並べていて、一番体裁の好《い》いのが、板塀を繞《めぐ》らした、小さいしもた屋、その外《ほか》は手職をする男なんぞの住いであった。店は荒物屋に烟草屋《たばこや》位しかなかった。中に往来の人の目に附くのは、裁縫を教えている女の家で、昼間は格子窓の内に大勢の娘が集まって為事《しごと》をしていた。時候が好くて、窓を明けているときは、我々学生が通ると、いつもべちゃくちゃ盛んにしゃべっている娘共が、皆顔を挙げて往来の方を見る。そして又話をし続けたり、笑ったりする。その隣に一軒格子戸を綺麗《きれい》に拭き入れて、上がり口の叩きに、御影石《みかげいし》を塗り込んだ上へ、折々夕方に通って見ると、打水のしてある家があった。寒い時は障子が締めてある。暑い時は竹簾《たけすだれ》が卸してある。そして為立物師《したてものし》の家の賑やかな為めに、この家はいつも際立ってひっそりしているように思われた。
 この話の出来事のあった年の九月頃、岡田は郷里から帰って間もなく、夕食後に例の散歩に出て、加州の御殿の古
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