岡田さんが六円なら買うと仰《おっし》ゃいましたが、おことわり申したのです」と云う。偶然僕は工面が好かったので言値で買った。二三日立ってから、岡田に逢うと、向うからこう云い出した。
「君はひどい人だね。僕が切角見附けて置いた金瓶梅を買ってしまったじゃないか」
「そうそう君が値を附けて折り合わなかったと、本屋が云っていたよ。君欲しいのなら譲って上げよう」
「なに。隣だから君の読んだ跡を貸して貰えば好《い》いさ」
 僕は喜んで承諾した。こんな風で、今まで長い間壁隣に住まいながら、交際せずにいた岡田と僕とは、往《い》ったり来たりするようになったのである。

     弐《に》

 そのころから無縁坂の南側は岩崎の邸《やしき》であったが、まだ今のような巍々《ぎぎ》たる土塀で囲ってはなかった。きたない石垣が築いてあって、苔《こけ》蒸《む》した石と石との間から、歯朶《しだ》や杉菜が覗いていた。あの石垣の上あたりは平地だか、それとも小山のようにでもなっているか、岩崎の邸の中に這入って見たことのない僕は、今でも知らないが、とにかく当時は石垣の上の所に、雑木が生えたい程生えて、育ちたい程育っているのが、往
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