い建物に、仮に解剖室が置いてあるあたりを過ぎて、ぶらぶら無縁坂を降り掛かると、偶然一人の湯帰りの女がかの為立物師の隣の、寂しい家に這入るのを見た。もう時候がだいぶ秋らしくなって、人が涼みにも出ぬ頃なので、一時人通りの絶えた坂道へ岡田が通り掛かると、丁度今例の寂しい家の格子戸の前まで帰って、戸を明けようとしていた女が、岡田の下駄の音を聞いて、ふいと格子に掛けた手を停《とど》めて、振り返って岡田と顔を見合せたのである。
 紺縮《こんちぢみ》の単物《ひとえもの》に、黒襦子《くろじゅす》と茶献上との腹合せの帯を締めて、繊《ほそ》い左の手に手拭《てぬぐい》やら石鹸箱《シャボンばこ》やら糠袋《ぬかぶくろ》やら海綿やらを、細かに編んだ竹の籠《かご》に入れたのを懈《だる》げに持って、右の手を格子に掛けたまま振り返った女の姿が、岡田には別に深い印象をも与えなかった。しかし結い立ての銀杏返《いちょうがえ》しの鬢《びん》が蝉《せみ》の羽《は》のように薄いのと、鼻の高い、細長い、稍《やや》寂しい顔が、どこの加減か額から頬に掛けて少し扁《ひら》たいような感じをさせるのとが目に留まった。岡田は只それだけの刹那《せ
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