ら外を見れば、高野槙の枝の間から、爽《さわや》かな朝風に、微かに揺れている柳の糸と、その向うの池一面に茂っている蓮《はす》の葉とが見える。そしてその緑の中に、所所に薄い紅《べに》を点じたように、今朝《けさ》開いた花も見えている。北向の家で寒くはあるまいかと云う話はあったが、夏は求めても住みたい所である。
 お玉は物を弁《わきま》えるようになってから、若し身に為合《しあわ》せが向いて来たら、お父っさんをああもして上げたい、こうもして上げたいと、色々に思っても見たが、今目の前に見るように、こんな家にこうして住まわせて上げれば、平生の願《ねがい》が※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》ったのだと云っても好《い》いと、嬉しく思わずにはいられなかった。しかしその嬉しさには一滴の苦い物が交っている。それがなくて、けさお父っさんに逢うのだったら、どんなにか嬉しかろうと、つくづく世の中の儘《まま》ならぬを、じれったくも思うのである。
 箸を置いて、湯呑みに注《つ》いだ茶を飲んでいた爺いさんは、まだついぞ人のおとずれたことのない門《かど》の戸の開《あ》いた時、はっと思って、
前へ 次へ
全167ページ中60ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング