うのでないことは勿論であるが、身を任せることになっている末造が高利貸であったと分かって、その末造を憎むとか、そう云う男に身を任せているのが悔やしいとか、悲しいとか云うのでもない。お玉も高利貸は厭なもの、こわいもの、世間の人に嫌われるものとは、仄《ほの》かに聞き知っているが、父親が質屋の金しか借りたことがなく、それも借りたい金高《きんだか》を番頭が因業で貸してくれぬことがあっても、父親は只困ると云うだけで番頭を無理だと云って怨んだこともない位だから、子供が鬼がこわい、お廻りさんがこわいのと同じように、高利貸と云う、こわいものの存在《ぞんざい》を教えられていても、別に痛切な感じは持っていない。そんなら何が悔やしいのだろう。
 一体お玉の持っている悔やしいと云う概念には、世を怨み人を恨む意味が甚だ薄い。強いて何物をか怨む意味があるとするなら、それは我身の運命を怨むのだとでも云おうか。自分が何の悪い事もしていぬのに、余所《よそ》から迫害を受けなくてはならぬようになる。それを苦痛として感ずる。悔やしいとはこの苦痛を斥《さ》すのである。自分が人に騙《だま》されて棄てられたと思った時、お玉は始て悔や
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