念を起さしめるには、この上もない、適当な機会が、偶然に生じて来たのを喜んだ。
料理が運ばれた頃には、一座はなんとなく一家のものが遊山《ゆさん》にでも出て、料理屋に立ち寄ったかと思われるような様子になっていた。平生妻子に対しては、tyran《チラン》 のような振舞をしているので、妻からは或るときは反抗を以て、或るときは屈従を以て遇せられている末造は、女中の立った跡で、恥かしさに赤くした顔に、つつましやかな微笑を湛《たた》えて酌をするお玉を見て、これまで覚えたことのない淡い、地味な歓楽を覚えた。しかし末造はこの席で幻のように浮かんだ幸福の影を、無意識に直覚しつつも、なぜ自分の家庭生活にこう云う味が出ないかと反省したり、こう云う余所行《よそゆき》の感情を不断に維持するには、どれだけの要約がいるか、その要約が自分や妻に充たされるものか、充たされないものかと商量したりする程の、緻密《ちみつ》な思慮は持っていなかった。
突然塀の外に、かちかちと拍子木を打つ音がした。続いて「へい、何か一枚|御贔屓様《ごひいきさま》を」と云った。二階にしていた三味線の音《ね》が止まって、女中が手摩《てすり》に掴《
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