造が或る女を思い出した。それは自分が練塀町《ねりべいちょう》の裏からせまい露地を抜けて大学へ通勤する時、折々見たことのある女である。どぶ板のいつもこわれているあたりに、年中戸が半分締めてある、薄暗い家があって、夜その前を通って見れば、簷下《のきした》に車の附いた屋台が挽《ひ》き込んであるので、そうでなくても狭い露地を、体を斜《ななめ》にして通らなくてはならない。最初末造の注意を惹《ひ》いたのは、この家に稽古《けいこ》三味線の音《ね》のすることであった。それからその三味線の音の主が、十六七の可哀《かわい》らしい娘だと云うことを知った。貧しそうな家には似ず、この娘がいつも身綺麗にしていて、着物も小ざっぱりとした物を着ていた。戸口にいても、人が通るとすぐ薄暗い家の中へ引っ込んでしまう。何事にも注意深い性質の末造は、わざわざ探るともなしに、この娘が玉《たま》と云う子で、母親がなくて、親爺《おやじ》と二人暮らしでいると云う事、その親爺は秋葉《あきは》の原に飴細工《あめざいく》の床店《とこみせ》を出していると云う事などを知った。そのうちにこの裏店《うらだな》に革命的変動が起った。例の簷下に引き入れ
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