トすぐに跡へ引き返して来た。遠い方の蓮の茎の辺《あたり》を過ぎた頃には、もう右の手に提げている獲ものが見えた。
 石原は太股《ふともも》を半分泥に汚《よご》しただけで、岸に着いた。獲ものは思い掛けぬ大さの雁であった。石原はざっと足を洗って、着物を着た。この辺《へん》はその頃まだ人の往来《ゆきき》が少くて、石原が池に這入《はい》ってから又上がって来るまで、一人も通り掛かったものが無かった。
「どうして持って行こう」と僕が云うと、石原が袴を穿きつつ云った。
「岡田君の外套《がいとう》が一番大きいから、あの下に入れて持って貰うのだ。料理は僕の所でさせる」
 石原は素人家の一間を借りていた。主人の婆あさんは、余り人の好くないのが取柄で、獲ものを分けて遣れば、口を噤《つぐ》ませることも出来そうである。その家は湯島切通しから、岩崎邸の裏手へ出る横町で、曲りくねった奥にある。石原はそこへ雁を持ち込む道筋を手短に説明した。先ずここから石原の所へ往くには、由《よ》るべき道が二条《ふたすじ》ある。即ち南から切通しを経る道と、北から無縁坂を経る道とで、この二条は岩崎邸の内に中心を有した圏を画《えが》いている
前へ 次へ
全167ページ中160ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング