で、おろそかにはしない。道翹《だうげう》と云《い》ふ僧《そう》が出迎《でむか》へて、閭《りよ》を客間《きやくま》に案内《あんない》した。さて茶菓《ちやくわ》の饗應《きやうおう》が濟《す》むと、閭《りよ》が問《と》うた。「當寺《たうじ》に豐干《ぶかん》と云《い》ふ僧《そう》がをられましたか。」
道翹《だうげう》が答《こた》へた。「豐干《ぶかん》と仰《おつし》やいますか。それは先頃《さきころ》まで、本堂《ほんだう》の背後《うしろ》の僧院《そうゐん》にをられましたが、行脚《あんぎや》に出《で》られた切《きり》、歸《かへ》られませぬ。」
「當寺《たうじ》ではどう云《い》ふ事《こと》をしてをられましたか。」
「さやうでございます。僧共《そうども》の食《た》べる米《こめ》を舂《つ》いてをられました。」
「はあ。そして何《なに》か外《ほか》の僧達《そうたち》と變《かは》つたことはなかつたのですか。」
「いえ。それがございましたので、初《はじ》め只《たゞ》骨惜《ほねをし》みをしない、親切《しんせつ》な同宿《どうしゆく》だと存《ぞん》じてゐました豐干《ぶかん》さんを、わたくし共《ども》が大切《たいせつ》にいたすやうになりました。すると或《あ》る日《ひ》ふいと出《で》て行《い》つてしまはれました。」
「それはどう云《い》ふ事《こと》があつたのですか。」
「全《まつた》く不思議《ふしぎ》な事《こと》でございました。或《あ》る日《ひ》山《やま》から虎《とら》に騎《の》つて歸《かへ》つて參《まゐ》られたのでございます。そして其《その》儘《まゝ》廊下《らうか》へ這入《はひ》つて、虎《とら》の背《せ》で詩《し》を吟《ぎん》じて歩《ある》かれました。一|體《たい》詩《し》を吟《ぎん》ずることの好《すき》な人《ひと》で、裏《うら》の僧院《そうゐん》でも、夜《よる》になると詩《し》を吟《ぎん》ぜられました。」
「はあ。活《い》きた阿羅漢《あらかん》ですな。其《その》僧院《そうゐん》の址《あと》はどうなつてゐますか。」
「只今《たゞいま》も明家《あきや》になつてをりますが、折々《おり/\》夜《よる》になると、虎《とら》が參《まゐ》つて吼《ほ》えてをります。」
「そんなら御苦勞《ごくらう》ながら、そこへ御案内《ごあんない》を願《ねが》ひませう。」かう云《い》つて、閭《りよ》は座《ざ》を起《た》つた。
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