い》つても、道教《だうけう》に入《い》つても、佛法《ぶつぱふ》に入《い》つても基督教《クリストけう》に入《い》つても同《おな》じ事《こと》である。かう云《い》ふ人《ひと》が深《ふか》く這入《はひ》り込《こ》むと日々《ひゞ》の務《つとめ》が即《すなは》ち道《みち》そのものになつてしまふ。約《つゞ》めて言《い》へばこれは皆《みな》道《みち》を求《もと》める人《ひと》である。
 この無頓著《むとんちやく》な人《ひと》と、道《みち》を求《もと》める人《ひと》との中間《ちゆうかん》に、道《みち》と云《い》ふものゝ存在《そんざい》を客觀的《かくくわんてき》に認《みと》めてゐて、それに對《たい》して全《まつた》く無頓著《むとんちやく》だと云《い》ふわけでもなく、さればと云《い》つて自《みづか》ら進《すゝ》んで道《みち》を求《もと》めるでもなく、自分《じぶん》をば道《みち》に疎遠《そゑん》な人《ひと》だと諦念《あきら》め、別《べつ》に道《みち》に親密《しんみつ》な人《ひと》がゐるやうに思《おも》つて、それを尊敬《そんけい》する人《ひと》がある。尊敬《そんけい》はどの種類《しゆるゐ》の人《ひと》にもあるが、單《たん》に同《おな》じ對象《たいしやう》を尊敬《そんけい》する場合《ばあひ》を顧慮《こりよ》して云《い》つて見《み》ると、道《みち》を求《もと》める人《ひと》なら遲《おく》れてゐるものが進《すゝ》んでゐるものを尊敬《そんけい》することになり、こゝに言《い》ふ中間人物《ちゆうかんじんぶつ》なら、自分《じぶん》のわからぬもの、會得《ゑとく》することの出來《でき》ぬものを尊敬《そんけい》することになる。そこに盲目《まうもく》の尊敬《そんけい》が生《しやう》ずる。盲目《まうもく》の尊敬《そんけい》では、偶《たま/\》それをさし向《む》ける對象《たいしやう》が正鵠《せいこく》を得《え》てゐても、なんにもならぬのである。

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 閭《りよ》は衣服《いふく》を改《あらた》め輿《よ》に乘《の》つて、台州《たいしう》の官舍《くわんしや》を出《で》た。從者《じゆうしや》が數《すう》十|人《にん》ある。
 時《とき》は冬《ふゆ》の初《はじめ》で、霜《しも》が少《すこ》し降《ふ》つてゐる。椒江《せうこう》の支流《しりう》で、始豐溪《しほう
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