喩《ひゆ》を御引きになりました。河の流が今日流れて居る處は昔から流れて居る處ではない、必ず河流の方向は變つて居るだらう、さう云ふ變遷の如く此の假名遣の事も考へねばならぬと云ふやうに言はれました。丁度 Mueller の書いたものに矢張同じやうな譬《たとへ》があります。言語を河に譬へてあります。言語は流水の如きものであつて必ず變遷する、そこで之を文語として固めてしまふと云ふと、池水のやうになつて腐る、それが腐つてしまふと云ふと、初め排斥せられた方言が何處《どこ》かに殘つて居て、下行水と云ふやうな風に、何處かに殘つて居つて、そのものが何時か頭を持上げて革命的に新しい文語が起つて來る。斯う云ふ譬を引いて居ります。故に此の池水のやうに文語が腐らないやうに假名遣を訂すのは必要でありますけれども、一旦文語となつたものは是れは法則である、正しいものであると云ふことを認めて宜しいかと思ひます。Mueller は同じ工合に又他の譬を使つて居ります。土耳古《トルコ》王は子供の時に遊友達があると云ふと、自分が位に即くと友達を絞殺してしまふ、自分が一人で權を握る。併し言葉は或る方言が勢力を得て文語になつても、
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