を Mueller は二つに別つてをりまして、言葉が本當に生長するのが本當の變遷である、それから言葉が衰替して來るのは別であると云つて居りますが、無論生長と云ふことは口語にしか無いのでありまして、假名遣にはないのでありますから、さうして見ると衰替現象であるのは明白であります。此の衰替の中でも殊に定家假名遣などは或時代の一の病氣のやうに見られるのであります。芳賀博士は少し之に付いて杞憂《きいう》を抱いて御出でになる。それは若し斯う云ふ時代の中世の變遷を認めなかつたならば、鎌倉以後の文學が度外視せられはすまいかと云ふのであります。其の主もなる證據は所謂「いひかけ」が證據になつて居る。是れは私はさうは思ひませぬ。「いひかけ」と云ふものは古代は少かつたのであります。萬葉集あたりは極く少い。「名が立つ」を「立田山」にかける等、成程皆同音である。同じ音でなければ「いひかけ」になつて居ない。然るに既に定家卿より前にも、是れが變化して來まして、變つた音の「いひかけ」がある。俊成卿は逢《あ》ひと云ふ波《は》行の「あひ」を草木の和行の藍《あゐ》に、其の外戀を木居《こゐ》にかける。こんな「いひかけ」が出て來
前へ 次へ
全42ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング