柏軒が京都にゐて江戸の嗣子徳安並に門人等に与へた書に、「兼与大小神祇乍恐同心合意候間、一切災害不加正直忠信之人祈願仕候間、其地吾一家に不限、知識正真、忠心善意善行之者、被災害事者決無之、(中略)唯一途に正真忠信に奉神奉先接人憐物関要に候」と云つてある。その信念のいかに牢固であつたかを徴するに足るのである。此書は上《かみ》に其全文を引いて置いた。
柏軒は屡神の託宣を受けたと称した。松田氏は其一例を記憶してゐて語つた。「柏軒先生は毎年八月二十五日に亀井戸の天満宮に詣でた。其日には門人数人をしたがへ、神田川より舟に乗つて往つた。小野|富穀《ふこく》の如きは例として随従した。安政三年八月二十五日に門人数人が先生の終日家に帰らぬを予期して、相率《あひひきゐ》て仮宅に遊んだ。わたくしも此横著者の一人であつた。然るに此日には先生は亀井戸に往かずに、書斎に籠つて日を暮らした。是は天神の託宣に依つて門を出でなかつたのである。此日は二日前より雨が少しづつ降つてゐたが、夜に入つて暴風雨となつた。江戸の被害は前年の地震に譲らず、亀井戸辺では家が流れ人が溺れた。」
柏軒は又人の病を治して薬方の適応を知るに苦み、神に祈祷して決することがあつた。
その三百二十七
わたくしは此より柏軒の門人の事を言はうとおもふ。しかし蘭軒門人録、榛軒門人録は良子刀自所蔵の文書中に存してゐて、独柏軒のもののみが無い。歴世略伝には只九人の名が載せてある。「門弟。松田道夫、塩田真、志村玄叔、平川良栄、清川安策、岡西養玄(後岡寛斎)、成田元章、斎木文礼、内田養三(岡西以下福山藩。)」
此等の門人中主として師家のために内事に任じたものは清川、志村、塩田の三人で、外事に任じたものは松田であつたと云ふ。
清川安策孫の事は既に榛門の一人として上《かみ》に載せてある。しかしわたくしは後に堀江督三さんを介し、孫の継嗣魁軒さんに就いて家乗を閲《けみ》することを得たから、此に其梗概を補叙する。
蘭門の清川|※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]《がい》は家世より言へば孫の祖父、実は孫の父であつた。是は既に云つた如く孫が所謂順養子となつたからである。
※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]、字《あざな》は吉人《きつじん》、靄※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]《あいとん》、靄軒、梧陰等の号があつた。居る所に名けて誠求堂と云つた。本榎本氏、小字《をさなな》を武平と云つた。
※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]の生父榎本玄昌も亦医を業とした。※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]は其次男として寛政四年に生れた。文化元年十三歳の時※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]の兄|友春《いうしゆん》に汚行があつて、父玄昌はこれを恥ぢて自刃した。※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]は兄の許にあるを屑《いさぎよし》とせずして家を出で、経学の師嘉陵村尾源右衛門と云ふものに倚つた。村尾は※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]をして犬塚某の養子たらしめた。某の妻※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]を悪《にく》んで虐遇すること甚しかつた。※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]は犬塚氏を去り、鎌倉の寺院に寓し、写経して口を糊した。
※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]は此時に至るまで家業を修めなかつたが、一日《あるひ》医とならむとする志を立て、始て蘭軒の門に入つた。
蘭軒は※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]をして清川金馬の養子たらしめた。時に文化十三年、※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]は二十五歳にして昌蔵と改称し、後又玄策、玄道と称した。
文政十年、※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]三十六歳の時嫡男|徴《ちよう》が生れた。初の妻宝生氏の出である。此年※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]は中風のために右半身不随になり、且一目失明した。按ずるに後年蘭軒の姉正宗院の寿宴のとき、※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]の伊沢氏に寄せた書は此病の事を知つた後、始て十分に会得することが出来るのである。
天保五年徴が八歳になつたので、※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]はこれをして佐藤一斎に従遊せしめた。九年徴は十二歳にして榛軒の門人となつた。是年又※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]の次男孫が生れた。継室|柵子《さくこ》の出である。柵子、後道子と云ふ。柴田|芸庵《うんあん》の妹である。按ずるに渋江氏の伝ふる所の※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]が窮時の逸事は、文政の初より天保の初に至る間の事であらう。
十年七月二十八日※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]は四十八歳にして将軍|家慶《いへよし》に謁した。行歩不自由の故を以て城内に竹杖を用ゐることを許された。
十四年次男孫六歳にして長戸得斎の門に入つた。
弘化二年嫡男徴十九歳にして豊後岡の城主中川修理大夫|久昭《ひさあき》に仕へ、四年二十一歳にして侍医となつた。
嘉永元年孫十一歳にして榛軒の門に入つた。五年榛軒が歿して、孫は十五歳にして柏軒の門に転じた。按ずるに徴と孫とは皆榛門にゐたのに、門人録は徴を佚して、独り孫を載せてゐる。又按ずるに孫は小字《をさなな》を昌蔵と云ひ、後安策と改めたが、此改称は早く榛軒在世の時に於てせられた。魁軒さんの蔵幅に榛軒の柏軒に与へた書がある。「昨日御相談昌蔵命名之儀、愈安策に仕候。安全之策急に出所見え不申候。賈誼伝に者治安策と見え申候。先認指上申候。(中略。)桑軒とも御相談可被下候。(中略。)燈市後一日。」桑軒は未だ考へない。或は徴の号|棗軒《さうけん》を一に桑軒にも作つたものか。
その三百二十八
わたくしは柏軒門人清川安策孫の事を記して、清川氏の家乗を抄出し、嘉永五年に※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]の次男たる孫が師榛軒を失つて、転じて柏軒の門に入つたと云つた。当時父※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]は六十歳、嫡男にして岡藩に仕へた徴は二十六歳、次男孫は十五歳であつた。
安政三年には孫が右脚の骨疽《こつそ》に罹つて、起行することの出来ぬ身となつた。此より孫は戸を閉ぢて書を読むこと数年であつた。
四年徴が躋寿館に召されて医心方校刊の事に参与した。時に年三十一であつた。
六年七月九日※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]が六十八歳にして歿した。是より先※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]は向島小梅村に隠れ棲んで吟詠を事としてゐた。現に梅村詩集一巻があつて家に蔵せられてゐる。※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]は再び娶つた。前妻宝生氏には子徴、女《むすめ》栄《えい》があつて、栄は鳥取の医官田中某に嫁した。継室柴田氏には息《むすこ》孫《そん》、女《むすめ》幹《みき》があつて、幹は新発田の医官宮崎某に嫁した。按ずるに栄の嫁する所の田中氏は棠軒の生家である。是に由つて観れば、木挽町の柴田氏と云ひ、鳥取の田中氏と云ひ、実は皆棠軒の姻戚である。
十一月徴が父の称玄道を襲《つ》いだ。その受くる所の秩禄は二十五人扶持であつた。岡藩主久昭は夙《はや》く父※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]に所謂出入扶持十人扶持を給してゐたので、徴は弘化丁未に侍医を拝して受けた十五人扶持に加ふるに父の出入扶持を以てせられ、今の禄を得るに至つたのである。※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]の出入扶持には猶|参河《みかは》吉田の松平伊豆守|信古《のぶひさ》の給する五人扶持、上野《かうづけ》高崎の松平右京亮|輝聡《てるとし》の給する二人扶持、播磨姫路の酒井|雅楽頭忠顕《うたのかみたゞあき》の給する若干口があつた。
徴が箕裘《ききう》を継ぐに当つて、孫は出でて多峰《たみね》氏を冒した。時に年二十二で、脚疽は既に癒えてゐた。是は熱海の澡浴が奇功を奏したのである。
文久二年孫は日本橋南新右衛門町に開業した。是は当時幕府の十人衆たりし河村伝右衛門の出力に頼《よ》つたのだと云ふ。時に年二十五であつた。
既にして次年癸亥に至り、柏軒が京都の旅寓に病んだ。孫は報を得て星馳《せいち》入洛し、師の病牀に侍したのであつた。当時江戸にある兄清川玄道徴は三十七歳、京都にある弟多峰安策孫は二十六歳であつた。
松田氏の語る所に拠れば、松田氏より長ずること一歳の孫は、平生柏軒の最も愛する所で、嘗て女《ぢよ》国を以てこれに配せむとしたが、事に阻げられて果さず、国は遂に去つて狩谷矩之に適《ゆ》いたのだと云ふ。
孫は京都にあつて喪に居ること数日であつたが、忽ち江戸の生母柴田氏が重患に罹つたことを聞いた。帰るに及んで、母の病は稍退いてゐた。次年元治紀元甲子四月五日に異母兄徴が歿し、尋《つい》で慶応紀元乙丑八月に母も亦歿した。徴は年を饗《う》くること僅に三十八であつた。
徴、字は子溌《しはつ》、棗軒、杏※[#「こざとへん+烏」、8巻−246−上−3]《きやうう》、月海、済斎の諸号があつた。小字《をさなな》は釣《てう》八、長じて玄策と称し、後玄道を襲いだ。妻三村氏に子道栄、女鉄があつたが、徴の歿した時には皆尚|幼《いとけな》かつた。是に於て孫は多峰氏を棄てゝ生家に復《かへ》り、所謂順養子となつた。甲子二十七歳の時の事である。
その三百二十九
わたくしは柏軒門人の主なるものを列叙せむと欲して、先づ清川安策孫を挙げ、其家乗を抄して慶応紀元の歳に至つた。
慶応紀元に列侯の采地に就くものがあつて、孫の主君中川久昭も亦豊後竹田に赴いた。当時孫は母柴田氏の猶世に在る故を以て扈随することを得なかつた。孫はこれがために一旦藩籍を除かれた。
明治二年六月久昭の東京に移つた時、孫は復籍して三人扶持を受けた。尋《つい》で廃藩の日に至つて、禄十二石を給せられ、幾《いくばく》もなくこれを奉還した。
六年二月孫の家が火《や》け、悉く資財を失ひ、塩田真に救はれて僅に口を糊した。
九年五月孫|行矣《かうい》館の副長となつた。館は柳橋にあつた。古川精一の経営する所の病院で、其長は浅田|栗園《りつゑん》であつた。栗園、初の名は直民、字《あざな》は識二《しきじ》、後に名は惟常、字は識此《しきし》と改めた。祖先は源の頼光より出で、乙葉《おとは》氏を称したが、摂津国より信濃国に徙り、内蔵助長政と云ふ者が筑摩郡内田郷浅田荘に城を構へて浅田氏となつた。後石見守長時に至つて松本の西南栗林村に居り、東斎正喜《とうさいせいき》に至つて始て医を業とした。東斎の子を済庵惟諧《さいあんゐかい》と云ふ。文化十二年五月二十三日済庵の子に栗園惟常が生れた。栗園は少時京都に遊び、中西深斎の家に寓して東洞派の医学を修め、天保七年二十二歳にして江戸に開業し、文久元年四十七歳にして将軍家茂に謁し、慶応二年五十二歳にして家茂の侍医となつた。江戸にあつては初め本康《もとやす》宗円に識られ、宗円これを多紀|※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》、小島宝素、喜多村|栲窓《かうさう》等に紹介した。住所は初め通三丁目であつたが、晩年牛込横寺町に移つた。此年栗園六十二歳、孫三十九歳であつた。
十年東京府が孫を医会の幹事に任じた。
十一年八月孫|博済《はくさい》病院の医員となつた。博済は両替町にあつた脚気病院の名で、院長は又栗園であつた。
十二年三月孫温知舎副都講となつた。舎は漢医方の学校であつた。
十四年八月孫栗園と倶に滋宮《しげのみや》尚薬《しやうやく》奉御となつた。滋宮は韶子《よしこ》内親王である。
十六年三月孫
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