は内経である。それゆゑに彼素問識霊枢識に編録せられた多紀氏の考証の如きも、蘭軒がためには一の階梯たるに過ぎなかつた。是が伊沢氏の家学で、榛軒柏軒の二子はこれを沿襲した。」
 以上は松田氏の言《こと》である。わたくしはこれに参するに塩田氏の言を以てして、榛軒柏軒兄弟の研鑽の迹を尋ねる。塩田氏はかう云つてゐる。「榛軒柏軒の兄弟は、渋江抽斎、小島抱沖、森枳園の三人と共に、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の家に集つて古書を校読した。其書は多紀※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭を介して紅葉山文庫より借り来つたものである。当時一書の至る毎に、諸子は副本六部を製した。それは善書の人を倩《やと》つて原本を影写せしめたのである。此六部は伊沢氏兄弟一部、渋江、小島、森、狩谷各一部であつた。」
「わたくしは当時の抄写に係る素問を蔵してゐた。是本は伊沢氏の遺物で、朱墨の書入があつた。墨書は榛軒、朱書は柏軒である。同時に写された書中其|発落《なりゆき》を詳にすべきものは、狩谷氏の本が市に鬻《ひさ》がれ、渋江氏の本が海底に沈んだと云ふのみである。小島氏、森氏の本はどうなつたか、一も聞く所が無い。」
「頃日《このごろ》三輪善兵衛と云ふ人が書籍館を起して、わたくしに古医書を寄附せむことを求めた。わたくしは旧蔵の書籍を出して整理した。其時宍戸某と云ふ人が来て見て、中の素問を抽き出し、金三十円に換へて持ち去つた。即ち榛軒柏軒の手入本である。後に聞けば、宍戸某をしてこれを購ひ求めしめたものは富士川游君であつたさうである。」以上が塩田氏の言である。
 わたくしは上《かみ》に榛軒が蘭軒手沢本の素問霊枢を柏軒に与へたことを記した。按ずるに伊沢氏には蘭軒手沢本と榛柏手沢本との二種の内経が遺つてゐた筈である。若し後者が果して富士川氏の有に帰したなら、其本は必ずや現に京都大学図書館に預託せられてゐるであらう。他日富士川氏を見たら質《たゞ》して見よう。

     その三百二十四

 わたくしは柏軒の学術を語つて、其家学に関する松田塩田二氏の言を挙げた。松田氏の蔵する所に柏軒の筆蹟があるが、亦その内経を崇尚《しゆうしやう》する学風を見るべきである。「文久辛酉。嘗読健斎医学入門。至其陰隲中説。有大所感。今亦至大有所得。其説云。吾之未受中気以生之前。則心在於天。而為五行之運行。吾之既受中気以生之後。則天在吾心。而為五事之主宰。嘗自号曰天心居士。」医学入門は明の李挺《りてい》の著す所で、古今の医説を集録し、二百八門を立てたものである。そして其陰陽五行説の本づく所は素問霊枢である。此書が明の虞博《ぐはく》の著した医学正伝と共に舶載せられた時、今大路《いまおほぢ》一|渓《けい》は正伝を取り、古林見宜《ふるばやしけんぎ》は入門を取つた。所謂李朱医学は此よりして盛に行はれた。李とは東垣李杲《とうゑんりかう》、朱とは丹渓朱震亨《たんけいしゆしんかう》である。入門には内傷に東垣、雑病に丹渓が採つてある。昌平学校は古林の東辟後に起した所の医黌の址ださうである。健斎は李挺の号であらうか。医学入門自序の印文に此二字が見えてゐる。
 伊沢氏の学風は李朱医学の補血益気《ほけつえきき》に偏したものではなかつた。惟《たゞ》井上金峨の所謂「廃陰陽、排五行、去素霊諸家、直講張仲景書者」たることを欲せなかつたのである。
 わたくしは此に一言せざるべからざる事がある。それは我家の医学である。吾王父|白仙綱浄《はくせんつなきよ》は嘗て藩学の医風に反抗して論争した。当時の津和野藩医官は上下悉く素問学者であつた。綱浄は独り五行配当の物理に背き、同僚の学風の実際に切実ならざるを論じ、張仲景の一書を以て立論の根拠とし、自ら「疾医某」と称して自家の立脚地を明にした。しかし綱浄は古典素問を排したのではなく、素問学の流弊を排したのであつた。尋《つい》で吾父は蘭医方に転じ、わたくしは輓近医学を修めたのである。
 柏軒の治病法は概ね観聚方等に従つて方を処し、これに五六種の薬を配した。それゆゑ一方に十種以上の薬を調合するを例とした。是は明清医家の為す所に倣つたのである。観聚方は多紀桂山の著す所で、文化二年に刊行せられた。
 柏軒の技が大に售《う》れて、侯伯の治を請ふものが多かつたことは上《かみ》に云つた如くである。渋江保さんは嘗てわたくしに柏軒と津軽家との関係を語つた。津軽家は順承《ゆきつぐ》の世に柏軒を招請し、承昭《つぐあき》も亦其薬を服した。柏軒の歿後に其後を襲《つ》いだものは塩田楊庵であつた。当時津軽家の中小姓に板橋清左衛門と云ふものがあつた。金五両三人扶持の小禄を食《は》み、常に弊衣を着てゐるのに、君命を受けてお玉が池へ薬取に往く時は、津軽家の上下紋服を借りて着て、若党草履取をしたがへ、鋏箱を持たせて行つた。板橋は無邪気な漢《をとこ》で、薬取の任を帯る毎に、途次親戚朋友の家を歴訪して馬牛の襟裾《きんきよ》を誇つたさうである。松田氏の云ふを聞くに、細川家も亦柏軒の病家であつた。
 柏軒の相貌は生前に肖像を画かしめなかつたので、今これを審《つまびらか》にし難い。曾能子刀自の云ふには、榛柏の兄弟は兄が痩長で、弟が肥大であつた。父蘭軒に肖《に》たのは、兄ではなくて弟であつたと云ふ。
 松田氏はかう云つてゐる。「柏軒先生は十年前の信平君に似てゐた。あれを赭顔《あからがほ》にすると、先生そつくりであつたのだ。先年わたくしは磐《いはほ》の名義を以て、長谷寺に於て先生の法要を営んだことがある。其時門人等が先生に遺像の無いのを憾として、油画を作らせようとした。それには信平君を粉本として画かせ、わたくしにその殊異《しゆい》なる処を指※[#「てへん+適」、第4水準2−13−57]せしめ、屡改めて酷肖《こくせう》に至つて已むが好いと云ふことになつた。此画像は稍真に近いものとなつた。」渋江保さんの云ふには、此法要は恐くは明治三十二年柏軒三十七回忌に営まれたものであらうと云ふ。
 松田氏は又云つた。「柏軒先生の面貌には覇気があつた。これに反して渋江抽斎先生は丈高く色白く、余り瘠せてはゐなかつたが、仙人の如き風貌であつた。」

     その三百二十五

 柏軒が父蘭軒、兄榛軒と同じく近視であつたことは、既に上《かみ》の松田氏観劇談に見えてゐる。柏軒の子徳安磐にも此遺伝があつたさうである。最も奇とすべきは、柏軒近視の証として、彼蘭軒が一目小僧に逢つたと云ふに似た一話が伝へられてゐることである。それはかうである。
 浜町に山伏井戸と云ふ井があつた。某《それ》の年に此井の畔《ほとり》に夜々《よな/\》怪物《ばけもの》が出ると云ふ噂が立つた。或晩柏軒が多紀|※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》の家から帰り掛かると、山伏井戸の畔で一人の男が道連になつた。そして柏軒に詞《ことば》を掛けた。
「檀那。今夜はなんだか薄気味の悪い晩ぢやあありませんか。」
 柏軒は「何故」と云つて其男を顧みて、又|徐《しづか》に歩を移した。
 男は少焉《しばらく》して去つた。
 次の夜に同じ所を通ると、又道連の男が出て来て、前夜と同じ問を発した。然るに柏軒の言動は初に変らなかつた。
 三たび目の夜には男は出て来なかつた。是は来掛かる人に彼問を試みて、怖るべき面貌を見せたのであるが、柏軒は近視で其面貌を見なかつた。男は獺《かはをそ》の怪であつたと云ふのである。渋江保さんは此話を母五百に聞き、後又兄矢島|優善《やすよし》にも聞いたさうである。
 柏軒は絶て辺幅を修めなかつた。渋江保さんの云ふを聞くに、柏軒は母五百を訪ふ時、跳躍して玄関より上り、案内を乞ふことなしに奥に通つた。幼《いとけな》き保の廊下に遊嬉《いうき》するを見る毎に、戯に其臂を執つてこれを噬《か》む勢をなした。保は遠く柏軒の来るを望んで逃げ躱《かく》れたさうである。
 柏軒は酒色を慎まなかつた。毎に門人に戯れて、「己も少《わか》い時は無頼漢であつた」と云つたのである。又門人平川良栄は柏軒の言《こと》として竊《ひそか》に人に語つて云ふに、「先生はいつか興に乗じて、己の一番好なものは女、次は酒、次は談《はなし》、次は飯だと仰つたことがある」と云つた。好色の誚《そしり》は榛柏の兄弟皆免れなかつたが、二人は其挙措に於て大に趣を殊にしてゐた。榛軒は酒肆妓館に入つて豪遊した。しかし家庭に居つては謹厳自ら持してゐた。これに反して柏軒は家にあつて痛飲豪語した。少かつた頃には時に仕女に私したことさへあつた。是は曾能子刀自の語つた所である。
 柏軒は家人を呼ぶに、好んで洋人の所謂ノン、ド、カレツスを以てした。息《むすこ》鉄三郎を鉄砲と云ひ、女《むすめ》安《やす》を「やちやんこ」と云ひ、琴を「おこちやん」と云つた類である。是は柏軒の直情径行礼法に拘らざる処より来てゐる。此|癖《へき》は延《ひ》いて其子徳安に及び、徳安は矢島優善の妻鉄を呼んで「おてちやん」と云つた。これに反して渋江抽斎の如きは常に其子を呼ぶに、明に専六と云ひ、お陸と云つた。女《むすめ》棠《たう》に至つては、稍呼び難きが故に、特に棠嬢と称した。
 柏軒は江戸市中の祭礼を観ることを喜んだ。是は渋江抽斎と同嗜であつた。松田氏はかう云つてゐる。「柏軒先生や抽斎先生の祭礼好には、わたくし共青年は驚いた。柏軒先生の家が中橋にあつた頃は、最も山王祭を看るに宜しく、又狩谷翁の家は明神祭を看るに宜しかつた。山車《だし》の出る日には、両先生は前夜より泊り込んでゐて、斥候《ものみ》を派して報《しらせ》を待つた。距離が尚遠く、大鼓の響が未だ聞えぬに、斥候は帰つて、只今山車が出ましたと報ずる。両先生は直に福草履を穿いて馳せ出で、山車を迎へる。そして山車の背後に随つて歩くのである。車上の偶人、装飾等より囃の節奏に至るまで、両先生は仔細に観察する。そして前年との優劣、その何故に優り、何故に劣れるかを推窮する。わたくし共は毎に両先生の帰つて語るのを聞いて、所謂大人者不失其赤子之心者也とは、先生方の事だと思つた。」以上が松田氏の言《こと》である。わたくしは偶《たま/\》松崎慊堂文政甲申の日暦を閲して、「十五日(六月)晴、熱、都下祭山王、結綵六十余車、扮戯女舞数十百輩、満城奔波如湧」の文が目に留まつた。慊堂も亦祭礼好の一人ではなかつただらうか。

     その三百二十六

 柏軒の一大特色はその敬神家たるにあつた。兄榛軒の丸山の家には仏壇があり、又書斎に関帝、菅公、加藤肥州の三神位が設けてあつたに過ぎぬが、柏軒の中橋の家、後のお玉が池の家には、毎室に神棚があつた。
 棚は白木造で、所謂神体を安置せず、又一切の神符の類をも陳ぜなかつた。只神燈を燃し、毎旦塾生の一人をして神酒を供へしめた。松田|道夫《だうふ》は塾頭たる間、常に此任に当つてゐた。神酒を供へ畢《をは》れば、主人は逐次に巡拝した。
 柏軒の神を拝する時間は頗《すこぶる》長かつた。塾生中には師を迷信なりとして腹誹《ふくひ》し、甚しきに至つては言《こと》に出し、其声の師の耳に達するをも厭はぬものがあつた。家の玄関には昧爽より轎丁《かごかき》が来て待つてゐて、主人の神を拝して久しく出でざるをもどかしがり、塾生を呼んで「もし/\、内の神主さんの高間が原はまだ済みませんかい」などと云つた。柏軒は此等の事を知つてゐて、毫も意に介せなかつた。
 柏軒は江戸の市街を行くにも、神社の前を過ぐる毎に必ず拝した。公事を帯びて行くのでないと、必ず鳥居を潜り広前《ひろまへ》に進んで拝した。又祭日等に、ことさらに参詣するときは、幣《みてぐら》を供ふることを懈《おこた》らなかつた。
 癸亥の年に西上した時には、柏軒は駅に神社あるに逢へば必ず幣を献り、神職に金を贈つた。「神道録」は断片に過ぎぬが、当時柏軒が所感を叙述したものである。京都に入つた後、公事に遑《いとま》ある毎に諸神社を歴訪したことは、上《かみ》に引く所の日記にも見えてゐる。

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