中納言|慶喜《よしのぶ》をして代らしめ、慶喜も亦半途より病と称して還つたさうである。此日柏軒の鹵簿中にありしや否を知らない。
十九日に棠軒が福山に著き、船町竹原屋六右衛門の家に※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]居した。事は棠軒公私略に見えてゐる。
二十一日に将軍家茂が大坂に往き、柏軒は扈随した。
五月十一日に家茂が京都に還り、柏軒は又随ひ帰つた。大坂往復の事は良子刀自所蔵の柏軒が書牘に見えてゐる。「去《さんぬる》四月廿一日に大坂表に被為入《いらせられ》、右御供致、当五月十一日に還御に相成、御供に而帰京致候。昨十三日御参内可有之筈之所、些《ちと》御時候中《ごじこうあたり》に而御延引に相成候。此御参内に而多分御暇出、近々還御に可相成と存候。(中略)乍去御出勤迄は五六日も間可有之。乍然多分御暇出候事と存候。(下略)五月十四日。」自署もなく宛名もない。しかし恐くは柏軒が徳安に与へたものであらう。家茂帰東の望はそらだのめであつた。
六月十八日に福山にある棠軒が神島町下市《かしままちしもいち》須磨屋安四郎の家に徙《うつ》つた。
柏軒の病に罹つたのは、恐くは是月の事であらう。何故と云ふに、次月の初には其病が既に重くなつて、遺書をさへ作るに至つてゐるからである。
七月七日に柏軒は京都の旅宿に病み臥し、自ら起たざることを揣《はか》つて身後の事を書き遺した。此書は現に良子刀自が蔵してゐる。わたくしは下《しも》に其全文を写し出すこととする。
その三百二十
柏軒は癸亥の歳に将軍家茂に扈随して京都に往き、淹留《えんりう》中病に罹り、七月七日に自ら不起を知つて遺書を作つた。其文はかうである。「文久三年癸亥七月七日の、病中乍臥書す。吾は御国魂《みくにだましひ》を主とす。若吾身終ば、真に吾を祭る時は、先第一古事記を読め。次に孝経論語を読誦せよ。是は真に吾を祭る時の事也。其余は今の俗に随て、七七日、月忌、年忌に僧を請、仏典を読は不可廃。次に忌日吾を祭る時は孝経第一、次に論語、忌日広く吾を祭らむと思はば、内経素問、内経霊枢、次に甲乙経、第三は通俗に随て、請僧誦仏経。是は大過なるべからず。但《たゞ》所好《このむところ》は普門品也。是は吾平生所知。千巻の経を読誦するも、生前に不知は馬の耳に風也。普門品の次は仏祖三経也。」文中古事記、孝経、論語、素問、霊枢、法華経普門品は註することを須《もち》ゐぬであらう。甲乙経は医統正脈中に収められてゐる鍼灸《しんきう》甲乙経十二巻である。仏祖三経は第一四十二章経、第二遺教経、第三|※[#「さんずい+爲」、第3水準1−87−10]山《きざん》警策である。
十五日より病は革《すみやか》になつた。当時治療に任じた医家五人が連署して江戸に送つた報告書を此に抄出する。十五日後。「小腹御硬満、時々滴々と二勺不足位之御便通有之、尤竹筒相用候程之は通じ無之、始終袱紗にてしめし取申候。御食気更に不被為在、氷餅之湯少々づつ強て差上候而已。」
十七日朝。「翌暁迄二勺不足之は通じ十一度有之、其間多分御昏睡。」
十八日。「御疲労相募、始終御昏睡、御小水は通じ日之内六度、夜に入り七度被為在。」
十九日。「七つ半時頃より御呼吸御短促に被為成、卯之上刻御差重被遊候。」柏軒は遂に五十四歳にして歿したのである。
此記事はわたくしをして柏軒が萎縮腎より来た尿閉に死したことを推測せしめる。
「明日迄御病牀之儘に仕置。御召は官服。御袴御寸法通り、御帯共晒布にて仕立。御肌著御帷子は新き御有合為召。御沐浴明晩仕。(中略。)一と先高倉五条下る処曹洞派禅院宗仙寺へ御棺御移申上。(中略。)御棺二重に仕立、駕籠にて宗仙寺へ御送申上候。(中略。)徳安様御著之上御火葬可仕心得に御坐候。御剃髪は藤四郎へ申付候。七月十九日。多峰安策。湖南正路。西田玄同。塩田良三。志村玄叔。柴田定庵様。松田敬順様。」「明日」は二十日、「明晩」は二十日夕である。連署の初三人中安策は本の清川氏孫で、柏軒の病を聞いて上京したのである。他の二人は未だ考へない。報告書は良子刀自の蔵する所である。
宗仙寺に於ける秉炬《ひんこ》の語と覚しきものが、同じ刀自[#「刀自」は底本では「刀目」]の蔵儲中にある。「文質彬々行亦全。有忠有信好称賢。官晋法眼能医業。洛奉君台無等肩。茲惟新捐館文行院忠信居士。真機卓爾。本体如然。生也依因。五十四年前在武陵。体得医家道。薬与病者。命延愈客。死也任縁。五十四年後在洛陽。帰入如来禅。形蔵宗仙。影顕長谷。直得。其文行也。文彩縦横。行触相応。其忠信也。忠勇発達。信厚確焉。或時看読仏祖三経等。具無修無証仏祖行李之眼。或時諳誦観音普門品。得耳根円通観音妙智之玄。到這裏非真非仮。木人夜半拍手舞。非凡非聖。石女天明和曲喧。正与麼時。帰家穏坐底作麼生。露。普陀山上真如月。影浴清流長谷鮮。」「形蔵宗仙、影顕長谷」は柏軒の墓が京都の宗仙寺と江戸の長谷寺とにあるを謂つたものである。
その三百二十一
此年文久癸亥の歳七月二十日、棠軒は福山にあつて柏軒の病を聞き、上京の許を阿部家に請ひ、直に裁可を得た。即京都に於て柏軒の遺骸を宗仙寺に送つた日である。
二十一日に棠軒は福山を発した。
二十六日の朝棠軒は入京した。推するに柏軒の遺骸は是日|荼毘《だび》に付せられたことであらう。柏軒の墓は京都の宗仙寺に建てられ、後又江戸に建てられた。法語の「形蔵宗仙、影顕長谷」は既に云つた如く此事を指すのである。京都の墓には「伊沢磐安法眼源信道之墓」と題してあるさうである。按ずるに柏軒の名は初め信重《しんちよう》であつた。後|信道《しんだう》と改めたのであらう。
八月廿一日に公に稟《まう》して柏軒の喪を発した。
九月十九日に棠軒は柏軒の後事を営み畢《をは》つて京都を発した。
十月三日に棠軒は福山に帰り着いた。わたくしは棠軒公私略中此往反に関する文を此に引く。
「七月廿日夕、柏軒先生京師旅寓より、御同人御大病に付、繰合早々上京可致旨、安策より申越候に付、願書差出候処、即刻願之通勝手次第被仰付、翌朝発足、廿六日朝京著之処、去十九日御卒去之由、八月廿一日発喪相成、九月十九日京発、十月三日福山帰著。」
柏軒|易簀《えきさく》の処は夷川《えびすがは》の玉屋伊兵衛の家であつただらう。何故と云ふに、柏軒が淹京中宿舎を変更したことを聞かぬからである。柏軒は三月四日より七月十九日に至るまで京都に生活してゐた。三月大、四月大、五月小、六月大であつたから、百三十六日間であつた。此間貧窮は例に依つて柏軒に纏繞《てんげう》してゐたらしい。松田氏の語る所に従へば、塩田良三は師のために大坂の親戚に説いて金三百両を借り、僅に費用を辨ずることを得たと云ふことである。
松田氏は又柏軒の死に関して下《しも》の如く語つた。「わたくしは癸亥の歳に柏軒先生の京都にあつて歿したのは、死所を得たものだと云ふことを憚らない。後年先生の嗣子|磐《いはほ》君が困窮に陥つた時わたくしに、父がもつと長く生きてゐてくれたら、こんな目には逢ふまいと謂つたことがある。わたくしは答へて、いや、さうでない、先生はあの時に亡くなられておしあはせであつたと云つた。」
「竹内立賢も維新後にわたくしにかう云ふ事を言つた。それは柏軒先生が若し生きながらへて此聖代に遭はれたら差詰《さしづめ》神祇官の下《もと》で大少副の中を拝せられるのだつたにと云つたのである。わたくしは其時も答へて云つた。いや、さうでない。なる程先生は敬神の念の熱烈であつたことは比類あるまい。しかし官職の事は自ら別で、敬神者が神祇官に登庸せられると云ふわけには行かない。先生は矢張あの時亡くなられて好かつたのだと云つた。」
「わたくしの柏軒先生は死所を得たものだと云ふのは、抑《そも/\》理由のある事である。」
その三百二十二
わたくしは柏軒が死所を得たと云ふ松田氏の談話を記して、未だ本題に入らなかつた。松田氏は下《しも》の如くに語り続けた。
「柏軒先生が多紀|※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》、辻元冬嶺の歿後に出でゝ、異数の抜擢を蒙つた幸運の人であつたことは、わたくしの前《さき》に云つた如くである。又その公衆に対する地位も、父蘭軒、兄榛軒の余沢を受けて、太《はなは》だ優れてゐた。先生がお玉が池時代に有してゐた千戸の病家は、先生をして当時江戸流行医の巨擘《こはく》たらしむるに足るものであつた。」
「しかし先生を幸運の人となすのは、偏に目を漢医方の上にのみ注いだ論である。若し広く時勢を観るときは、先生の地位は危殆《きたい》を極めてゐた。それは蘭医方が既に久しく伝来してゐて、次第に領域を拡張し、次第に世間に浸漸し、漢医方の基礎は到底|撼揺《かんえう》を免るべからざるに至つたからである。」
「蘭医方、広く云へば洋医方は終局の勝者であつた。此時に当つて、敗残の将が孤塁に拠るやうに、稍久しく漢医方のために地盤の一隅を占有した人がある。彼浅田|栗園《りつゑん》の如きは即是である。若し柏軒先生が此に至るまで生存してゐたら、能く身を保つこと栗園に等しきことを得たであらうか。わたくしは甚だこれを危む。」
「わたくしの見る所を以てすれば、豪邁なる柏軒先生は恐くは彼|慧巧《けいかう》なる栗園を学ぶことを得なかつたであらう。又操守する所の牢固であつた柏軒先生が、彼時と推し移つて躊躇することなく、気脈を栗園に通じて能く自ら支持した清川玄道と大に趣を異にすべきは論を須《ま》たない。先生は玉砕すべき運命を有してゐた人である。わたくしが先生を以て死所を得たとなすのは、これがためである。」
「独り先生を然りとするのみではない。先生の門下には一人として新興の洋医方の前に項《うなじ》を屈したものは無い。塩田だつて、わたくしだつて、医としては最後に至るまで漢医方を棄てなかつた。わたくしは郷人に勧誘せられて、維新第二年(己巳)に岩村藩の権大参事になつて医を廃した。」
以上は松田氏が柏軒の癸亥七月十九日淹京中の死を以て所を得たものとする論断である。わたくしは此より柏軒の学術を一顧しようとおもふ。是も亦主として松田氏と塩田氏との言《こと》に拠らざることを得ない。
科学の迹は述作に由つて追尋するより外に道が無い。然るに伊沢氏は蘭軒以下書を著さなかつた。是は蘭軒の遺風であつた。それゆゑ柏軒所著の書と云ふものも亦絶無である。
わたくしは此事に関する松田氏の言《こと》を下《しも》に記さうとおもふ。是は蘭軒の条に云つた所と多少重複することを免れぬが、柏軒の学を明にするには、勢《いきほひ》伊沢家学の源統より説き起さゞることを得ぬのである。
その三百二十三
松田氏は柏軒医学の伝統を説くこと下《しも》の如くである。「支那の医学は唐代以後萎靡して振はなかつた。唐宋元明清の医家には真に大家と称するに足るものが莫い。それゆゑに我国の多紀氏に、桂山《けいざん》※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》の父子が相踵《あひつ》いで出でたのは、漢医方の後勁とすべきである。肥後に村井氏があつて、見朴《けんぼく》琴山《きんざん》の橋梓《けうし》相承けて関西に鳴つたが、多紀氏の該博に視れば、尚一籌を輸してゐた。」
「伊沢蘭軒は多紀父子と世を同うして出で、父子が等身の書を著すを見て、これと長を争ふことを欲せなかつた。且述作の事たる、功あれば又|過《あやまち》がある。言《こと》一たび口より発し、文一たび筆に上るときは、いかなる博聞達識を以てしても、醇中《じゆんちゆう》に疵《し》を交ふることを免れない。蘭軒は多紀氏の書を読んで、善書も亦往々人を誤ることあるを悟つた。是が伊沢氏の不立文字《ふりふもんじ》の由つて来る所である。」
「蘭軒は此の如くに思惟して意を述作に絶ち、全力を竭して古書の研鑽に従事した。そしてその体得する所はこれを治療に応用した。古書中蘭軒の最も思を潜めたの
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