田氏の談《はなし》を書き続ぐ。松田氏は癸亥の歳に柏軒が上洛する時、思ふ所あつて志村玄叔を率《ゐ》て往かしめようとしたが、一たび説いて却けられた。松田氏の談の続きはかうである。
「わたくしは柏軒先生に再説することの難いのを知つてゐた。しかし志村を一行中闕くべからざる人物だと以為《おも》つたから、日を隔てて又先生を訪うた。其日はまだ払暁であつたので、先生は褥中にゐた。わたくしは枕元に進んで云つた。」
「先生、此間も一寸申しましたが、志村を京都へお連下さるわけにはまゐりますまいか。」
「なに、志村は今度は連れて往かぬと云つたぢやないか。かう云つて先生は跳ね起きた。顔には怒の色が見《あらは》れてゐた。わたくしは又黙つて退いた。」
「しかし滞京中万一の事があつた時、先生と老中水野和泉守|忠精《たゞきよ》との間を調停することの出来るものは、志村を除いては一人もない。わたくしは縦《よ》しや先生の怒に触れて破門の辱《はづかしめ》を受けようとも、今一度説いて見ようとおもつた。」
「わたくしは次の日に三たび先生を訪うて云つた。先生、まことにくどい事を申すやうでございますが、わたくしは是非先生に志村を連れて往つて戴きたうございますと云つたのである。」
「わたくしは先生の激怒を期待してゐた。然るに先生は暫くわたくしを凝視してゐて、さて云つた。ひどく熱心だな。まあ、どうにかなるだらう。わたくしは拝謝して席を起つた。」
「わたくしは先生の出立の直前にお玉が池の家に往つて、そつとお春さんに問うた。お供は誰に極まりましたかと問うた。お連なさるのは良三さんと玄叔さんださうでございますと、お春さんは答へた。」
「当時わたくしは推薦の功を奏したことを喜んだ。しかし世事《せいじ》は逆覩《げきと》すべからざるものである。柏軒先生は京都に客死して、わたくしの薦めた志村は僅に塩田と倶《とも》に病牀に侍し、又後事を営んだに過ぎなかつた。」
柏軒が将軍徳川家茂に扈随して江戸を発し、東海道を西上したのは二月十三日であつた。此旅は頗《すこぶる》緩慢なる旅であつた。第一日は川崎泊、第二日は戸塚泊等で、日程六七里を例としたさうである。史家の手には定て正確なる記録があることであらう。わたくしは柏軒の遺す所の文書と松田氏等の記憶とに拠つて、此に旅程の梗概を写すこととする。
松田氏の語るを聞くに、一行が吉原に宿つた時、客舎は医師を遇することが甚《はなはだ》薄かつたので、本康宗達《もとやすそうたつ》の門人が大に不平を鳴らした。柏軒の門人塩田良三は温言を以て慰めたが、容易《たやす》く聴かなかつた。其時塩田が狂歌を詠んだ。「不自(不二)由を辛抱するが(駿河)の旅なれば腹(原)立つことはよしはら(吉原)にせよ。」本康の門人も遂に笑つて復《また》言はなかつた。
その三百十七
わたくしは癸亥の歳に将軍家茂上洛の供に立つた柏軒の旅を叙して駿河路に至り、吉原に宿つた夕、柏門の塩田良三が狂歌を詠じて、本康宗達の門人を宥《なだ》め賺《すか》した事を言つた。しかし柏軒等の吉原に宿した日を詳《つまびらか》にしない。
次にわたくしは柏軒が二月二十三日に藤枝を発し、大堰《おほゐ》川を渡り、遠江国掛川に宿したことを知つてゐる。それは良子刀自が下《しも》の如き書牘《しよどく》を蔵してゐるからである。「今廿三日|藤枝宿立《ふぢえだじゆくをたち》、巳時頃大井川|無滞《とゞこほりなく》一統相済候。目出度存候。斎主、立賢《りふけん》、敬順、安策、常庵様、塾中一統善御頼可被成候。尚於柏於国其外宜可申候。二月廿三日。磐安於掛川宿書《ばんあんかけがはじゆくにおいてしよす》。徳安え。」「斎主」はお玉が池明誠堂の塾頭か。立賢は竹内氏、敬順は松田氏道夫、安策は清川氏孫、常庵は柴田氏である。わたくしは此書に由つて、柏軒の冢子《ちようし》鉄三郎が癸亥の歳に既に「徳安」と称してゐたことを知る。
次にわたくしは二十七日に柏軒が岡崎を発し、宮駅《みやえき》に宿し、二十八日に宮駅を発し、桑名に宿したことを知つてゐる。それは柏軒自筆の「神道録」の首《はじめ》に下《しも》の文があるからである。「二月廿七日。大樹公発岡崎。随行宿于宮駅。詣熱田大神宮八剣宮。廿八日。発宮駅。舟渡佐渡川。至桑名。入伊勢国也。」神道録も亦良子刀自の蔵する所である。
次にわたくしは三月四日に柏軒が大津を発して入京したことを知つてゐる。是は柏軒自筆の日記に見えてゐる。日記も亦良子刀自の蔵儲中にある。わたくしは下にこれを抄出する。
「文久癸亥三月四日|暁《あかつき》寅時《とらのとき》、大津御旅館御発駕、(中略)三条大橋御渡、三条通より室町通へ上り、二条通を西へ、御城大手御門より中御門へ御入《おんいり》、御玄関より御上り」云々。是は将軍家茂入京の道筋である。以下柏軒自己の動静に入る。「石之間より上り、御医師部屋へ通り、九つ時宗達と交代して、己旅宿《おのがりよしゆく》夷川通《えびすがはどほり》堀川東へ入る町玉屋伊兵衛持家へ著く。町役両人馳走す。先《まづ》展《のし》昆布を出す。浴後昼食|畢《をはつ》て、先当地之|産土神《うぶすながみ》下之御霊《しものごりやう》へ参詣、(中略)北野天満宮へ参詣、(中略)貝川橋を渡り、平野神社を拝む。境内桜花多く、遊看の輩《ともがら》男女|雑閙《ざつたうす》。」志村玄叔、今の名良※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]さんの語る所に拠れば、旅寓は「夷川町染物屋の別宅」であつたと云ふ。按ずるに玉屋は染物屋か。
「五日。」是日は記事が無い。
「六日。快庵、宗達、伯元と出水《でみづ》中山|津守《つもり》宅訪ふ。内室、子息豊後介に対面。」中山氏の事は未だ考へない。
「七日。今日卯上刻御供揃、巳中刻御出、先施薬院へ御入、御装束召換、巳時と申て午の時御参内あり、入夜《よにいりて》還御。」
「八日。比叡山へ登る。良三を伴うて宅を出。(中略。)亥時頃旅宿へ還る。」
「九日。(上略。)雨中松尾神社へ参る。(下略。)」
「十日。雨。内命ありて尾張大納言殿御見舞申す。(中略。)御医師に逢うて御容態を申し、御薬方を相談し、御菓子御茶二汁五菜の御膳を被下、白銀十枚を被賜《たまはる》。直に登城して御用掛伊豆殿まで其趣を申上る。今夜宿番。」「尾張大納言」は茂徳《もちのり》である。「伊豆殿」は側衆坪内伊豆守保之か。
「十一日。雨。賀茂|下上之社《しもかみのやしろ》に行幸あり。将軍家供奉。」
「十二日。」是日は記事が無い。
「十三日。下賀茂|御祖《みおや》神社へ参る。(中略。)上賀茂|別雷《わきいかづち》大神宮へ参る。(中略。)門の前の堺屋にて酒を飲む。」
「十四日。当番。」
その三百十八
わたくしは京都に在る柏軒の日記を抄して、文久癸亥三月十四日に至つた。此より其後を書き続ぐ。
「十五日。玄叔を率《ゐ》て先大仏を観、(中略)稲荷社に参詣、(中略)社の門の前石川屋にて酒を飲。」
「十六日。愛宕参。(下略。)」
「十七日。先考正忌日精進。終日旅宿に居る。」
柏軒の日記は十八日より二十八日に至る十一日間の闕文がある。此間に江戸丸山の伊沢棠軒は家を挙げて途に上つた。棠軒は前年壬戌十二月四日に福山に移ることを命ぜられ、癸亥三月二十二日に発※[#「車+刄」、第4水準2−89−59]《はつじん》したのである。棠軒公私略に「三月廿二日、妻子及飯田安石家内之者召連、福山え発足」と云つてある。
此頃京都に於ては、一旦将軍帰東の沙汰があつて、其事が又|寝《や》んだと見える。良子刀自所蔵の柏軒の書牘《しよどく》がある。「御発駕も廿一日之処御延引、廿三日も御延引、未だ日限被仰出無之候。何れ当月内には御発駕と存候。(下略。)三月廿四日。磐安。徳安郎へ。」本文末段は柏軒が徳安に出迎の事を指図したものゆゑ省略した。
わたくしは此より復《また》柏軒の日記に還る。
「廿九日。石清水八幡宮に参り拝む。(下略。)」
「卅日。雨。」
「卯月|朔日《ついたち》。雨。新日吉《しんひえ》神社、佐女牛《さめうし》八幡宮両所へ参る。(下略。)」
「二日、寅日。朝雨、昼より晴る。大樹公巳刻御参内なり。御供揃五つ半時、其少しく前伯元等と御先に施薬院へ御入にて、午の半刻頃二た綾の御直衣《おんなほし》にて御参内、引続き一橋中納言殿も御参内あり。御饗応ありて、主上、時宮、前関白殿、関白殿、大樹公、近衛殿へは吸物五種、御肴七種、配膳の公卿は吸物三種、肴五種なりとぞ。大樹公へは天盃を賜り御馬を賜る。御盃台は柳箱《やないばこ》、松を著け、松に鬚籠《ひげこ》を挂《か》く。夜戌の半刻頃御退出にて、亥刻前施薬院を御立ち、伯元等と亥刻に旅宿へ帰る。(下略。)」「主上」は孝明天皇、「時宮」は皇太子、「前関白」は近衛前左大臣|忠※[#「熈」の「ノ」に代えて「冫」、第3水準1−87−58]《たゞひろ》、「関白」は鷹司前右大臣|輔※[#「熈」の「ノ」に代えて「冫」、第3水準1−87−58]《すけひろ》、「近衛」は近衛大納言忠房である。
「三日、卯日。天晴れ熱し。廬山寺の元三大師御堂へ参る。」是日柏軒が塩田良三を伏見へ遣つて、竹内立賢に会談せしめ、江戸の近況を知つたことは、次に引くべき書牘に見えてゐる。
柏軒の日記は此に終る。
四日には柏軒が郷に寄する書を作つた。此書は富士川氏の蔵する所である。「公方様益御安泰に被為在《あらせられ》、難有事に御坐候。次に手前壮健平安に候。其地も静謐に相成様承知候。何分公方様御事禁庭様御首尾大に宜《よろしく》被為在に付、御発駕も御延に相成候御容子、来る十一日石清水八幡宮に行幸有之、公方様御供奉被遊候。右相済候はゞ中旬頃御発駕も可有之哉、聢《しか》と不存候。手前|事者《ことは》身健《みすこやかに》、心中平安喜楽、其地之事者常敬策三子被相守、毫も案思《あんじ》不申、但其地に而怖畏致居候と案思候。乍併兼与大小神祇、乍恐同心合意候間、一切災害不加正直忠信之人祈願仕候間、其地吾一家に不限、知識正真忠心善意善行之者被災害事者決無之、一統莫有怖畏存候。吾一家之|外者《ほかは》、狩谷、川村、清川、其外え御伝示可被給候。唯一途に正真忠信に奉神奉先接人憐物関要に候。尚後便可申候。去《さんぬ》る先月廿九日石清水参詣致、別而難有感信致、別而家内之事大|安心《こゝろをやすんじ》候。尚後便可申候。目出度以上。卯月四日。磐安。常庵殿。敬順殿。安策殿。徳安殿。昨三日良三往伏見、立賢に逢、悉其地容子《そのちのようすをつくし》、承知候。以上。」
その三百十九
わたくしは日記|尺牘《せきどく》等に拠つて柏軒の癸亥|淹京《えんけい》中の事を叙し、四月四日に至つた。
中一日を隔てゝ五日は柏軒が二条の城に宿直した。日割は六日であつたのを、繰り上げてもらつた。
是は前月二十二日に江戸を発して福山に向ふ棠軒と会見せむがために、六日に伏見に赴く地をなしたのである。
六日には柏軒が暇を乞うて伏見に往き、棠軒を見たらしい。此二日間の事は下《しも》の書牘がこれを証する。書牘は良子刀自の蔵する所である。「手紙披見、不勝大悦候《たいえつにたへずそろ》。去月十八日出立と承知、其後廿二日出立と承知、其日数より長頸相遅《ちやうけいあひまち》、必|欲一長見候《いつちやうけんせむとほつしそろ》。数《しば/\》大津迄人遣候。必一見、既に今日当番、繰合昨夜相勤置程に相見渇望。従是僕直に伏見迄参候。路費乏少困入察候得共、何如様共可致、誰か少病気と称し、枉《まげ》て今夜者伏見に滞留可被致存候。いろ/\書たきことあれども、心中動気致、筆まわらず、いづれ面上目出度可申、以上。四月七日。磐安。春安殿。」棠軒良安は六年前より春安と称してゐたのである。
中三日を隔てて十一日には、孝明天皇が石清水八幡宮に行幸せさせ給ひ、将軍家茂は供奉しまゐらする筈であつた。わたくしの手許には当時の史料とすべき文書が無い。しかし聞く所に従へば、此行幸は天皇が家茂に節刀を賜ひ攘夷を誓はしめようと思召したのであつた。それゆゑ家茂は病と称して供奉せず、一橋
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