梅を養女として、岡西養玄に嫁することを許された。翌月二十一日に上原全八郎が媒妁して梅を岡西氏に送つた。棠軒公私略にかう云つてある。「十一月廿三日、厄介女梅事、此度自分養女に致し、岡西養玄え縁談、願之通被仰付。」「同月(十二月)廿一日、梅女岡西へ嫁入整婚儀、上原全八郎媒人、里開舅入同日也。」
梅は世に希《まれ》なる美人であつた。幼《いとけな》くして加賀中納言|斉泰《なりやす》の奥に仕へたが程なく黜《しりぞ》けられた。某《それがし》と私通したからである。梅は暫くお玉が池の柏軒の許に潜んでゐて、此に至つて養玄に嫁した。年|甫《はじめ》て十三であつた。
養玄は後の岡寛斎である。才学はあつたが、痘痕《とうこん》のために容《かたち》を毀《やぶ》られ、婦を獲ることが難かつた。それゆゑ忍んで行《おこなひ》なき梅を娶《めと》つたのださうである。
棠軒は此年福山に徙《うつ》ることを命ぜられ、次年に至つて徙つた。伊沢分家は丸山阿部邸内の蘭軒の旧宅を棄てて去ることになつたのである。公私略に「十二月四日、来春早々福山表引越被仰付」と云つてある。
伊沢本家では此年|閏《じゆん》八月十八日に信全が八十一歳で歿した。当主は二十八歳の道盛信崇《だうせいしんそう》であつた。
その三百十三
此年壬戌に福山藩の小島氏で成斎知足《せいさいちそく》が歿した。継嗣は第二子|信之《しんし》である。成斎の墓表は二あつて、一は海保漁村が撰び、一は関藤藤陰《せきとうとういん》が撰んだ。駒籠長元寺中の石に刻まれてゐて、世人の普《あま》ねく知る所のものは前者である。歿日は十月十八日、年は六十七、病の「風※[#「やまいだれ+(鼾−自−干)」、第4水準2−81−55]」であつたことは漁村の文に見えてゐる。二子三女があつて、長子は夭した。
此年棠軒二十九、妻柏二十八、子棠助四つ、女長九つ、良七つ、全安の女梅十三、柏軒五十三、子鉄三郎十四、平三郎二つ、女国十九、安十一、琴八つ、妾春三十八、榛軒未亡人志保六十三であつた。
文久三年は蘭軒歿後第三十四年である。正月二十日将軍徳川家茂は柏軒に上洛の供を命じた。家茂は前年壬戌八月の召に応じて往くのである。
此時柏軒は端《はし》なく一の難関に逢著した。それは所謂柏軒の乗船問題である。松田氏は此間の消息を語つて下《しも》の如く云つてゐる。
「柏軒先生は多紀|※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》、辻元冬嶺等の没後に幕府の擢用を蒙り、職は奥医師たり、位は法眼に叙せられ、又市中に病家千戸を有し、貴顕富豪の治を請ふもの多く、お玉が池明誠堂の門には車馬の跡が絶えなかつた。先生が蘭医方の漸く盛なる時に当つて、識らず知らずの間に身に漢医方存亡の責を負ふが如くなるに至つたのは、勢《いきほひ》已《や》むことを得なかつたのである。」
「徳川十四代将軍(家茂)が上洛の供を命じた奥医師は戸塚静寿院法印、竹内|渭川院《ゐせんゐん》法印、本康宗達《もとやすそうたつ》法眼、三上《みかみ》快庵法眼と先生とで、これに奥外科見習村山伯元が副《そ》へてあつた。戸塚、竹内はジイボルト門下の蘭方医である。そして老中の有力者水野和泉守|忠精《たゞきよ》は蘭方医を信用してゐた。」
「老中水野は奥医師に汽船咸臨丸に陪乗することを命じた。水野は先生が一切の西洋機巧に触接しないのを熟知してゐて此命を下した。先生は岐路に立つた。屈従して汽船に乗らむか又水路を行くことを辞せむかと云ふ岐路である。若し水路を行くことを辞するときは、職を褫《うば》はれる虞《おそれ》がある。先生は少くも水野が必ず職を褫ふだらうと惟《おも》つた。」
「先生は前《さき》に単独に阿部侯の治療に当つた時の如く、又門人中の重立つたものを会して意見を問うた。」
「門人は硬軟二派に分れた。竹内立賢《たけのうちりふけん》等は先生に忍んで汽船に乗らむことを勧めた。是は先生が若し職を失ふと、官医中には漢方医の有力者が無くなるからである。これに反してわたくし共は云つた。先生決して汽船にお乗なさるな。若し旨に忤《さか》つて職を免ぜられると云ふことになつたら、野に下つて漢医方の興隆をお謀《はかり》なさるが宜しいと云つた。先生は初より老中の言《こと》に従ふ意がなかつたので、わたくし共の言を聞いて大に喜んだ。」
「先生は意を決して上船を辞せむとした。しかしその抗命に類することを避けむがために、多紀安琢、津軽玄意の名を以て歎願書を呈することにした。」
松田氏の此談話中に見えてゐる随行医官の名の中に、猶奥医師林洞海法眼が漏れてゐる。洞海、名は彊《きやう》、字《あざな》は健卿《けんけい》、万延元年幕府に召され、次年に侍医の班に列せられた。その上洛扈随の一員であつたことは志村|良※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]《りやうがい》さんが記憶してゐる。是も亦洋方医である。
其他此行には扈随の侯伯にして医官を率《ゐ》て行くものが多かつた。一橋中納言|慶喜《よしのぶ》の下《もと》に清川安策孫の養嗣子温の生父水谷丹下のあつたなどが其一例である。
その三百十四
癸亥の歳将軍徳川家茂が上洛した時、柏軒は随行を命ぜられた。そして汽船咸臨丸に乗らなくてはならなかつた。是は西洋の機巧を憎む柏軒の忍ぶこと能はざる所であつた。わたくしは上《かみ》に柏軒が奥医師の地位を賭《と》して上船を辞せむと欲したことを記した。此乗船問題は松田氏の語る所であるが、伊沢良子刀自は当時多紀安琢、津軽玄意の柏軒がために草した歎願書を蔵してゐるから、わたくしは此に抄出して松田氏の談を補はうとおもふ。
「磐安儀此度|不奉存寄《ぞんじよりたてまつらず》、御上洛御供被仰付難有仕合奉存候。且御船にて御供仕候様被仰付、是亦重畳難有仕合奉存候。」
「然るに当人乗船致候得者、兼而眩暈之気味に而《て》難儀致候得共、乗船御供被仰付候と申候者、格別之儀と奉存候間、中々御断之願者難申出|黙止《もだし》居候得共、先月末当月初両度之|乗様《のりだめ》しに、御医師中に者《は》指而《さして》難儀之者も無御坐候得共、御小姓御納戸之中に者《は》、船中眩暈|嘔逆《おうぎやく》に而難儀之人も有之候様承及候。当人格別病身と申に者無之候得共、平生船中は勿論|総而《すべて》動揺致候事強候節嘔吐致、甚に至候而者嘔吐之上|泄瀉《せつしや》致候持病御坐候。左候得者乗船仕候得者持病差起候者必然之儀と奉存候。当人病気に而者船中に而乗組之内に病気之者御坐候共、中々療治致候事難相成、将亦《はたまた》上陸之後も必疲労仕候而、御用有之候共相勤候儀無覚束奉存候。」
「当時|御上《おかみ》に者《は》御一体御強健に被為在候而《あらせられそろて》、且蘭科御療治御薬差上候事故、漢科之者御供不仕候共、御用之|御間《おんま》不欠儀《かけざるぎ》と奉存候得共、誠に万々一之御備に漢科之者御供被仰付候儀と奉存候。」
「然るに当人船中に而嘔吐且泄瀉等相煩候而者、船中病用相勤候儀難相成者勿論、又上陸致候而も万々一急速之御用御坐候共、相勤候儀不相成候而者乗船に而御供仕候も無詮儀《せんなきぎ》と奉存候。且当人御供被仰付難有奉存候本意も不相立、深奉恐入候間、右之段御憐察被下、可相成儀に御坐候得者、乗船御供御免被仰付、陸地に而|御先《おんさき》に罷越、兼而被仰出候日限に、出立上京為致度奉存候。此段|偏《ひとへ》に奉願候。二月日。多紀永春院。津軽良春院。」
此草案には宛名は書してない。しかし医師は若年寄支配であつたから、若年寄用番に宛てゝ出す積であつたのだらう。
歎願書はわたくしが松田氏の談を記するに当つて、其中間に插《さしはさ》んだものである。松田氏は乗船問題の談の末にかう云つた。「然るに柏軒先生の此心配は無用になつた。それは幕府の議が中途に変じて、舟を用ゐずに陸路を行くことになつたからである。今より回顧して見れば、奇異の感がするが、汽船に乗るは屈従である、寧《むしろ》地位を賭しても乗ることを辞するが好いと、先生も真面目に考へ、わたくし共も真面目にこれに賛同したのである。」
柏軒が将軍に随つて江戸を発するに先《さきだ》つて、次に起つた一問題は、門人中誰が柏軒に随行すべきかと云ふ事であつた。
是は柏軒が何人《なんぴと》を率《ゐ》て行かうとしたかの問題ではなくて、門人中主要なるものが師のために謀つて何人をして随従せしめようとしたかの問題である。わたくしは松田氏のこれに関して語る所を下《しも》に記さうとおもふ。
その三百十五
柏軒が癸亥の歳に将軍家茂に随つて上洛した時、高足弟子《かうそくていし》の間に誰を師に附けて京都へ遣らうかと云ふ問題が起つた。中にも松田氏は深く慮《おもんぱか》る所があつて、必ず志村玄叔を遣らうとおもつた。その語る所はかうである。
「わたくしは柏軒先生随行者の問題が起つた時、是非共志村玄叔を遣らうとおもつた。それは先生一身の安危に繋る事情より念《おも》ひ到つたのである。」
「前にも云つたやうに、将軍の一行には蘭方医と漢方医とが相半《あひなかば》してゐた。其人物の貫目より視ても、両者は輒《たやす》く軒輊《けんち》すべからざるものであつた。然るに老中の有力者たる水野和泉守|忠精《たゞきよ》は蘭方を尊崇してゐた。若し旅中に事があつて、蘭方医と漢方医とが見る所を異にすると、柏軒先生は自ら危殆《きたい》の地位に立つて其衝に当らなくてはならぬのであつた。」
「平生江戸にあつては、先生には学殖ある友人もあり、声望ある病家もある。縦《たと》ひ事端の生ずることがあつても、救援することが難《かた》くはない。これに反して一旦京都に入つては、先生は孤立してしまふ。わたくしはこれを懼《おそ》れた。」
「わたくしの疑懼は、若し先生が小心の人であつたら、さ程ではなかつただらう。わたくしは先生の豪邁の気象を知つてゐたので、そのいかに此間に処すべきかを思ふ毎に、肌に粟を生じたのである。」
「わたくしの志村玄叔を簡《えら》んで随行せしめようとしたのは、志村をして此間に周旋せしめようとしたのである。志村は山形藩医である。水野泉州に謁して事を言ふことも容易であり、又泉州左右の人々をも識つてゐる。此人が先生の傍《かたはら》にゐたら、万一事端の生ずることがあつても、先生を救解することが出来ようとおもつたのである。」
「しかし先生は果して志村を率《ゐ》て行くであらうか。わたくしは頗これを危《あやぶ》んだ。何故と云ふに、剛強の人は柔順の人を喜ぶ。先生の門下には竹内立賢《たけのうちりふけん》の如き寵児がある。独り先生と先生の家人とがこれを愛するのみならず、丸山伊沢の眷族さへ一人として称讚せぬものはない。又粗豪の人は瑣事に手を下すことを嫌つて、敏捷の人を得てこれに任ぜしめようとする。同門の塩田|良三《りやうさん》の如きは其適材である。塩田が侍してゐれば、先生は手を袖にして事を辨ずることが出来る。わたくしはそこへ遽《にはか》に志村を薦むることの難きを思つた。」
「さればとて先生に向つて、あからさまに泉州の威権を説き、蘭方医の信用を説くことは出来ない。若し此の如き言説を弄したら、先生は直にわたくしを叱して却《しりぞ》けたであらう。」
「わたくしは焦心苦慮して日を送つた。既にして先生出発の期は迫つた。わたくしは一日《あるひ》先生に伺候して、先生お供には誰をお連になりますかと問うた。」
「塩田を連れて往く。」
「さやうでございますか。成程、塩田が参るなら、先生の御不自由のないやうに、お世話をいたす事でございませう。しかしわたくしはお願がございます。それは外でもございませんが、今一人志村をお連下さいませんか。あの男は兼て一度京に上りたいと申してをりました。此度のやうな機会はなか/\得られませんから。」
「志村か。さうさなあ。まあ、今度は止にしてもらはう。」
「先生はかう云ふ時に窮追して捉へることの出来ぬ人だから、わたくしは黙つて退いた。」
その三百十六
わたくしは松
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