の家が再び火《や》けた。四月新居が落せられた。是月孫本町温知医黌の医学教諭となり、これに属する温知病院の副長となつた。其長は例の如く栗園がこれに任じた。九月滋宮薨ぜさせ給ふ故を以て尚薬の職を解かれた。
 十九年孫左脛に疔《ちやう》を生じ、十月四日四十九歳にして歿した。孫、字は念祖《ねんそ》、菖軒又は六菖と号した。小字《をさなな》は昌蔵、長じて安策、後玄道と称した。孫は玄道の称を襲ぐに当つて、自ら戯れて犬玄道と云つた。継嗣は今の魁軒さんである。名は温、字は子良、通称は玄道、春雨、杏花の別号がある。実は水谷|丹下高射《たんげかうしや》の子で、小字を舜三《しゆんさん》と云つた。文久三年正月に生れ、明治七年十二歳にして怙《ちゝ》を失ひ、九年十四歳にして孫の門に入り、孫の歿するに臨んで、遺命に依つて家を継いだ。時に年二十四であつた。妻は徴の女《ぢよ》鉄である。孫の室酒井氏には子が無かつた。
 菖軒孫の浅田栗園と親善であつたことは、孫の履歴に徴して知ることが出来る。孫は新都|善售《ぜんしう》の漢方医として栗園と並称せられた。柏軒門人中或は孫が伊沢氏を去り浅田氏に就いたと云ふものゝあつたのは、恐くは此に胚胎してゐるのであらう。栗園詩存に、「次清川菖軒七月三日剃髪詩韻却寄」の七絶がある。「銀海聞君晦転明。南薫一夜掃雲軽。洋風難化心頭月。古鏡磨来旧影清。」玄道は剃髪前目疾に罹つてゐたと見える。
 松田氏の語るを聞くに、孫が疔を生じて重態に陥つた時、松田氏は名古屋の裁判所長になつてゐたが、書を寄せて治を洋方医に託せむことを慫慂した。しかし未だ報復を得ざるに、訃音が早く至つたさうである。
 わたくしは此に清川氏の家に伝ふる所の一事を附載したい。それは柏軒の妻狩谷氏俊の病の事である。俊は処女たりし時労咳を病んで※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]の治を受けた。当時日毎に容態書を寄せて薬を乞うたが、其文に諧謔の語が多かつた。中に「おゝせつな咳のみ出でて影薄く今や死ぬらん望之の子は」の狂歌があつた。「逢坂の関の清水に影見えて今や引くらむ望月の駒」のパロヂイである。後年致死の病はこれとは別で、崩漏症《ほうろうしやう》であつたらしい。今謂ふ子宮癌であらうか。其証は当時の歌の四五の句に、「花のしべ石なむる此身は」と云ふのがあつた。漢薬|花蕊石《くわずゐせき》は崩漏の薬である。

     その三百三十

 柏軒門人中清川安策孫の事は既に記した。次に挙ぐべきは志村玄叔である。
 玄叔、名は良※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]である。その天保九年に生れ、安政四年に柏軒の門に入つたことは上《かみ》に見えてゐる。文久三年柏軒に随つて京都に赴き、その病を得るに及んで、同行の塩田、踵《つ》いで至つた清川即当蒔の多峰と倶に看護に力を竭し、易簀《えきさく》の日に至るまで牀辺を離れなかつたことも亦同じである。
 頃日《このごろ》渋江保さんはわたくしのために志村氏を原宿におとづれ、柏軒在世の時の事を問うた。渋江氏は初見の挨拶をしたが、主人は手を揮《ふ》つて云つた。「いや。あなたは初対面のお客ではない。わたくし(良※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59])は柏軒先生の門人ではあつたが、受業の恩は却つてお父上抽斎先生に謝せなくてはならない。柏軒先生は講書の日を定めてゐても、病家の歴訪すべきものが多かつたので、日歿後に至つて帰り、講説は縦《たと》ひ強て諸生の求に応じても、大抵粗枝大葉に過ぎなかつた。時としては座に就いて巻《まき》を攤《ひら》かずに、今日は疲れてゐるから書物よりは酒にしようと云つて、酒肴を饗した。清川安策の如きは午過に来て待つてゐて、酒を飲んで空しく帰るのを憾《うらみ》とした。そこでわたくし共は柏軒先生の許を請うて、抽斎先生の講筵に列した。抽斎先生は毎月六度乃至九度の講義日を定めて置いて、決して休まなかつた。わたくし共は寒暑を問はず、午食後に中橋の塾を出て、徒歩して本所へ往つた。夏の日にはわたくし共は往々聴講中に眠を催した。すると抽斎先生は、大分諸君は倦んで来たやうだ、少し休んで茶でも喫《の》むが好いと云つて、茶菓を供した。少焉《しばらく》して、さあ、睡魔が降伏したら、もう少し遣らうと云つて講説した。酒を饗することは稀であつた。当時わたくし共は萱堂《けんだう》のお世話になり、あなたをも抱いたり負《おぶ》つたりしたことがある。抽斎先生の亡くなつた後も、二三年は本所のお宅をお尋したから、わたくしはあなたの四五歳の頃までの事を知つてゐる。萱堂は近頃如何です。」渋江氏は母山内氏の死を告げた。志村氏は嗟歎すること良《やゝ》久しかつた。
 志村氏は語を継いで云つた。「柏軒先生を除いて、わたくしの恩を承けたのは抽斎先生と枳園先生とである。実地に就いて本草を研究しようとするに、柏軒先生は病家に忙殺せられて、容易に採薬に往かなかつた。そこでわたくし共は枳園先生の採薬に随行した。わたくし共は抽斎先生をば畏敬したが、枳園先生となると頗《すこぶる》狎近《かふきん》の態度に出でた。しかし此人はわたくし共青年を儕輩として遇し、毫もわたくし共の不遜を咎めなかつた。枳園先生の本草は紙上の学問ではなかつたから、わたくし共が草木の実物に就いて難詰するに、毎《つね》に応答流るる如くであつた。想ふに是は相州に流浪し、山野を跋履した時、知見を広くした故であつただらう。」
 渋江氏は進んで柏軒の事を問うた。志村氏の答は下《しも》の如くであつた。

     その三百三十一

 志村氏は渋江氏に語つた。「わたくし(志村良※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59])は十四歳で柏軒先生の門に入つた。丁度安政四年で、十月に先生が将軍に謁見し、十二月に夫人狩谷氏を失つた年である。夫人は字を識り、書を善くしたが、平生は裁縫を事としてゐた。只客に酒を供する毎に、献酬の間善く飲み善く談じた。夫人の亡くなつた時、先生がかう云つた。可哀さうにお俊は己がお目見をしたお蔭で、酒を飲み過ぎて死期を早めたのだと云つた。是は十月の半以来賀客が絡繹として絶えなかつたので、夫人が日夜酒杯に親んだことを謂つたのである。勿論先生の戯謔《けぎやく》ではあるが、夫人は酒量があつたから、多少これがために病を重くしたかも知れない。」
「柏軒先生の嗜好としてわたくしの記憶してゐるのは、照葉狂言である。先生はわたくし共を中橋の佐野松《さのまつ》へつれて往くこと度々であつた。しかし此|癖好《へきかう》は恐くは源を抽斎先生に発したものであつたらしい。抽斎先生は佐野松の主な顧客であつた。」
「柏軒先生は金銭の事に疎かつた。豪邁の人であつた故であらう。秩禄二百俵、役料二百俵、合計四百俵の収入があつたのに、屡財政に艱《なや》むことがあつたらしい。此の如き時、先生は金を借りた。しかし期に至つて還すことをば怠らなかつた。夫人存命中は狩谷氏が貸主で、其後は側室お春さんの弟が貸主であつたやうである。お春さんの弟は浅草の穀屋であつた。」
「文久三年将軍家茂上洛の時、柏軒先生が随員の命を受けて、※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]船に乗ることを嫌つたのは、当時の人の皆知る所であつた。是議論が平生洋風を悪《にく》む処から発したことは勿論である。しかし先生は猶別に思ふ所があつたらしい。先生は将軍の※[#「さんずい+氣」、第4水準2−79−6]船に乗るのを策の得たるものでないと謂《おも》つたのである。わたくしは先生がかう云つたのを聞いた。将軍の御上洛は陸路よりするを例とする。発著の間二十日を費す。是は※[#「門<困」、第4水準2−91−56]外《こんぐわい》の任にあるものが軽《かろ/″\》しく動かざるを示すのだ。朝廷で事の易きに慣れられて、ちよいと将軍を呼べと仰る、畏つて直に馳せ参ずることとなるのは宜しくない。此の如きは啻《たゞ》に将軍の威信を墜すのみではなく、朝権も亦随つて軽くなるのだと云つたのである。先生は言《こと》を左右に託して水路扈随を免れむことを謀つた。そのうち大奥より陸行の議が出て、事が寝《や》むことを得た。」
「わたくしが柏軒先生の一行に加へられたのは、松田|道夫《だうふ》がわたくしに水野閣老(忠精)と先生との間を調停せしめようと謀つたためであつた。先生は松田の言《こと》を納《い》れた。しかし先生はそれ程我藩主を畏れてはゐなかつた。或時先生は満を引いてかう云つた。なに、水野侯一人が政事をしてゐるのではないから、お前達は心配するな、それよりは酒でも飲めと云つたのである。」

     その三百三十二

 志村氏の渋江氏に語つた所の柏軒事蹟は未だ尽きない。「癸亥の年に将軍家茂に扈随して江戸を発した医官数人中、行伴《かうはん》の最多かつたのは柏軒先生である。大抵医官は一門人若くは一僮僕を有するに過ぎなかつたのに、独り先生の下には塩田良三とわたくし(志村良※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59])とがゐて、又若党一人、轎丁《けうてい》四人がゐた。それゆゑに途次に費す所も亦諸医官に倍※[#「くさかんむり/徙」、第4水準2−86−65]《ばいし》した。」
「途上にある間も、京都に留まつてゐる間も、わたくしは塩田と議して業務を分掌した。塩田は主に出納の事に当り、わたくしは主に診療の事に当つたのである。」
「病人には二種類があつた。一は同行の旗本家人等で、一は駅々の民庶、入京後は洛中の市人である。然るに柏軒先生は毎旦将軍に謁し、退出後も亦頗多事であつたので、多くはわたくしが代つて脈を候《うかゞ》ひ方を処した。又淹京間は請に応じて往診することが日に数次で、是は皆わたくしの負担であつた。」
「わたくしは特に某日の一往診を牢記して忘れない。それは柏軒先生が既に病に罹つて引き籠つてから後の事であつた。わたくしは某病家に往診した。其家は濠に沿うて迂回して纔《わづか》に達すべき街にあつた。往くこと未だ半ならざるに、大雷雨の至るに会した。わたくしは心にかうおもつた。此の如き日に遠路を行くは人情の難しとする所である。然るに自分は労を憚らずして往く。是は確に先生の一讚詞に値するとおもつた。さて事果てて後、還つて先生を見ると、先生は色|懌《よろこ》ばざる如くであつた。そしてかう云つた。足下は無情な漢《をとこ》だ。己が雷を嫌ふことは知つてゐる筈ではないか。かうして病気で寝てゐるのに、あの大雷が鳴つたのだから、足下はどこにゐても急で帰つて来てくれさうなものだ。何をぐづ/″\してゐたと云つた。なる程先生が生得雷を嫌ふことは、わたくしは熟《よ》く知つてゐた。それに嘗て躋寿館にゐて落雷に逢つてからは、これを嫌ふことが益甚しくなつてゐたのである。しかしわたくしは往診の途上では少しもこれに想ひ及ばなかつたのである。わたくしは先生の言《こと》を聞いて、その平生の豪快なるに似ず、嫌悪が畏怖となつたことを思ひ、又わたくしの如きものに倚依することの深厚なことを思ひ、覚えず涙を堕した。」
「柏軒先生の亡くなつた後、わたくしは猶伊沢氏に留まつてゐて、後事を経営し、次年元治元年に至つて始て去つた。わたくしの先生に従遊したのは前後七年で、伊沢氏にゐたのは八年である。」
「伊沢氏を去つた後、わたくしは江戸にあつて医を業としてゐた。幾《いくばく》もなく王政維新の時が来た。わたくしは山形へ移住すべき命を受けたが、忽ち藩主水野の家が江州に移封せられ、わたくしの移住は沙汰止になつた。当時わたくしは青山の水野邸にゐたが、後土地家屋を買つて遷《うつ》つた。それが此家である。」
 志村良※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]さんの談話は此に終る。柏軒が躋寿館にあつて落雷に逢つたことは、わたくしは既に渋江抽斎伝に記した。水野忠精の邸第《ていだい》は武鑑に「上《かみ》、三田二丁目、下《しも》、青山長寿丸、同、本所菊川町、同青山窪町」と云つてある。今の志村氏の家は千駄谷村|旧《もと》原宿町である。

     その三百三十三

 わたくしは柏軒の門人中より
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