既に清川、志村二家の事を抽《ぬ》いて略叙した。次は塩田良三である。良三、後の名は真《まさし》である。わたくしが蘭軒の稿を起した時は猶世にあつたが、今は亡くなつた。
 塩田|真《しん》は既に屡此伝記に出でた人物である。祖父は小林|玄端《げんたん》、父は玄瑞《げんずゐ》であつた。玄瑞は出羽国山形より江戸に来て蘭門に入り、塩田|秀三《しうさん》の家を継ぎ、楊庵と改称した。その塩田氏に養はるゝに当つて、これが仮親となつたものは清川玄道※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]であつた。
 塩田氏の家系より言へば、高祖文隣軒自敬、曾祖楊庵、祖父秀三、父楊庵である。遠祖は平の宗盛の臣塩田陸奥守|惟賢《これかた》で、八島の戦が敗れた時、宗盛の子を抱いて奥州に逃れたと伝へられてゐる。其裔自敬が始て三春に於て医を業とし、其子初代楊庵が江戸本石町に開業し、後お玉が池に移つた。楊庵の女婿を秀三と云ふ。三春の番匠佐藤某の子で、郷にあつては自敬に学び、江戸にあつては経を太田錦城に受け、医を初代楊庵に問うた。秀三は諸家の出入扶持を享けたが、就中《なかんづく》宗家の十五人扶持が最多かつた。小林玄瑞は此秀三の女婿となつて二世楊庵と称したのである。
 良三真は天保八年に生れた。師柏軒を失つた時二十七歳であつた。
 次は松田|敬順道夫《けいじゆんみちを》である。その出自、その入門等は既に記した。此には先づ一事の補叙すべきものがある。それは松田の渋江抽斎に於ける関係である。松田は籍を柏門に置きながら、抽斎の講筵に列せむことを願ひ、人を介して往いて聴いた。柏軒は聞いて大に怒《いか》つた。「抽斎の講を聴くは至極好い、しかし己の門人であつて己の友人に交を求めるのに、他人を介するとは何事だ」と云つたのである。松田は過を謝して師の怒を解くことを得た。抽斎の書を講ずるは、友と談ずるが如くであつた。難句に遭ふ毎に、起つて架上より数巻の書を抽き出し、対照して徒に示し、疑義は強て決することなく、研鑽の余地を留めて置いた。来聴者の悦服した所以である。
 安政戊午に抽斎が歿し、万延庚辰に立石選銘の議が起つた。時に友人弟子中に二説があつた。一は津軽人をして銘せしめむと云ひ、一は故人の親友をして銘せしめむと云つたのである。柏軒等は後説を持して、遂に勝つた。既にして海保漁村の志銘は成つた。友人弟子等は是を読んで其大要の宜しきを得たるを認めた。就中柏軒は起首の「嗚呼問其名則医也」以下四十九字を激称して、漁村の肺腑中より出でたものとした。しかし諸人の間には異議も亦頗多かつた。遂に漁村に改刪を請ふべきもの数条を記した。さて此を誰に持たせて漁村の許へ遣らうかと云ふことになると、衆皆|※[#「走にょう+咨」、第4水準2−89−24]※[#「走にょう+且」、第4水準2−89−22]《しそ》した。当時漁村は文章を以て一世に雄視してゐたからである。幸に松田は漁村に親んでゐたので、此を持つて伝経廬《でんけいろ》を訪ひ、遂に定稿を獲て帰つた。

     その三百三十四

 わたくしは柏軒の門人を列叙して松田敬順道夫に至つた。柏軒の世は今を距《さ》ること遠からぬために、わたくしは柏軒の事を記するに臨んで、門人の生存者三人を得た。志村、塩田、松田の三氏が是である。就中松田氏の談話はわたくしをして柏軒の人となりを知らしめた主なる資料であつた。松田氏の精確なる記性と明快なる論断とが微《なか》つたなら、わたくしは或は一堆の故紙に性命を嘘《ふ》き入るゝことを得なかつたかも知れない。
 医を罷めた後の松田氏は法官として猶世人の記憶に存してゐるであらう。しかし此人の生涯は余りに隔絶したる前後両半截をなすがために、殆どその同名異人なるかを疑ふ人のなきを保し難い。わたくしは下《しも》に姻戚荒木三雄さんの書牘を節録して、彼「洋医の軍門に降らなかつた」柏軒門人松田氏がいかに豹変したるかを示す。「貴著伊沢蘭軒中松田道夫君の事を記載有之、始て同君の前生活を知ることを得、一驚を喫候。判事松田道夫君は昔年津山の昌谷千里《しやうたにせんり》、先考荒木博臣等と同じく名を法曹界に馳せし者にして、某探偵談には松田君を擬するに今大岡を以てしたるを見しこと有之候。同君最後の職は東京控訴院部長と記憶いたし候。昌谷逝き、先考も亦逝き、今や存するものは唯松田君あるのみに候。昌谷の遺子は現に樺太庁長官たる昌谷彰君に有之候。松田君は令息道一君と共に湯島三組町の家に住し居られ候。道一君は久しく外務書記官にして、政務局第二課長たりしが、頃日《このごろ》駐外の職に転ぜられ候。」
 次は岡西、成田、斎木、内田の諸人である。此数者中岡西氏は既に渋江抽斎伝に見え、又上文にも見えてゐる。今新に考へ得たる所二三を補ふに止める。
 岡西養玄は明治二年の席順に「第六等席、十三人扶持、書教授試補、岡西養玄、三十一」と云つてある。然らば天保十年生であらう。「養玄」の右に「待蔵」と細書してある。然らば維新後一たび岡西待蔵と称し、後更に岡寛斎と称したものか。寛斎の死は明治十七年十月十九日に於てしたと云ふ。然らば享年四十六であつた。
 成田成章は同席順の「第六等席、八人扶持、成田玄昌、三十七」か。然らば天保四年生である。
 斎木文礼は同席順に「第六等席、八人扶持、斎木文礼、二十七」と云つてある。然らば天保十四年生である。
 内田|養三《やうさん》は戊辰の東席順に「奥御医師、内田養三、三十五」と云つてある。然らば天保五年生である。
 わたくしは最後に柴田氏の事を附載して置きたい。其一柴田常庵は上《かみ》に榛門の一員として事蹟の概略を載せた。其二は柴田方庵である。方庵の事は歴世略伝に見えない。わたくしは塩田氏の語るを聞いて始て方庵の名を知つた。下《しも》に仁杉《にすぎ》氏の云ふ所と合せ考へて方庵の何人なるかを明にしよう。

     その三百三十五

 塩田氏と仁杉氏との談話を参照するに、柴田方庵の事蹟には矛盾する所が多い。是は塩田氏の記憶のおぼろけなりし故であつたらしい。故に清川魁軒に聴いて正した。
 方庵は柴田|芸庵《うんあん》の末弟であつた。準柏門の人で、唖科を業とした。晩年|采女町《うねめちやう》の清川邸内に住んで、浄瑠璃に耽つてゐた。妻は初なるものが品川の妓、後なるものが吉原の妓で子が無かつた。それゆゑ兄芸庵の第三子円庵を養つて子としたが早世した。明治十一年九月方庵は六十一歳にして歿し、其家は絶えた。芸庵の弟妹は修石、柵《しがらみ》、修庵、方庵の順序で、柵は清川※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]の妻である。是が方庵の清川邸に住んだ所以である。
 塩田氏は方庵と楊庵とを混同した。楊庵は芸庵の末子、小字《せうじ》八六、後の称忠平である。骨董店を海賊橋に開き、後箔屋町に移つて業務を拡張した。明治三十八年八月七日に友人某を訪ひて談話する際、卒然病を発して歿した。子は※[#「金+公」、8巻−257−上−13]太《しようた》で現に沼津にゐる。塩田氏は方庵が忠平と改称したと以為《おも》つてゐたのである。芸庵の子女は常庵、成庵、円庵、梅、多喜、国、千、忠平であつた。仁杉|英《えい》さんは多喜の子で、其妻は常庵の女歌である。
 柏軒の歿した文久癸亥に妾春が末子|孫祐《まごすけ》を生んだ。主人の京都にある間に、お玉が池の家に生れたのであらう。
 門田《もんでん》家で此年朴斎が再び出でて誠之館教官兼侍読となつた。
 此年棠軒三十、妻柏二十九、子棠助五つ、女長十、良八つ、乃夫二つ、全安の女梅十四、柏軒の子徳安十五、平三郎三つ、孫祐一つ、女国二十、安十二、琴九つ、柏軒の妾春三十九、榛軒未亡人志保六十四であつた。
 元治元年は蘭軒歿後第三十五年である。九月二十七日に榛軒未亡人飯田氏志保が歿した。年六十五である。棠軒公私略に、「九月廿七日朝五時母上御卒去、翌日発表、十月十二日忌引御免被仰付」と云つてある。
 十一月三日に棠軒は阿部正方の軍に従つて福山を発した。所謂長州征伐の第一次で、出兵三十六諸侯の一人たる正方は年|甫《はじめ》て十六、発程に先《さきだ》つこと二日に始て元服の式を挙げたのである。公私略の文は下の如くである。「十一月朔日、御前髪被為執候為御祝、金二百疋被成下。十一月三日、征長御出馬御供被仰付、出立す。」毛利家が所謂俗党の言《こと》を用ゐて罪を謝し、此役は中途にして寝《や》んだ。
 十二月二十四日に棠軒は正方に扈随して福山を発し、江戸に向つた。公私略に、「十二月十四日御参府御供在番被仰付、同廿四日御発駕」と云つてある。
 慶応元年は蘭軒歿後第三十六年である。正月二十二日に棠軒は阿部正方に随つて江戸に著いた。二月十八日に棠軒の女|乃夫《のぶ》が福山にあつて痘瘡に死した。年僅に四歳である。三月二十四日に女|加禰《かね》が福山に生れた。五月十一日に棠軒は正方に随つて江戸を発し、閏《じゆん》五月八日に福山に著いた。六月七日に岡西養玄が妻梅を去つた。梅は柏の生んだ先夫全安の女で、時に十六歳であつた。十九日に棠軒は誠之館医学世話を命ぜられた。同僚は鼓菊庵《つゝみきくあん》、桑田恒三である。十一月二十四日に棠軒は再び正方の軍に従つて福山を発した。時に幕府の牙営は大坂にあつた。是より先将軍家茂は六月に上京し、次で大坂城に入つたのである。以上は公私略の記する所に拠る。今煩を厭うて本文を引くに及ばない。
 梅の末路はわたくしの詳にせぬ所であるが、後|幾《いくばく》ならずして生父池田全安の許に歿したと云ふことである。
 鼓菊庵は明治二年の席順に「第六等席、十人扶持、御足五人扶持、鼓菊庵五十四」と云つてある。然らば文化十三年生で乙丑には五十歳になつてゐた。桑田恒三は同席順の「第六等席、九人扶持、書記頭取、桑田恒庵六十」ではなからうか。恒庵の庵字の右に「介」と細書してある。若し恒庵若くは恒介が即恒三ならば、恒三は文化七年生で、乙丑には五十六歳になつてゐた。或は謂《おも》ふに恒三は恒庵の子であつたかも知れない。
 正方の出兵は所謂長州征伐の第二次である。
 此年棠軒三十二、妻柏三十一、子棠助七つ、女長十二、良十、加禰一つ、全安の女梅十六、柏軒の子徳安十七、平三郎五つ、孫祐三つ、女国二十二、安十四、琴十一、柏軒の妾春四十一であつた。

     その三百三十六

 慶応二年は蘭軒歿後第三十七年である。棠軒は阿部正方の軍にあつて、進んで石見国|邑智郡粕淵《おほちごほりかすぶち》に至つた。時に六月十三日であつた。正方は此より軍を旋《めぐら》し、七月二十三日に福山に還つた。将軍家茂の大坂城に薨じた後三日である。棠軒公私略にかう云つてある。「六月十三日粕淵駅迄御進相成、七月廿三日御帰陣相成候。」此役正方は軍中に病んだ。同書に「御出張先より御不例被為在候」と云つてある。九月二日に柏軒の女琴が十二歳にして早世した。法諡《はふし》して意楽院貞芳と云ふ。江戸で将軍家茂の遺骸を増上寺に葬つた月である。次で十二月五日に慶喜が将軍を拝した。良子刀自所蔵の「丙寅三次集」は棠軒が自ら此年の詩歌を編したものである。「芋二庵主人稿、棠軒三十四歳」と署してある。繕写が次年に於てせられた故に此の如く署したものであらう。
 慶応三年は蘭軒歿後第三十八年である。五月二十八日に棠軒の一女が夭した。公私略に「五月廿八日夜四時鏐女死去、翌日表発、六月朔遠慮引御免被仰付」と云つてある。「鏐」は即加禰であらう。然らば此女は三歳にして死したのである。十一月二十二日に正方が卒し、二十三日に棠軒は手島七兵衛と共に福山を発して江戸に急行した。将軍慶喜の政務を朝廷に奉還した翌月である。十二月|朔《さく》に二人は丸山邸に著いた。次で五日に江戸を発し、二十六日に福山に帰著した。公私略の文はかうである。「十一月廿二日夕七半時御絶脈被遊。同夜四時御用有之出府被仰付。尤早打に而旅行可仕旨。翌暁六時手島七兵衛同道発足。十二月朔日暁七時丸山邸え著。十二月三日於江戸表御用相済候に付、勝手次第出立可致様、且又出府大儀に被思召、為御褒美金二百疋被成下候旨被仰渡。同
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