五日江戸発足。同廿六日福山着船。」十二月廿一日に棠軒の子紋次郎が生れた。父の江戸より帰る途上にある時生れたのである。
 正方の死は藤陰舎遺稿丁卯の詩題にも「十一月廿二日公上不諱」と書してある。棠軒等の往反は、福山にあつた諸老臣が喪を秘して使を派し、継嗣の事を江戸邸の人々に謀つたのではなからうか。手島七兵衛は明治二年の席順に「第四等格、五十俵、御足四十俵、手島七兵衛、六十」と云つてある。丁卯には五十八歳であつた。
 池田分家で此年六月十一日に瑞長妻|東氏金《あづまうぢきん》が歿した。此瑞長はその天渓なるか三|矼《こう》なるかを詳にしない。姑《しばら》く録して後考に資する。
 此年棠軒三十四、妻柏三十三、子棠助九つ、紋次郎一つ、女長十四、良十二、柏軒の子徳安十九、平三郎七つ、孫祐五つ、女国二十四、安十六、柏軒の妾春四十三であつた。
 明治元年は蘭軒歿後第三十九年である。正月九日長州藩の兵が福山城を襲ひ、棠軒は入城した。是より先三日に伏見の戦が開かれ、七日に徳川慶喜を征討する令が発せられた。公私略にかう云つてある。「正月九日長藩二千人許御城下え推参、及発炮。即刻出勤。但妻子は手城村九丁目百姓延平方え為立退。」
 阪谷朗廬《さかたにらうろ》は関藤々陰《せきとうとういん》の此日の挙措を叙して下《しも》の如く云つてゐる。「明治元年正月。伏水之変発也。王師討徳川氏。長藩兵勤王。以阿部氏為徳川氏旧属。路次卒囲福山城。時正方君卒未葬。而変起※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]卒。先護柩。巨弾洞其室者二。銃声如雷霆。先生与諸老臣。制壮士不動。分出諸門。衣袴不甲。直衝飛丸。入敵軍。往復辯論。遂明名義。確立誓約。」
 藤陰の石川文兵衛が志士の間に知られたのは、此一挙があつたためである。わたくしは前に載せた藤陰の別称問題に関して此に一事を補つて置きたい。わたくしは藤陰が一時関氏五郎と云つた時、交の疎きものは誤つて三字の通称関五郎となしたと云つて、秋山伊豆を挙げた。しかし此錯誤は当時交の疎からざるものと雖も、これに陥つたらしい。木崎好尚さんは篠崎小竹の「不可忘」を抄して寄せ、安東忠次郎さんは頼聿庵《らいいつあん》の野本第二郎に与ふる書を写して贈つた。皆三字の通称として視てゐるのである。因に云ふ。秋山伊豆、名は惟恭、字《あざな》は仲礼、小字《せうじ》は浪江《なみえ》、長じて伊豆と称した。巌山、千別舎《ちわきのや》の号がある。讚岐国那珂郡櫛梨村の人、文久三年四月十日五十七歳にして歿した。わたくしは永田嘉一さんの手に藉《よ》つて秋山の墓誌銘を獲た。
 三月十七日に棠軒は福山を発して広島に往き、五月二十日に儲君|正桓《まさたけ》を奉じて還つた。公私略の文はかうである。「同月(三月)十六日広島表御用有之、早々被差立候旨被仰渡。(中略。)翌十七日乗船。五月廿日新君御供著。」五月二十八日に正方の喪は発せられ、七月二十三日に正桓が家を継いだ。正桓、実は藝州藩主浅野茂長の弟(懋昭)の子で、当時年十八であつた。
 八月九日に棠軒は家を深津郡吉津村に移した。九月廿一日に正桓が津軽藩を応援せむがために兵を出し、棠軒も亦従軍した。時に改元の令出でゝ後十三日、車駕東幸の途上にあり、奥羽の戦は既に半《なかば》局を結んでゐた。

     その三百三十七

 わたくしは蘭軒の養孫棠軒が明治紀元九月廿一日に、福山藩主阿部|正桓《まさたけ》に随つて福山を発し、東北の戦地に向つたことを記した。棠軒の事蹟は此に至るまで棠軒公私略に見えてゐる。然るに公私略には此所に紙二枚が裂き棄ててあつて、其|下《しも》は己巳六月の記に接してゐる。幸に別に「函楯軍行日録」があつて此闕を補ふことが出来る。亦棠軒の手記で、徳《めぐむ》さんの蔵する所である。
 按ずるに当時津軽|承昭《つぐあき》を援ふ令は福山、宇和島、吉田、大野の四藩に下つた。福山の兵は此日|鞆《とも》の港に次《やど》つた。「九月廿一日、晴、朝五時揃。(中略。)夕七時前鞆湊著。」
 棠軒は発するに臨んで、留別の詩を作つた。「示平安。数百精兵護錦旗。順風解纜到天涯。分襟今日吾何道。応記二翁垂示詩。」冢子《ちようし》棠助は既に平安と称してゐた。二翁|垂示《すゐし》の詩とは蘭軒榛軒の作を謂ふ。「示二児。富貴功名不可論。只要児輩読書繁。能教文種長無絶。便是吾家好子孫。蘭軒。」「示良安。医家稽古在求真。千古而来苦乏人。万巻読書看破去。応知四診妙微神。榛軒。」
 わたくしは棠軒の行を送つた人々の名を録する。伊沢分家の交際の範囲を徴すべきがためである。「福山出立前見立人伊藤誠斎、安石、玄高、全八郎、洞谷、金八郎、乙平。(中略。)鞆著之上省吾来訪。柏原忠蔵、拡等来飲。」伊藤誠斎は己巳の席順に「第七等格、十石二人扶持、側茶、伊藤誠斎、五十二」と云つてある。茶道の家であらうか。因に云ふ。福山の伊藤氏には別に仁斎の末裔がある。仁斎|維※[#「木+貞」、第3水準1−85−88]《ゐてい》の子が東涯長胤《とうがいちやういん》、梅宇長英《ばいうちやうえい》、梅宇の子が蘭※[#「田+宛」、第3水準1−88−43]懐祖《らんゑんくわいそ》、蘭※[#「田+宛」、第3水準1−88−43]の子が竹坡弘亨《ちくはこうかう》、竹坡の子が蘆汀良炳《ろていりやうへい》、蘆岸良有《ろがんりやういう》、蘆岸の子が竹塘良之《ちくたうりやうし》である。同じ席順に「第六等席、十五人扶持、伊藤揚蔵、三十四」と云ふのが此竹塘で、其子|琢弥《たくや》は京都の宗家を継いで歿し、琢弥の兄|顧也《こなり》さんは現に幼姪《えうてつ》の後見《うしろみ》をしてゐる。安石は飯田安石である。玄高は公私略癸亥十一月七日の条に「成田竜玄次男玄高入門」と云つてある。全八郎は料理人上原全八郎である。洞谷《どうこく》は上《かみ》の席順に「第六等席、十三人扶持、吉田洞谷、四十二」と云つてある。画師である。乙平《おとへい》、省吾《せいご》は席順に、「第八等格、廿俵二人扶持、渡会乙平、廿六」、「第七等席、三両三人扶持、島省吾、廿五」があるが、果して其人なりや否を知らない。金八郎、柏原忠蔵は未だ考へない。拡の事は下《しも》に出す。
 棠軒と同行した医師は五人であつた。「御医師小子及天富良碩、斎木文礼、石川厚安、藤田松軒(同人一昨日三口表御医師見習)、其外鞆医師生口拡、合六人」と云つてある。上の席順に「第六等席、天富良碩、廿六」「第六等席、八人扶持、斎木文礼、廿七」「第七等席、十二石、石川厚安、廿六」「第七等格、准医補、藤田松軒」「第七等格、准医補、生口拡」と云つてある。此中|生口拡《いくちひろめ》は文事を以て世に知られてゐる。拡、字《あざな》は充夫《じうふ》、酔仙と号した。文久元年に近世詩林一巻を刻し、末に七律一篇を載せてゐる。「抄近時諸家詩畢有作。選楼弄筆寄幽娯。一巻新詩収美腴。縦有蟹螯兼蛤柱。何曾燕石混※[#「虫+賓」、8巻−263−下−6]珠。雄篇河嶽英霊集。名句張為賓主図。多少世間同好士。為吾能諒苦心無。」第六の張為《ちやうゐ》が主客図の典故は唐詩紀事に見えてゐる。棠軒が同行の医師は皆鞆の善行寺に舎《やど》つた。
 二十二日に福山より来て、棠軒を善行寺に訪うたものは「貞白、養玄、安石、元民、全八郎、洞谷、雄蔵等」である。貞白は石川、養玄は岡西である。元民は席順に「第六等席、九人扶持、准、皆川元民、三十七」と云つてある。雄蔵は席順の「第七等席、十二石二人扶持、鵜川雄蔵、廿六」か。其他は前に註してある。
 十月二日に棠軒は英船モナ号に搭して鞆を発した。「廿九日(九月)晴、御軍艦著津、英船モナ。(中略。)二日(十月)晴。午後乗艦、同八半時出帆。」

     その三百三十八

 わたくしは棠軒が戊辰の年に従軍して、十月二日に備後国|鞆《とも》を発したことを記した。日録には歴史上多少の興味がある故、稍詳に此に写し出さうとおもふ。しかし原文の瑣事を叙することの繁密なるに比すれば、僅に十の一を存するに過ぎない。
「三日。朝四時長州馬関へ下碇《かてい》。不上陸。八半時同所出帆。」
「四日。雨。風|勁《つよく》、浪又高。」
「五日。漸晴。午時越前敦賀湊へ著船。夕上陸御免。買物ちよき金二分二朱、金巾《かなきん》筒じゆばん同一分、陣中胴乱同二分一朱、戎頭巾《えびすづきん》同一分、つり百文。」当時の軍需品の市価を知るべきを以て、特に数句を存録する。
「六日。晴。於同所大野侯御人数乗組。」越前国大野郡大野の城主土井利恒の兵が上船したのである。
「七日。晴。総隊上陸。船御普請相成。御医師円教寺へ一泊。」船に損所あるを発見して、修繕したのである。
「八日。晴。艦《ふね》造作御出来に付、朝四時乗船。八半時出帆。」
「九日。半晴。午後雨。」
「十日。風雨。夕初雪。村上領夏島沖へ碇泊。」
「十一日。晴。乍《たちまち》霰《あられ》。朝四時夏島出帆。夜九時頃羽州秋田近海へ碇泊。」
「十二日。晴。朝土崎湊へ著。秋田へ一里半。」
「十三日。晴。又雪。風頗急、浪尤高。舟川湊(相|距《さ》る九里)へ退帆。総御人数上陸、漁家へ止宿。」車駕入京の日である。
「十四日。雪。逗留。」
「十五日。晴。夕雨。同断。」
「十六日。晴。後雨。船|直《なほし》。」
「十七日。雨巳刻より止。陰《くもる》。逗留。箱館表出兵|被為蒙仰《おほせをかうむらせらる》。」是は榎本武揚等が北海道に向つた故である。武揚は是より先幕府の軍艦奉行であつたので、八月十九日軍艦数隻を率《ひきゐ》て品川湾を脱出し、途次館山、寒沢《さむさは》に泊し、北海道を占領せむと欲して先づ室蘭附近に向つたのである。「世上誰知鉄石衷。乗※[#「木+査」、第3水準1−85−84]欲去引剛風。茫茫千古誰成匹。源九郎逃入海夷。」
「十八日。晴。はた/\魚《うを》漁猟甚盛。」
「十九日。晴。午後|陰《くもる》。暮雨。昼九時より乗船。夕七半時出帆。」
「二十日。晴雪相半《せいせつあひなかばす》。午時《ひるどき》箱館府へ着船。暮時上陸。町宿銭屋与兵衛宅へ落著。」
「廿一日。雪。又晴。脱走船南部沖へ七艘相見候に付、斥候一小隊尻沢村(半里)へ御差出相成。御医師一人二日おき交代。斎木出張。伊藤屋佐治兵衛へ宿替。メリヤス繻絆股引金二両二朱。」箱館戦史及榎本武揚伝の詳細なるものはわたくしの手許にない。文淵堂所蔵の一|戸《のへ》隆次郎著「榎本武揚子」に拠れば、武揚等の諸艦は「十一月二十日夜に乗じて函館を距る十里なる鷲木港に入る」と云つてある。「十一月」は「十月」の誤なること明である。
「廿二日。半陰。尻沢村出張之御人数大野村(五里)迄進発。」一戸の記に拠れば、武揚は「人見勝太郎、本多幸七郎の両人に命じ、(中略)五稜廓に」向はしめた。「二人命を聞いて茅部嶺を越え、大野まで至」ると、「津軽の兵二百人人見勝太郎等の大野村に在るを聞いて夜襲」した。福山藩兵の進発は此時の事か。
「廿三日。雨。賊徒上陸之由に付、二小隊|七重《なゝへ》村(二里)迄御差出相成。石川厚安右へ出張。亀屋武兵衛(山市)宅へ病院移転。夜五時過大御目付山岡氏より、春安亮碩松軒亀田表御本営へ明日繰込相成候旨申来。」病院は初伊藤屋に置かれたものか。山岡、名は源左衛門、二十七歳。後運八と称す。亀田表は亀田村五稜廓である。一戸の記に、「土方歳三は一軍に将として、星恂太郎、春日左衛門等と(中略)川吸峠を踰えて函館に入り、大野に陣取りける時、彰義隊の残党等も来つて土方が隊に合し、七重村の官兵を襲」ふと云つてある。福山藩兵の七重村に入つたのは此時か。
「廿四日。晴雪相半。午後亀田へ出張之処。途中津軽迄|引退之《ひきしりぞきの》事に相成。今朝より大野村及大川村戦争有之、兵隊十人許り即死、怪我人数人有之、官軍|不利《りあらず》。」一戸の記に、「土方等直ちに七重村を占領しぬ、清水谷府知事は官軍の利あらざるを見て、五稜廓を逃れ出で、函館に赴き、普魯西の蒸汽船に乗つて津軽に赴」くと云つてある。箱館府知事|清水谷公考《しみづだにきんなる》は武揚等の上陸に先だつて五稜廓に入つてゐた。当時公考二十四歳。
「廿五日
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