/(エ+おおざと)」、第3水準1−89−61]指。西是秩峰北日光。」
第三日は五月二十一日である。紀行に曰く。「廿一日卯時に発す。二里卅丁深谷駅。駅を出て普済寺に詣《いた》る。二里廿九町本荘駅なり。釧雲泉《くしろうんせん》を訪。前月信濃善光寺へ行き、遇はず。二里新町駅。これより上野《かうづけ》なり。神奈川を渡る。川広六七町なれども、砂石のみありて水なし。空《むなし》く※[#「土へん+巳」、第3水準1−15−36]橋《いけう》を架《かせる》ところあり。又少く行烏川を渡る。川広一町余、あさし。砂石底を見るべし。時正に未後《びご》。西方の秩父山にはかに陰《くもり》て、暗雲|蔽掩《へいえん》し疾電いるがごとし。しかれども北方日光の山辺は炎日赫々なり。川を渡て行こと半里|許《きよ》、天|増《ます/\》陰り、墨雲|弥堅《びけん》迅雷驟雨ありて、廻風|轎《かご》を揺《うごか》せり。倉野駅に到て漸く霽《は》る。乃《すなはち》日暮なり。林屋留八の家に宿す。行程九里許。」釧雲泉の家は当時今の児玉郡本荘町にあつたと見える。
集に「渡烏川値雨」の詩がある。「溶々還濺々。方舟渡広河。村吏尋灘浅。棹郎訴石多。奇峰※[#「山/頽」、7巻−59−下−6]作雨。澄鏡暗揚波。蓑笠無遑著。漫趨数里坡。」
第四日。「廿二日卯時に発す。一里十九丁高崎駅なり。郊に出て顧望するときは高崎城を見る。小嶺に拠て築けり。此郊|甚《はなはだ》平坦にして、野川清浅、砂籠《さろう》岸を護し長堤村を繞《めぐ》る。或渠流を引いて水碓《すゐたい》を設く。幽事喜ぶべし。時正に巳。豊岡村を過ぐ。路傍の化僧一|木偶《もくぐう》を案上に安んじて銭を乞ふ。閻王なりといふ。其状鎧を被《かうぶ》り※[#「僕」の「にんべん」に代えて「巾」、第3水準1−84−12]頭《ぼくとう》を冠《くわん》し手に笏《こつ》を持る、顔貌も甚|厳《おごそか》ならず。造作の様頗る古色あり。豊岡八幡の社に詣《いた》る。境中狭けれども一|茂林《もりん》なり。茅茨《ばうじ》の鐘楼あり。一里卅丁板鼻駅、二里十六丁松井田駅なり。時正に未。円山坂に到る。茶釜石といふ者あり。大さ三尺許り。形|蓮花《れんくわ》のごとし。叩くときは声を発す。石理《せきり》及其声|金磬石《きんけいせき》なり。碓氷関《うすひのせき》を経《ふ》。二里坂本駅。信濃屋新兵衛の家に宿す。暑|不甚《はなはだしからず》。行程八里余。」
詩が三首ある。「早発高崎過豊岡村。駅市連荒径。村駄犢雑駑。※[#「糸+樔のつくり」、第4水準2−84−55]車桑下舎。水碓澗辺途。遠岳朝雲隠。新秧昨雨蘇。未知行旅恨。探勝費工夫。経琵琶渓到碓冰関作。琵琶渓上路。曲々繞崔嵬。山破層雲起。水衝奇石※[#「さんずい+回」、第3水準1−86−65]。拠高孤駅在。守険大関開。詩就叩岩額。金声忽発来。宿阪本駅聞杜鵑。五更雲裏杜鵑飛。遠近啼過幾翠微。此去探幽今作始。遮渠不道不如帰。」
その三十一
第五日は文化三年五月二十三日である。「廿三日卯時に発す。駅を出れば直に碓氷峠のはね石坂なり。上ること廿四丁、蟠廻《はんくわい》屈曲して山腹岩角を行く。石塊|※[#「山/元」、7巻−60−下−2]※[#「山/元」、7巻−60−下−2]《ぐわん/\》大さ牛のごとくなるもの幾百となく路に横り崖《がい》に欹《そばた》つ。時|已《すでに》卯後、残月光曜し山気冷然として膚《はだへ》に透《とほ》れり。撫院をはじめ諸士歩行せし故、路険に労して背汗|※[#「さんずい+揖のつくり+戈」、第4水準2−79−34]※[#「さんずい+揖のつくり+戈」、第4水準2−79−34]《しふ/\》たり。乃《すなはち》撫院|衣《きぬ》一《ひとつ》ぬぎたり。忽ち岩頭に芭蕉の句碑あり。一つ脱で背中に負ぬ衣更《ころもかへ》といふ句なり。古人の実境を詠ずる百歳の後合する所あり。四軒茶屋あり。(此まで廿四丁也。)蕨粉《わらび》餅を売る、妙なり。又上ること一里|許《きよ》、山少くおもむろに石も亦少し。路傍は草莽《さうもう》にて、巓《いたゞき》は禿《とく》せり。北《ほく》五|味子《みし》(此地方言牛葡萄)砂参《しやじん》(鐘草《つりがねさう》)升麻《しようま》(白花筆《はくくわひつ》様のもの)劉寄奴《りうきど》(おとぎりさう)蘭草(ふぢばかま、東都は秋中花盛なれども、此地は此節花盛なり、蘭の幽谷に生ずる語証とすべし、世人は幽蘭をもつて真蘭とす、幽蘭いかでかかくのごとき地に生ずべけん)の類至て多し。山中《やまなか》といふ所にいたる。経来《へきたり》し磴路《とうろ》崖谷《がいこく》みな眼下指頭にあり。東南の方《かた》ひらけて武蔵下野上野、筑波日光の諸山を望む。今春江戸の回禄せしときも火光を淡紅にあらはせりと、茶店《ちやてん》の老婦語れり。日本紀に倭武尊《やまとたけのみこと》あづまを望れし事あり。此所ならん。又山を紆※[#「榮」の「木」に代えて「糸」、第3水準1−90−16]《うえい》して上る。大仁王の社《やしろ》にいたる。喬木数株あり。一坂こゆれば熊野社なり。社庭に正応五年の鐘あり。社前に石車輪《せきしやりん》一隻を造れり。径《わたり》一尺五六寸なり。往年此|村長《むらのをさ》社前の石階を造りてなれり。名を後世にのこさんことを欲してこのものを造りおけり。乃《すなはち》其家の紋なりと社主かたる。門前に上野信濃国界の碑あり。半里下山して軽沢の駅にいたる。蕎麦店に入りて喫するに其清奇いふべからず。しかれども豆漿《とうしやう》渋苦惜むべし。一里五丁沓掛駅。浅間岳を間近く望む。此とき巓に雲|掩翳《えんえい》して烟見えず。一里三丁追分駅。一里十丁小田井駅。一里七丁岩村田なり。駒形明神に詣《いた》る。駒形石全く鈴杜烏石《れいとうせき》の類なり。一里半塩灘駅。大黒屋義左衛門の家に宿す。主人少く学を好む。頃《このごろ》佐藤一斎の※[#「にんべん+至」、7巻−61−下−1]《てつ》佐藤|梅坡《ばいは》といふもの此に来て教授す。天民大窪酔客も亦来遊すといふ。此日天赫々なれども、山間の駅ゆゑ瘴気冷然たり。行程八里|許《きよ》。」碓氷峠の天産植物に言及してゐるのは、蘭軒の本色である。北五味子は南五味子のびなんかづらと区別する称である。砂参は鐘草とあるが、今はつりがねにんじんと云ふ。桔梗科である。つりがねさうは次の升麻と同じく毛※[#「くさかんむり/艮」、第4水準2−86−12]《まうこん》科に属して、くさぼたんとも云ふ。劉寄奴は今菊科のはんごんさうに当てられ、おとぎりさうは金糸桃科の小連翹に当てられてゐる。蘭軒は前者を斥してゐるのであらう。
詩が二首ある。「碓氷嶺。碓氷危険復幽深。五月山嵐寒透襟。蘿掛額般途九折。雲生脚底谷千尋。顧看来路人如豆。仰望前巓樹似簪。欲訪赤松応不遠。群羊化石石成林。望浅間岳。信陽第一浅間山。劣与芙蓉伯仲間。岳勢肥豊不危険。焔烟日日上天※[#「門<環のつくり」、7巻−61−下−16]。」
第六日。「廿四日卯時に発し、朝霧《てうむ》はれんとするとき、筑摩川の橋を渡る。此より浅間岳を望む。烟の升《のぼ》る焔々たり。此川|大《おほい》なれども水至て浅し。礫砂至て多し。万葉新続古今雪玉集みなさゞれ石をよみたり。古来よりの礫川《れきせん》と覚ゆ。廿七町八幡駅。卅二町望月駅。城光院に詣《いた》る。一里八丁蘆田駅。一里半長窪駅也。下和田に至て若宮八幡の社《やしろ》あり。此社前に小渠ありて九尺|許《きよ》の橋を架たり。其上に屋根をふき欄干をつけたり。世人和田義盛の墳なりといふ碑に天正十九年の字あり。実は大井信定の墓なり。上和田駅風越山|信定寺《しんぢやうじ》といふ禅寺の守《まもる》ところにして、寺後に信定の城墟あり、石塁今に存といふ。二里上和田の駅。比野屋又右衛門の家に宿す。(信定のこと主人の話なり。寺は余|行《ゆい》て見る。)此地蚊なし。※[#「巾+厨」、第4水準2−8−91]《かや》を設ず。暑亦|不甚《はなはだしからず》。行程六里許。」信定は武石大和守信広の二男で、始て和田氏を称した。武石氏も和田氏も、皆|所謂《いはゆる》大井党の支流であつた。和田氏は武田晴信に滅された。蘭軒は晴信の裔《すゑ》であつたので、特に信定の菩提所をも訪うたのであらう。
その三十二
第七日は文化三年五月二十五日である。「廿五日卯時に発す。和田峠を過ぐ。山気至て冷なり。水晶花(卯の花)紫繍毬《ししうきう》(あぢさゐ)蘭草花開たり。細辛《さいしん》(加茂葵)杜衡《とかう》(ひきのひたひ草)多して上品なり。就中《なかんづく》夏枯草《かこさう》(うつぼ草、全く漢種のごとし)萱草《くわんざう》(わすれ草、深黄色甚多し)最多し。満山に紫黄相|雑《まじ》りて奇麗繁華限なし。喬木一株もなく亦鳥雀なし。(これよりまへ碓氷《うすひ》峠その外木曾路の山中鳥雀いたつてまれなり。王安石一鳥不鳴山更幽の句|覚妙《めうをおぼゆ》。)谷おほくありて山形甚円く仮山《かざん》のごとし。下諏訪|春宮《はるみや》に詣り、五里八丁下諏訪の駅に到る。温泉あり。綿の湯といふ。上中下《かみなかしも》を分《わかつ》ている。上の湯は清灑《せいしや》にして臭気なし。これを飲めば酸味あり。上の湯の流あまりを溜《たむ》るを中といひ、又それに次《つぐ》を下といふ。轎夫《けうふ》駄児《たじ》の類浴する故|穢濁《くわいだく》なり。此湯疝ある人浴してよく治すといへり。〔此辺温泉おほし。小湯《こゆ》といふあり。小瘡《せうさう》によし。たんぐわの湯といふあり。性熱なり。小瘡を患《うれ》ふるもの小湯に入まさに治んとするとき此湯にいる。又上諏訪山中に渋の湯といふあり。はなはだ温ならず。しかれども硫黄《りうわう》の気強して性熱なり。一口のむときは忽《たちまち》瀉利《しやり》す。松本城下に浅間の湯といふあり。綿の湯と同じ。疝を治す。山辺の湯といふあり。疝癪の腹痛によし。至てぬるしといふ。〕下の諏訪秋宮に詣り、田間の狭路をすぐ。青稲《せいたう》脚を掩ひ鬱茂せり。石川《せきせん》あり。急流|※[#「王+爭」、第4水準2−80−78]々《さう/\》として湖《こ》に通ず。諏訪湖水面漾々たり。塩尻峠を越え、三里塩尻駅。堺屋彦兵衛の家に投宿す。下条《げでう》兄弟迎飲す。(兄名|成玉《せいぎよく》、字叔琢《あざなはしゆくたく》、号寿仙《じゆせんとがうす》、弟名|世簡《せいかん》、字|季父《きふ》、号春泰《しゆんたいとがうす》、松本侯臣、兄弟共泉豊洲門人なり。)家居頗富。書楼薬庫山池泉石尤具す。薬方両三を伝。歓話夜半に及てかへる。此日暑甚。行程八里半|許《きよ》。」細辛はアサルムの数種に通ずる名だから、此文はかもあふひの双葉細辛を斥してゐるのであらう。杜衡はかんあふひか。うつぼぐさは※[#「さんずい+除」、第3水準1−86−94]州《ぢよしう》夏枯草か。
詩。「和田嶺。一渓渓尽復巌阿。路自白雲深処過。薬艸如春花幾種。黄萱最是満山多。諏訪湖。琉璃鏡面漾新晴。粉※[#「土へん+楪のつくり」、第4水準2−4−94]浮沈高島城。遙樹如薺波欲浸。低田接渚緑方平。漁船数点分烟影。駅馬一行争晩程。繚繞湖辺千万嶺。芙蓉雪色独崢※[#「山+榮」、第3水準1−47−92]。宿塩尻駅下条兄弟迎飲。嘗結茗渓社。今来塩里廬。山泉宜煮薬。岩洞可蔵書。爽籟涼生処。旧遊談熟初。暑氛与客恨。酔倒一時虚。」
第八日。「廿六日卯時に発す。一里三十丁、洗馬駅。三十丁本山駅なり。此駅前月火災ありて荒穢《くわうくわい》なり。これより木曾路にかかる。此辺に喬木おほし。ゆく先も同じ。崖路を経堺橋をすぎて二里熱川駅。一里半奈良井駅。午後鳥居峠にいたる。御嶽山近く見ゆ。白雪|巓《いたゞき》を覆ふ。轎夫《けうふ》いふ。御嶽山上に塩ありと。所謂《いはゆる》崖塩なるべし。一里半藪原駅。二里宮越駅。若松屋善兵衛の家に宿《やどる》。此日暑甚し。三更のとき雨降。眠中しらず。行程九里|許《きよ》。」
その三十三
第九日は文化三年五月二十七日である。「廿七日卯時に発す。朝霧《てうむ》深し。
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