郊辺小沢といふ所|茶店《ちやてん》(泉屋善助)の傍《かたはら》に小樹籬《せうじゆり》を囲て石作士幹《いしづくりしかん》の墓あり。墓表隷字にて駒石石《くせきせき》先生之墓と題す。碑文紀平洲撰せり。一里半福島駅にいたる。関庁荘厳なり。桟道の旧跡を経て新茶屋といふに到る。屋後に行きて初て厠籌《しちう》を見たり。竹箆にはあらず。広一寸弱長四五寸の片木なり。二里半|上松《あげまつ》駅にいたる。臨川《りんせん》寺は駅路|蕎麦店間《けうばくてんかん》より二丁|許《きよ》の坂を下りている。此書院に古画幅を掛たり。広一尺一二寸|長《たけ》三尺許装※[#「さんずい+(廣−广)」、第3水準1−87−13]もふるし。一人物|巾《きん》を頂き裘《きう》を衣《き》たり。舟に坐して柳下に釣る。※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]なし。筆迹松花堂様の少く重きもの也。寺僧|浦島子《うらしまがこ》の象《かた》なりといふ。全く厳子陵《げんしりよう》の図なり。庭上に碑あり。碑表は石牀先生之墓と題す。三村三益、字季※[#「山+昆」、第4水準2−8−45]《あざなはきこん》といふ木曾人の碑なり。熊耳余承裕《ゆうじよしようゆう》撰するところなり。小野滝看《をのたきみ》の茶屋に小休《こやすみ》して三里九丁須原の駅。大島屋唯右衛門家に投宿す。時已未後なり。此辺|酸棗木《さんさうぼく》(小なつめ)蔓生の黄耆《わうぎ》(やはら草)多し。民家に藜蘆《りろ》(棕櫚草)を栽《うう》るもの数軒を見る。凡《おほよそ》信濃路水車おほし。此辺尤多し。又一種|水杵《すゐしよ》あり。岩下或は渓間に一|小屋《せうおく》を構臼を安《お》き長柄杵《ながえぎね》(大坂|踏杵《ふみきね》也)を設け、人のふむべき処に凹《くぼみ》をなして屋外に出す。泉落て凹処降る故、忽《たちまち》水こぼる。こぼれて空しければ杵頭《しよとう》降りて米穀|※[#「てへん+舂」、7巻−64−下−15]《つ》ける也。常勝寺にいたる。義清奉納の大鼓あり。(図後に出す。)此日暑甚し。行程八里半|許《きよ》。」
小沢に葬られた石作駒石は名を貞、字を士幹と云ふ。通称は貞一郎である。尾張家の附庸《ふよう》山村氏に仕へた。山村氏は福島を領して所謂《いはゆる》木曾の番所の関守であつた。駒石は明和の初に、伊勢国桑名で南宮大湫《なんぐうたいしう》に従学した。即ち蘭軒の師泉豊洲のあにでしである。寛政八年正月十四日に五十七歳で歿した。時に大湫の歿後十八年で、豊洲は三十九歳になつてゐた。駒石は晩年山村氏のために邑政《いふせい》を掌《つかさど》つて、頗る治績があつた。その二宮尊徳に似た手段は先哲叢談続編に見えてゐる。序に云ふ。叢談に此人の字《あざな》を子幹に作つたために、世に誤が伝へられてゐた。蘭軒は平洲の墓誌銘を目睹して、士幹と書してゐる。士幹を正となすべきであらう。
三村三益、名は璞《ぼく》、字は季※[#「山+昆」、第4水準2−8−45]《きこん》、一に道益と称した。山脇東洋の門人にして山村氏の医官である。木曾の薬草は始て此人によつて採集せられた。宝暦十一年に六十二歳で歿した。三益は採薬に土民を役したから、藜蘆を植うる俗の如きも、或は此人の時に始つたのではなからうか。
臨川寺の僧が厳子陵の図を浦島が子となしたのは、木曾の寝覚の床に浦島が子の釣台《てうたい》があると云ふ伝説に拠つて言つたのであらう。
紀行の此辺より下《しも》には往々欄外書がある。中には狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎森|枳園《きゑん》等の考証もある。惜むらくは製本のために行首一二字を截り去られた所がある。枳園の筆迹と覚しき水杵の考証の如きも其一である。纔《わづか》に読み得らるゝ所に従へば、水杵は中国の方言にそうづからうすと云ふ、西渓《せいけい》叢語の泉舂《せんしよう》の類だと云ふのである。
村上義清が常勝寺に寄附したと云ふ大鼓は、図後に出すと註してあつて、其図は闕けてゐる。前の蓮生寺の碑以下皆さうである。これに反して水杵の図が格上に貼つてあつて、方言どつたりと記してある。
詩。「早発宮腰駅到須原駅宿。其一。朝来旅服染青嵐。山似重螺水似藍。途莫敢経※[#「石+干」、7巻−66−上−2]犬谷。底何可測斬蛇潭。関門厳粛松千鎖。岳脊昂低雪一担。忽捨肩輿誇勝具。※[#「工+卩」、7巻−66−上−4]莱叱馭且休談。其二。険路絶将懸桟通。灘深滝急激声雄。臨川古寺僧迎客。看瀑孤亭嫗喚童。家畜猪熊郷自異。樹遮日月影将空。偶与帰樵行相語。自是葛天淳朴風。其三。小憩茅檐問里程。吹烟管歛竹筒行。蚕簾斉※[#「日+麗」、第4水準2−14−21]横斜架。泉杵時聞伊軋声。碧蘚開花岩脚遍。黄蓍作蔓石頭生。晩陰投宿山中駅。蠅子為群※[#「榮」の「木」に代えて「糸」、第3水準1−90−16]菜羹。」
その三十四
第十日は文化三年五月二十八日である。「廿八日卯時発。一里三十丁野尻駅。木曾川|石岩《せきがん》に映山紅《えいざんこう》盛に開く。矮蟠《あいはん》すること栽《うゝ》るがごとし。和合酒《わがふしゆ》を買ふ。(酒店和合屋|木工右衛門《もくゑもん》と名《なづ》く。)二里半三|富野《との》駅。一里半妻籠駅。二里馬籠駅。扇屋兵次郎家に宿す。苦熱たへがたし。行程七里半|許《きよ》。」映山紅はやまつつじである。花木考に「山躑躅一名映山紅」と云つてある。
詩。「野尻駅至三富野途中。谷裏孤村雲裏荘。僻郷却是似仙郷。※[#「飮のへん+羔」、第4水準2−92−66]摶粉蕨甘兼滑。酒醸流泉清且香。板屋畏風多鎮石。桑園防獣為囲墻。詩吟未満奚嚢底。已厭山程数日長。雌雄瀑布。瀑泉遙下翠嵐中。迸勢争分雌与雄。誰是工裁長素練。十尋双掛石屏風。」
第十一日。「廿九日卯時に発す。十曲《とまがり》峠をすぐ。美濃信濃の国境なり。一里五丁落合駅。与坂《よさか》の府関《ふくわん》ありて一里五丁中津川駅なり。此駅に一老翁の石をうるあり。白黒石英の類なり。其いづる所を問へば、此国苗木城西二里|許《きよ》水晶が根といふ山よりとり来るといふ。二里半大井駅。十三峠をのぼる。此|嶺《れい》はなはだ険ならず、渓《けい》なく谷《こく》あり。石も少して赤埴土《あかきはにつち》なり。木曾路のごとく山腹の崖路にあらず、山頭の道なり。松至て多く幽鬱の山なり。三里半|大湫《おほくて》駅。小松屋善七の家に宿す。午後風あり涼し。雷《かみ》なる。雨ふらず。行程八里半余。」
詩。「巻金村。離信已来濃。行行少峻峰。望原莎径坦。臨谷稲田重。五瀬雲辺嶺。七株山畔松。炊烟人語近。半睡聴村舂。」五|瀬《らい》はいせである。「此地遠望勢州之諸山、翠黛於雲辺」と註してある。
第十二日。「六月|朔日《ついたち》卯発。琵琶嶺をすぎ山を下れば松林あり。右方に入海のさまにて水滔々たり。諸山の影うつる。海の名を轎夫《けうふ》に問へば谷間の朝霧なりと答ふ。はじめて此時仙台政宗の歌を解得《ときえ》たり。(仙台政宗の歌に、山あひの霧はさながら海に似て波かときけば松風の声。)一里三十丁|細久手《ほそくて》駅。此近村に一|呑《のみ》の清水といふあり。由縁《いうえん》詳《つまびらか》ならず。然ども鬼の窟《いはや》、鬼の首塚等の名あれば、好事者鬼といふより伊勢もの語にひきあてゝつけし名ならんか。三里御嶽駅。一里五丁伏見駅。太田川を渡り二里太田駅。芳野屋庄左衛門の家に宿す。熱甚。しかれども風あり。此駅に到て蠅大に少し。蚊は多し。此夜|※[#「巾+厨」、第4水準2−8−91]《かや》を設く。行程七里|許《きよ》。」
第十三日。「二日卯発し駅をいづれば、渓水浅流の太田川にながれ入る所あり。方一尺許の石塊をならべてその浅流を渡る。直にのぼる山|乃《すなはち》勝山なり。一山みな岩石也。斫《きり》て坂となし坦路となしゝものあり。窟の観音に詣る。佳境絶妙なり。河幅至てひろく、水心に岩石|秀聳《しうしよう》し、蟠松矯樹《はんしようあいじゆ》ううるがごとく生ず。水勢の石に激する所あり。淵をなして蒼々然たる所あり。浅流底砂を見る所あり。美濃山中の勝地ならん。二里鵜沼駅にいたる。犬山の城見ゆる。四里八丁加納駅。一里半河渡駅。塗師《ぬし》屋久左衛門の家に宿す。気候前日のごとし。行程七里半余。」
詩。「観音阪。観音山畔望。渓水濶且奇。源自東西会。瀬因深浅移。小航工避石。壊岸却成逵。只見宜玄対。愧余未忘詩。」
その三十五
第十四日は文化三年六月三日である。「三日、此日は南宮山に詣《いた》らんとして未明撫院に先《さきだ》つて発せり。一貫川を経て一里六丁|美江寺《みえでら》駅に到る。呂久《ろく》川を渡り大垣堤を過《よぎ》るとき、旭日初て明に養老山望前に見ゆ。二里八丁赤坂の駅に到る。青野原の傍《かたはら》を経て垂井《たるゐ》駅なり。駅中に南宮一の鳥居あり。七八丁入り社人若山八兵衛といふものを導《みちびき》として境内を歴覧す。空也上人建るところの石塔みかげ石字なし。図巻末に出す。仏師春日の造る狛犬は随身門《ずゐじんもん》の後にあり。古色朴実にして猛勢怖るべきがごとし。左方の狛犬玉眼一隻破たり。本社の内にも狛犬あれども新造のものにして観るに足らず。全く春日の作を摸するものと思はる。鐘あり。銅緑を一面に生じて古色なり。銘なし。社旁《しやはう》に五重の石塔婆あり。高さ三尺七八寸苔蘚厚重して銘かつてよめず。(籬島《りたう》よくも見たり。)図後に出す。鉄塔あり。古色実に五百年前のもの也。銘よみうれども鉄衣あつき故摺得ず、やうやく年号のみすりたり。往年は屋前も作らずありしを中川飛騨守(勘定奉行たりしとき)検巡のとき命じて作らしむといふ。好古の意見つべし。銘は板に書し屋上に掲たり。此より山中奥の院は十八丁ありといふ故|不行《ゆかず》して駅へ帰りければ撫院已に駅長の家に来れり。一里半関が原の駅にいたる。駅長の家に神祖陣営の図を蔵《をさ》む。駅長図を披《ひらい》て行行《ゆく/\》委細にとけり。駅中に土神八幡の祠あり。これは昔年よりありしを慶長の乱に西軍これを焼けり。後元和中越前侯|忠直《たゞなほ》(一|白《はく》)再脩せり。此所神祖|御榻《ぎよたふ》の迹なり。土人の説に此より北国道へ少し入りて松間なりといふ。旧図に不合《あはず》。当時石田の意は青野原にて決戦と謀しを、神祖不意に此処に出て三方の山に軍陣を列し、関が原へ西軍を包がごとく謀りし故西軍大に敗せりといふ。首塚二|堆《たい》あり。数里にして不破関の迹なり。今に土中より麻皺《ましう》の古瓦《こぐわ》いづるといへり。江濃《こうのう》両国境を経一里柏原駅。一里半|醒井《さめがゐ》駅。虎屋藤兵衛の家に宿す。暑尤甚し。行程九里|許《きよ》」
空也上人の建てた石塔も、五重の石塔婆も、後に図を出だすと云つてあるが、其図は佚亡してしまつた。中川勘三郎|忠英《たゞひで》、叙爵して飛騨守と云ふ。寛政九年二月十二日に長崎奉行より転じて勘定奉行となり、国用方《こくようかた》を命ぜられた。曲淵《まがりぶち》甲斐守|景漸《けいぜん》の後を襲《つ》いだのである。尋で六月六日に忠英は関東の郡代を兼ねた。此年正月に至つて、大目附指物帳鉄砲改に転じた。南宮山古鐘のために屋舎を作らしめたのは此忠英である。
詩。「関原駅。村長披来御陣図。平原指点説須臾。転知黎庶帰明主。遂是奸雄成独夫。首馘千年※[#「隻+隻」、7巻−69−上−14]塚在。※[#「示+駸のつくり」、第4水準2−82−70]氛万里一塵無。行行今拝山河去。酒店茶亭満駅途。不破関古址。関門陳迹旧藤河。此境先賢佳句多。林裏荒簷三両戸。昇平今不復誰何。江濃界。落日村墟涼似秋。農人相伴過青疇。帰家仍隔疎籬語。便是江濃分二州。」
第十五日。「四日卯時に発し一里番場駅。蓮華寺に詣り、午後|磨針嶺《すりばりれい》望湖堂に小休す。数日木曾山道の幽邃に厭《あき》し故此に来《きたり》湖面滔漫を遠望して胸中の鬱穢《うつくわい》一時消尽せり。時に天曇り月出崎《つきのでさき》竹生島模糊として雨色を見れども、雨足過行て比良
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