山を陰翳し竹生島実に画様なり。(人ありいはく。琵琶湖は沢《たく》といふべし。湖《こ》にあらず。余|按《あんずるに》震沢を太湖と称するときは湖といふも妨なし。)一里六丁|鳥居本《とりゐもと》駅。此辺に床の山あり。(往年朝妻舟の賛に床の山を詠ぜしは所ちかき故入れしなり。此に到て初てしる。)一里半高宮駅。二里|愛智川《えちかは》駅なり。松原あり。片山といふ山を望む。二里半|武佐《むさ》駅。仙台屋平六の家に宿す。此日午前後晴。晩密雲|不雨《あめふらず》。雷《かみ》なる。暑甚し。行程八里許。」
 此日の記事中深艸元政を引いた一節があつたが、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が其誤を指※[#「てへん+適」、第4水準2−13−57]してゐるから削つた。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は又蘭軒が蓮花寺弘安年間の古鐘を見なかつたのを憾《うらみ》としてゐる。
 詩。「磨針嶺。磨嶺旗亭巌壑阿。望湖堂上観尤多。漁村浦遠疑無路。洲寺市通還有坡。一掃雲従仙島起。暫時雨逐布帆飛。西行瓊浦逢清客。欲問洞庭囲幾何。」

     その三十六

 第十六日は文化三年六月五日である。「五日五更に発す。三里半守山駅。守山寺を尋ぬ。一里半草津駅。※[#「女+爾」、第4水準2−5−85]母餅茶店《うばがもちちやてん》に小休す。勢田橋西茶店にて吉田大夫に逢ふ。三里半六丁大津駅。牧野屋熊吉の家に宿す。駅長の家にして淀侯の侍医留川周伯といふ者に逢ふ。森養竹の所識《しよしき》なりといふ。此日熱甚し。行程八里半|許《きよ》。」
 詩。「粟津原。戦場陳迹望湖山。荒冢碑存田稲間。十里松原途曲直。柳箱布※[#「僕」の「にんべん」に代えて「巾」、第3水準1−84−12]旅人還。」松原と云ひ、柳箱と云ふ、用ゐ来つて必ずしも眼を礙《がい》せず。
 第十七日。「六日寅時に発し四の宮川橋十禅寺橋を経過す。みな小橋なり。十禅寺門前を過ぎ追分に到る。(柳緑花紅碑を尋《たづぬ》。夜いまだあけざる故尋不得。)矢弓茶店(奴茶屋といふ、片岡流射術の祖家なり)に小休す。数里行て夜|正《まさに》あけたり。姥《うば》が懐《ふところ》より日の岡峠にいたる。崗《かう》高からず。※[#「足へん+易」、第4水準2−89−38]揚茶店《けあげちやや》に休す。白川橋三条大橋三条小橋を経て押小路柳馬場島本三郎九郎の家に至る。(長崎宿というて江戸の長崎屋源右衛門大阪の為川辰吉みな同じ。)日正辰時なり。撫院は朝《てう》せり。余は寺町御池下る町銭屋総四郎を訪ふ。(姓|鷦鷯《ささき》、名|春行《しゆんかう》、号竹苞楼《ちくはうろうとがうす》。)主人家に在て応対歓晤はなはだ※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かなへ》り。古物数種を出して観しむ。所蔵の大般若第五十三巻零本巻子なり。神亀五年の古鈔跋文中に長王の二字あり。又古鈔零本玉篇一本辺格上短下長、(延喜式図書令の度なり)その裏を装修せしも古鈔本の仏経なり。「治安元年八月廿八日 以石泉御本写之已了 康平六年七月 於平等院 奉受此経 仏子快算」とあり。右|件《くだん》の年号にて玉篇の古鈔知べし。古鈔孝経七八種あり。みな古文なり。一部後宇多帝の花押あり。尤珍貴とすべし。又類編群書画一元亀丁部巻之二十一の古鈔零本金沢文庫の印あるものあり。唐代所著のものと見ゆ。又白氏文集巻子零本三巻会昌□年鈔僧|慧萼《えがく》将来によりて書する本あり。亦金沢文庫の印あり。又太子伝全本「永万元年六月十九日書 借住円舜」とあり。又今出川内大臣|晴季《はるすゑ》公(秀頼同代人)帯する所の木魚刀一あり。皆古香馥郁たるものなり。且語次にいふ所の書数種なり。新撰六旬集占病占夢の書なり。跋文に「斯依滋兵川人貞観十三年奉勅撰進爾甲撰進之」とあり。又三帰翁十巻といふものあり。其書ありといへども百味作字の一巻|無《なき》ときは薬名考べからずといへり。又弘法大師将来の五嶽真形図あり。普通の図と異なり。又篁公書する所の仏書あり。無仏斎|藤貞幹《とうていかん》の蔵するもの也。其古物珍貴しるべし。又日本国現在書目ありといふ。又医書一巻元亀の古鈔本にて末云《すゑにいはく》「耆婆宮内大輔施薬大医正五位上国撰」とあり。日已未時。さりて智恩院に行き祇園の茶店中村屋に至て休す。(豆腐|味《あぢはひ》尤よし。他|雑肴《ざつかう》箸を下《くだす》べからず。)樹陰清涼大に佳なり。此日祭神日の前一日なり。しかれども甚雑喧ならず。八坂に行《ゆき》塔下を経て三年坂を上る。坂側《はんそく》みな窯戸《えうこ》なり。烟影|紛※[#「褒」の「保」に代えて「馬」、7巻−71−下−10]《ふんでう》せり。嫗堂《うばだう》経書堂の前をすぎ清水寺門前の町に至る。酒店多し。みな提燈に酒肴の名を書して竿上に掲ぐ。清水寺中を歴観し台上に休してかへる。蓮花王院方広寺に行く。大仏殿災後いまだ経営なし。只洪鐘のみ存ぜり。耳塚を経て寺門前茶店に至て撫院を待。正《まさに》申後なり。薄暮撫院来る。遂に従て行く。伏見街道に至れば已に夜なり。三峰稲荷|藤杜《ふぢのもり》の前をすぎ墨染深草の里を経、初更後伏見布屋七兵衛の家に宿す。伏見の境は東都江戸橋四日市の地と家居地勢頗同じ。此日暑甚しからず。旅家女商来る。煩喧《はんけん》蠅のごとし。行程九里許。」

     その三十七

 是日に蘭軒は京《けい》に入り京を出でた。一行は敢て淹留《えんりう》することをなさなかつたのである。奴茶屋の条に、片岡流射術の祖と云つてあるのは、片岡平右衛門家次の一族を謂つたものであらうか。その詳《つまびらか》なることはわたくしの知らざる所である。
 蘭軒が京都銭屋総四郎の許で閲《けみ》した古書の中に、治安中の鈔本玉篇がある。蘭軒は其裏を装修するに古鈔仏経を以てしてあると云つた。然るに狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が欄外に下の如くに書してゐる。「望之《ばうし》云。背面の仏経は玉篇の零本を料紙にして写したるものなり。巻子儒書の背に仏書あるもの皆これ也。仏書の故紙を以て装修せしにはあらず。」
 同じ銭屋の蔵本の中に又画一元亀の零本があつた。蘭軒はそれを「唐代所著のものと見ゆ」と云つた。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は此にも筆を加へて、「画一元亀は趙宋の書にして唐代のものにはあらず」と云つてゐる。画一元亀は多く舶載せられなかつた書である。徳川家康が嘗て僧某のこれを引いたのを聞いて林羅山に質《たゞ》した。羅山はそんな書は無いと云つたさうである。いかに博識でも、そんな書は無いなどと云ふことは、うかと云はれぬものである。
 今出川内大臣晴季は左大臣|公彦《きんひこ》の子で、豊臣秀吉の密友になつた。秀吉をして関白を奏請せしめたのは此人である。永禄四年女婿秀次の事に坐して北国に謫《たく》せられ、慶長元年赦されて還り、元和三年七十九歳で薨じた。
 詩は七律一、五律二、七絶一が集に載せてある。今其七律を録する。「入京。家々櫛比且豊饒。千載皇京属聖朝。仙署客鳴珠履過。青雲路向紫宸遙。東西※[#「隻+隻」、7巻−73−上−3]寺金銀閣。上下長橋三五条。観得都人風化好。陌頭来往不相驕。」
 第十八日は文化三年六月七日である。「七日卯時伏見舟場より乗船、撫院に侍す。淀の小橋をすぐ。朝霧《てうむ》いまだはれず。水車の処に舟をよせて観たり。行々《ゆき/\》て右淀の大橋を見、左に桂川の落口を見て宮の渡の辺に到て、霧《きり》霽《はれ》日光あきらかに八幡の山|平瀉《ひらかた》の民家一覧に入て画がけるがごとし。淀川十里の間あし茅《かや》の深き処、浅瀬の船底石に摩《す》る処、深淵の蒼みたるところ、堤に柳ありて直曲なる処、野渡《やと》のせばき処、遠き山見るところ、近き村ある処、彼此観望する間、未後大坂城を前に望て、遂に過所町《くわしよまち》の河岸に著く。撫院は為川辰吉の家に入る。余は伏見屋庄兵衛の楼上に寓す。此楼下は大河に臨み、舟に乗来し処、天満《てんま》橋天神橋難波橋より西は淀屋橋辺を望て、遊船|商※[#「舟+皇」、7巻−73−下−2]《しやうくわう》日夜喧嘩なり。夜に入ば烟火戯光映照波絃歌相和。ことに涼風満楼|蚊蠅《ぶんよう》絶てなし。数日旅程の暑炎鬱蒸盪瀉し尽せり。此日天晴。」
 詩。「暁下淀河。其一。舟舷置棹順流行。離岸茫々傷客情。数叫杜鵑何処去。暁雲深籠淀河城。其二。疎鐘渡水報清晨。山翠雲晴濃淡新。※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]犬声聞蘆荻外。先知村市近河浜。其三。波光泛日霧初消。次第行過大小橋。猶有篷舟泊洲渚。折来枯柳作薪焼。浪華。其一。豊公旧築浪華城。都会繁華勝帝京。民俗猶余雄壮気。路傍攘臂動相争。其二。縦横廛市夾河流。商舸来従数十州。大賈因能処奇貨。驕奢時有擬公侯。」
 第十九二十の両日は、蘭軒が大阪に留まつてゐた。「八日土佐堀の藩邸に到る。中根五右衛門を訪。帰路に心斎橋街に行き書肆を閲す。凡三四町書肆|櫛比《しつぴ》す。塩屋平助、秋田屋太右衛門の店にて購数種書。伏見宇兵衛来て秋田屋に家居せり。両本願寺へ行き道頓堀を経過して日暮かへる。此日晴。」
「九日田沼玄仙雲林院玄仲を訪不遇。日薄暮玄仲来。年六十二。謙遜野ならず。此日暑甚し。」

     その三十八

 第二十一日は文化三年六月十日である。「十日辰後に客舎を発し、難波橋を渡り天満《てんま》の天神へ詣《いた》り、巳時|十※[#「隻+隻」、7巻−74−上−9]《じふさう》村に到る。此地平遠にして青田広濶なり。隴畝《ろうほ》の中数処に桔槹井《けつかうせい》を施て灌漑の用をなす。十※[#「隻+隻」、7巻−74−上−10]川を渡り尼崎城下をすぐ。此地市街城をめぐり二十余町人家みな瓦屋《ぐわをく》にして商賈多く万器乏しき事なし。人喧都下の郭外に似たり。五里西宮駅。上田屋平兵衛の家に宿す。時いまだ未《ひつじ》ならず。西宮に到りて拝神《かみをはいす》。世人|蛭児尊《ひるこのみこと》を称すれども祭神中央は天照太神宮にして左素盞嗚尊、右蛭児尊なり。拾玉集慈鎮の歌にて只蛭児を称するのみ。下馬碑あり。関東みな牌なり。此碑となす亦奇也。宝多山六湛寺を尋ぬ。康永中虎関禅師の開基なり。古鐘あり。銘曰。「摂津国西成郡舳淵荘盛福寺鐘文永十一年甲戌四月九日鋳。」いづれの頃此寺に移ししか寺僧に問ども不知。あまり大鐘にあらず。径《わたり》一尺八寸七分|許《きよ》厚二寸許緑衣生ぜり。此日寺中書画を曝す日にて蔵画を見たり。大横幅著色寿老人一|掛《くわい》寺僧|兆殿司《てうでんす》の画《ゑがく》ところなりといへども新様にして疑ふべし。しかれども図式は頗奇異なり。全《まつたく》摸写のものならん。名識印章並になし。竪幅《じゆふく》二掛一対墨画十六羅漢明兆画とありて印なし。飛動気韻ありて且古香|可掬《きくすべし》。殿司の真迹疑べからず。駅長の家烏山侯霞崖の書せる安穏二字を榜《ばう》す。此日暑甚し。行程五里許。」
 詩。「已発浪華将就山陽道到十※[#「隻+隻」、7巻−74−下−15]村作。其一。朝嵐欲霽半蒼茫。村市人声未散場。菜畝千※[#「勝」の「力」に代えて「土」、7巻−74−下−16]青似海。桔槹数十賽帆檣。其二。六月凌霄花政開。暑炎如燬起塵埃。行程未半西遊道。已是離郷廿日来。」
 第廿二日。「十一日卯時に発す。駅を離れて郊路なり。菟原《うはら》住吉祠に詣り海辺の田圃を経《ふ》る。村中醸家おほし。木筧《もくけん》曲直《きよくちよく》して水を引こと遠きよりす。一望の中武庫摩耶の諸山近し。生田祠に詣《いた》る。此日祠堂落成|遷神《せんしん》す。社前の小流生田川と名く。(古今六帖に出。)荷花盛に開く。門を出桜の馬場の半より左曲す。坂本村田圃を過。楠公碑を拝し湊川をすぐ。水なし。五里兵庫駅。六軒屋定兵衛の家に休す。日|正《まさに》午《ご》なり。尻池村をすぎ平知章墓《たひらのともあきらのはか》監物頼賢墓《けんもつよりかたのはか》平通盛墓を看る。苅藻《かるも》川の小流を経て東須磨に到る。いなば薬師に詣り西須磨をすぐ。西須磨の家毎軒竹簾を垂る。平家内裏
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