を遷しし時の遺風なりといへり。此近村大手村、桂尾《けいび》山勝福寺といふ寺に文翰詞林三巻零本ありと鷦鷯春行《さゝきしゆんかう》かたりたり。此日尋ることを不得遺憾といふべし。須磨寺にいたる。上野山《しやうやさん》福祥寺といふ。此亦下馬碑あり。蔵物を観る。辨慶の書は、双鉤填墨《さうこうてんぼく》のものゝごとし。源空の書は東都屋代輪池蔵する選択集《せんぢやくしふ》の筆跡に似《にた》るがごとし。敦盛の像及甲冑古色可掬。大小二笛高麗笛古色なり。寺の後山一二三|谷《のたに》をすぎ海浜に出て敦盛塔を看。(一説平軍戦死合墓なりといふ。)五輪石塔|半《なかば》埋《うづもれ》たるなり。此海浜山上|蔓荊子《まんけいし》多し。花盛にひらく。界川に到る。是摂播二国の界なり。垂水《たるみ》の神祠を拝し遊女冢をすぎ千壺岡《ちつぼのをか》に上つて看る。烏崎舞子浜山田をすぎ五里大蔵谷駅。樽屋四郎兵衛の家に宿す。此日暑尤も甚し。此夜月明にして一点の雲なし。兼松弥次と荒木一次とを拉して人麿祠の岡に上る。路に忠度墓《たゞのりのはか》あり。上《かみ》に一大松あり。田間の小路より上るときは大海千里如銀岡上の松間清月光を砕く。石階を下ること三四町にして数町の松堤あり。堤に上りて下れば即海辺の石砂平遠なり。都《すべ》て是|赤石《あかし》の浦といふ。石上に坐するに都て土塵なし。波濤来りて人を追がごとし。海面一仮山のごときものは淡路島なり。夜帆往来して島陰より出るものは微火揺々たり。島前をすぐるは掌中に見るがごとし。数十日炎暑旅情風月に奪ひ去らる。夜半に及で帰る。行程十里許。」
 此日の詩には楠公墓の七律一、須磨の五律二、舞子の五律一、赤石の五律一がある。今須磨舞子赤石の五律|各《おの/\》一を録する。「須磨浦。石磯迂曲路。行避怒濤涵。嶺続東西北。谷分一二三。古書尋寺看。往事向僧談。恃険知非策。平軍遂不戡。舞子浜。数里千松翠。奇枝歴幾年。雨過藍島霽。濤洗雪砂旋。※[#「日+麗」、第4水準2−14−21]網張斜日。飛帆没遠天。不妨村酒苦。一酌即醺然。宿大蔵谷駅溽暑至夜猶甚納涼海磯乃赤石浦也。駅廬炎暑甚。乗月到長湾。銀界明天末。竜鱗動浪間。連檣遮漢影。一島犯星班。涼歩多舟子。斉歌欸乃還。」

     その三十九

 第二十三日は文化三年六月十二日である。「十二日卯時に発す。赤石《あかし》総門を出て赤石川を渡り皇子《くわうじ》村を経て一里半大久保駅、三里半加古川駅にいたる。一商家に小休す。駅吏中谷三助(名清《なはせい》字惟寅《あざなはゐいん》、号詠帰《えいきとがうす》、頼春水の門人なり)来訪、頼|杏坪《きやうへい》の書を達す。此駅|※[#「魚+夷」、第3水準1−94−41]魚《いぎよ》味《あじはひ》美《び》なり。方言牛の舌といひ又略して舌といふ。加古川を渡り阿弥陀宿《あみだじゆく》村をすぎ六騎武者塚(里俗喧嘩塚)といふを経て三里|御著《ごちやく》駅に至り一里姫路城下本町表屋九兵衛の家に宿す。庭中より城楼直起するがごとし。人《ひと》喧《かまびすしく》器用甚備。町数八十ありといふ。此日暑甚し。夜微風あり。行程九里|許《きよ》。」所謂《いはゆる》※[#「魚+夷」、第3水準1−94−41]魚はリノプラグシアであらうか。
 第二十四日。「十三日早朝発す。斑鳩《いかるが》に到て休。斑鳩《はんきう》寺あり不尋。三里半正条。半里片島駅。藤城屋六兵衛の家に休。日正午也。鶴亀村をすぎ宇根川を渡り二里宇根駅、紙屋林蔵の家に宿す。此日暑甚からず。行程六里許。」
 第二十五日。「十四日卯時に発す。大山峠を経て三里|三石《みついし》駅。中屋弥二郎兵衛の家に休す。是より備前なり。二里片上駅。京屋庄右衛門の家に宿し、夜兼松弥次助と海浜|蛭子祠《ひるこのし》に納涼す。此地山廻て海入る。而《しかして》山みな草卉にして木なし。形円にして複重す。山際をすぎて洋に出れば三里ありといふ。真の入り海なり。都《すべ》てこれ仮山水のごとし。延袤《えんぼう》二里許あり。土人小舟にて竜鬚菜《りゆうしゆさい》をとるもの多し。又海船の来り泊するあり。忽舟に乗じて来るものあり。歌謡東都様なり。之をみれば山村九右衛門樋口小兵衛なり。因て四人同舟して山腹の日国寺に詣る。寺北斗を祭て※[#「樗のつくり」、第3水準1−93−68]《う》す。燈火昼のごとし。村人群来す。雑喧|不堪《たへず》また舟にのぼり逍遙漕してかへる。時正に二更後なり。此日苦熱不可忍。この納涼に因て除掃す。行程五里許。」
 詩。「宿片上駅買舟納涼。藻※[#「くさかんむり/俎」、7巻−77−下−2]魚羮侑杜※[#「酉+倍のつくり」、第4水準2−90−38]。買舟暫遶水村回。岡頭燈火人如市。道是星祠祈雨来。」
 第二十六日。「十五日卯時発す。長舟《をさふね》村を経吉井川を渡り四里藤井駅。豆腐屋又六の家に休す。いんべを経る。陶器をうる家あり。此辺みな瓶器破余《へいきはよ》をもつて石にかふ。或は堤を護す。二里岡山城下五里板倉駅。古手屋九兵衛の家に宿す。まさに此駅にいらんとして備前備中の国界碑あり。吉備神祠あり。此日暑尤甚し。行程八里半。」欄外に「陶器は伊部《いんべ》也、片上の少し西也、それより香登《かゞと》それより長船吉井川也」と註してある。
 第二十七日。「十六日卯時発す。三里川辺駅。三里矢掛駅。(三里の内七十二町一里、五十町一里ありといふ。)吉備寺あり。吉備公の墓あり。甲奴《かふど》屋兵右衛門の家に休す。時正に午後陰雲起て雷雨|灑来《そゝぎきたり》数日にして乾渇を愈《いやす》がごとし。未後にいたりて霽《は》る。江原をすぐ。此地広遠にして見るところの山はなはだ不高。長堤数里砂川に傍《そ》ふ。牧童三人許り来て雨余の濁水を伺て魚を捕す。牛みな草を喰て遅々として水を渡り去る。牧童捕魚に耽て不知、忽然として大に驚き牛を尋ね去る。田野の一佳景といふべし。三里七日市。藤本作次郎の家に宿す。此家戸外に吉備宮《きびつみや》の神符を貼《てふ》す。符云。「寒言神尊利根陀見」と。熟察するに八卦なり。抱腹噴飯す。此日雨を得少しく涼し。夜尤清輝。初更菅茶山来訪歓晤徹暁して去る。行程九里許。」欄外に「七十二町の一里土人旅人の云ところなれども実はしからず」と註してある。
 詩。「江原。軽雷雨霽暑初微。数輩牧童行浅磯。昏暮捕魚猶未去。不知牛犢已先帰。宿七日市駅菅先生自神辺駅来訪有詩次韻賦呈。昔年自嘗賦分離。何料今宵有此期。尤喜詞壇一盟主。儼然不改旧霜髭。」次韻の絶句引首「訪」の字の傍に、茶山が「迎か要か」と註してゐる。茶山が境を越えて蘭軒を七日市に訪うたのは、蘭軒を神辺《かんなべ》の家に立ち寄らせようとして、案内のために来たのだといふことが、此推敲の跡に徴して知られる。当時茶山が蘭軒に贈つた原唱は集に載せない。

     その四十

 第二十八日は文化三年六月十七日で、蘭軒は此日に茶山を訪うた。「十七日卯時発す。一里十二町たかや駅。すでに備後なり。安那《やすな》郡に属す。(古昔《こせき》穴国《あなのくに》穴済《あなのわたり》穴海《あなのうみ》和武尊《やまとだけのみこと》悪神を殺戮するの地なり。日本紀景行紀によるに此辺みな海也。)一本榎上御領村下御領村平野村を経て一里廿七町神辺駅。菅茶山を訪。路《みちに》横井敬蔵に逢ひ駅長の家にして細井磯五郎に逢。みな撫院の応接にいづるとなり。茶山の廬駅に面して柴門あり。門に入て数歩流渠あり。※[#「土へん+巳」、第3水準1−15−36]橋《いけう》を架て柳樹茂密その上を蔽ふ。茅屋瀟灑夕陽黄葉村舎の横額あり。堂上より望ときは駅を隔て黄葉山園中に来がごとし。園を渉《わたつ》て屋後の堤上に到れば茶臼山より西連山翠色淡濃村園寺観すべて一図画なり。堤下川あり。茶山春川釣魚の図に題する詩を天下の韻士にもとむ。即此川なり。屋傍に池あり。荷花盛に開く。渠を隔て塾あり。槐寮といふ。学生十数人案に対して書を読む。茶山堂上酒肴を具《そなふ》。その妻及男養助歓待恰も一親族の家のごとし。墨水詩巻対岳堂詩巻を展覧す。福山志を観る。三浦安藤岩野三大夫より酒肴を贈る。庄兵衛(茶山に従て東都にありし僕なり)来り見《まみ》ゆ。午前より来て未後にいたり大に撫院の駕に後る。辞してさる。横尾をすぐ。鶴橋あり。あした川の下流を渡り山手村かや村赤坂村神村をすぐ。此辺堤上より福山城を松山の間に望む。城楼は林標に突兀たり。四里今津駅なり。高洲をへて※[#「片+旁」、第4水準2−80−16]示嶺《ばうしれい》にいたる。(一[#(に)]坊寺《ばうじ》といひ一に牡牛といふ。)一本榎より此に至て我藩知に属す。土地清灑田野開闢溝渠相達して今年の旱《ひでり》に逢ふといへども田水乏きことなし。嶺を下て二里尾道駅なり。此駅海に浜して商賈富有諸州の船舸来て輻湊する地。人物家俗浪華の小なるもの也。今夜観音寺に詣拝するもの雑喧我本郷真光寺薬師詣拝の人のごとし。駅長の家は豊太閣薩摩をせむるとき留宿の家なりといふ。上段の画壁彩色金銀を用ふ綺麗にして古色なり。(細川幽斎九州道の記に備後の津公儀御座所に参上して十八日朝|鞆《とも》までこし侍るとあり。すなはち此尾の道に太閣の留宿するをいふなるべし。)余升屋半兵衛の家に宿す。初更後茶山神辺より来り其門人油屋元助の家に迎へて歓飲す。家居頗大一豪富賈なり。主人|名藉《なはせき》字《あざな》は元助《げんじよ》嘉樹堂といふ。好学《がくをこのみ》て雅致なり。品坐《ひんざ》劇談暁にいたりて二人に別る。此日|甚暑《じんしよ》にあらず。行程九里|許《きよ》。」
 此所にも亦欄外に三件の考証があるが、其一は文字を截り去られて読むべからざるに至つてゐる。余の二件は高屋駅と津との事に就いて誤を正したものである。本文には高屋駅を備後の地だとしてあるのに、欄外にはかう云つてある。「高屋駅は備中也。この西に一本榎あり。これ中後の界也。」本文には又備後の津の公儀御座所を豊公の宿だとしてあるのに、欄外にはかう云つてある。「備後の津公儀御座所といふは義昭将軍をいふ也。津といふは今の津の郷村也。」筆跡に依つて推するに、此考証は森|枳園《きゑん》の手に出でたものらしい。
 穴海は景行紀二十七年十二月の条に出でてゐる。「到於熊襲国(中略)。既而従海路還倭。到吉備以渡穴海。」穴済《あなのわたり》は又其二十八年二月の条に出でてゐる。「日本武尊奏平熊襲之状曰。(中略)唯吉備穴済神及難波柏済神。(中略)並為禍害之藪。故悉殺其悪神。」穴国は国造本紀に「吉備穴国造」がある。亦景行帝の時置く所である。

     その四十一

 蘭軒が黄葉夕陽村舎を訪うた記事は、山陽の文と併せ読んで興味がある。「後就其家東北河堤竹林下築村塾。帯流種樹。対面之山名黄葉。因曰黄葉夕陽村舎。舎背隔野望連阜。有茶臼山。因自号茶山。」此対面の山は初めもみぢやまと呼ばれてゐたが、茶山に由つて世に聞え、今はくわうえふざんと音読せられてゐる。茶山が号の本づく所の茶臼山は、原《もと》の名|秋円山《あきまるやま》である。道之上《みちのうへ》城址の在るところで、形より茶臼の称を得た。
 茶山が当時の身分は、前《さき》に江戸に客たりし時より俸禄が倍加せられてゐる。茶山は寛政四年に五人扶持を給せられ、享和元年に儒官に準ぜられ、文化二年に五人扶持を増して十人扶持にせられた。即ち蘭軒の来訪した前年である。これより後茶山は十人扶持づつの増俸を二度受けて三十人扶持になり、大目附に準ぜられて終つた。
 蘭軒を※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]待した家族は紀行に「その妻及男養助」と記してある。妻は継室|門田《もんでん》氏であらう。養助は要助の誤で、茶山の弟猶右衛門|汝※[#「木+便」、第4水準2−15−14]《じよへん》の子要助、名は万年《ばんねん》、字《あざな》は公寿《こうじゆ》である。汝※[#「木+便」、第4水準2−15−14]の※[#「木+便」、第4水準2−15−14]は司馬相如《しばしやうじよ》の賦に※[#「木+便」、第4水準2−15−14]南予章《へんなんよしやう》と
前へ 次へ
全114ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング