あつて、南国香木の名である。
酒肴を贈つて来た「三大夫」の中、三浦は当時の家老に平十郎、勘解由、軍記などがあつて、どの人とも定め難い。安藤は内蔵《くら》であらう。岩野は与三右衛門であらう。
茶山は既に蘭軒を七日市に迎へたやうに、又蘭軒を尾の道に送つた。即ち油屋|元助《もとすけ》方の徹宵の宴飲である。
尾の道観音寺の参詣人を見て、蘭軒がこれを江戸の真光寺のにぎはひに比してゐるのが面白い。これは本郷桜木天神の傍《かたはら》に住んだ蘭軒でなくては想ひ到らぬ事である。真光寺の縁日は、寺門が電車の交叉点に向つて開いてゐる今日も、猶相応に賑しい。しかし既に昔日の雑※[#「二点しんにょう+鰥のつくり」、第4水準2−89−93]《ざつたふ》の面影をば留めない。明治の初年にわたくしは桜木天神の神楽殿に並んだ裏二階に下宿してゐたが、当時の薬師の縁日は猶頗殷盛であつた。わたくしは大蛇の見せもの、河童《かつぱ》の見せものを覗いて見たことを記憶してゐる。彼の三尺帯三本を竿に懸けて孔雀だと云つて見せた類で、極て原始的な詐偽であつた。そしてそれに銭を捨てて入るものが踵《くびす》を接したものである。
※[#「くさかんむり/姦」、7巻−81−下−9]斎《かんさい》詩集に神辺《かんなべ》で蘭軒が茶山に贈つた一絶がある。「過神辺駅、訪菅先生夕陽黄葉村舎、柴門茅屋、茂園清流、入其室則窓明軒爽、対山望田、甚瀟灑矣、先生有詩、次韻賦呈。田稲池蓮美且都。柳陰風柝架頭書。鳥啼山客猶眠熟。便是※[#「車+罔」、第3水準1−92−45]川摩詰廬。」原作は茶山の集に載せない。蘭軒の詩の転句は頼千秋の書した黄葉夕陽村舎の襖の文字ださうである。
茶山は尾の道の油屋で蘭軒に詩を贈つた。即ち集中の「尾道贈伊沢澹父」の七絶である。「松間明月故人杯。此会他年能幾回。記取牡牛関下駅。遙輿脚疾送君来。」転句の牡牛関《ぼぎうくわん》は即ち※[#「片+旁」、第4水準2−80−16]示嶺《ばうしれい》であらう。結句の言ふ所は蘭軒の脚疾ではなくて、東道主人の脚疾である。蘭軒のこれに酬いた詩が其集にある。「宿尾道駅、菅先生追送至此、迎飲于其門人油元助家、先生有詩、次韻賦呈。擲了郷心不擲杯。七分※[#「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1−91−44]甲逓千回。謝君迎送能扶疾。昨夜今宵越境来。」
その四十二
蘭軒が旅行の第二十九日は文化三年六月十八日である。「十八日卯時発す。駅を離るれば海辺なり。磯はたの路にして海上島々連続せり。海のかたち大川のごとし。源貞世《みなもとのさだよ》豊臣勝俊の紀行にも地形を賞したる文見ゆ。海辺に八幡の社あり。松数株ありて此地第一の眺望なり。三原城も見ゆ。三里三原駅一商家に休す。青木屋新四郎を訪。主人讚州へ行て不在《あらず》。その弟吉衛に逢うて去る。備後安藝の国界は駅路の山上にあり。二里半ぬた本郷駅。松下屋木曾右衛門の家に宿す。駅長の屋後に山あり。雀が嶽といふ。小早川隆景の城址なり。今の三原城こゝより遷移すと土人いへり。此日暑甚しからず。曇る。行程五里半|許《きよ》。」
貞世の道ゆきぶり、厳島詣《いつくしままうで》の記、勝俊の九州道の記、いづれも原文が引いてあるが、詞多きを以て此に載せない。
第三十日。「十九日卯時発。沼田川を渡り入野山中を経小野|篁《たかむら》の郷《きやう》なり。辰後一里半|田万里市《たまりいち》。堀内庄兵衛の家に休す。主人みづから扇箱《せんさう》と号す。常に広島城市に入て骨董器を売る。頼兄弟及竹里みな識ところなり。山中を出て松原あり。未前二里半西条駅。(一名西条四日市。)小竹屋庄兵衛の家に次《やど》る。此駅小吏余輩を迎ふるに小紙幟上姓名を書して持来|轎前《けうぜん》に在て先導す。駅東三四町国分寺あり。行尋ぬ。当光山金岳寺といふ。真言宗なり。旧年|災《わざはひ》にかかりて古物存するものなし。茅葺仁王門あり。金剛力士は雲慶の作といふ。松五本ありて五輪塔存す。これ聖武の陵《みさゝぎ》なりといふ。此日暑甚し。晩間|霎雨《せふう》あり。暑少減ず。夜三更青木新四郎使を来らしむ。僕林助といふ。行程四里許。其二里は五十町一里也。」
小野篁の郷の条に、蘭軒は又貞世の道ゆきぶりを引いてゐる。「此ところはむかし小野の篁の故郷とぞ、やがてたかむらともをのとも申侍るとかや」の語がある。
第三十一日は蘭軒が広島の頼氏を訪うた日である。「廿日卯時発。半里許ゆきて大山峠なり。上下二里許なり。山中をなほ行こと二里許、瀬の尾といふ里ありて上中下に分る。(瀬の尾又瀬野といふ。)山中松樹老古にして渓辺に海金砂《かいきんさ》おほし。(海金砂方言|三線葛《さみせんくず》。)平地漸く近して砂川緩流広四五間なり。此に至て山尽く。勝景。貞世紀行妙を得たり。八里半|海田《かいた》駅。根石屋十五郎の家に休す。午後なり。駅を出ればすなはち海浜なり。坂を上下して田間の路に就く。青稲漠々として海面の蒼々たるに連る。行こと遠して海いよ/\隔遠す。岩鼻といふ所にいたる。北の山延続し此に至て尽るなり。岩石屹立して古松千尋天を衝く。攀縁して登ときは上《かみ》稍平なり。方丈許席のごとき石あり。其上に坐して望めば南海に至り西広島城下に連《つらなる》。万里蒼波一|鬨烟家《こうのえんか》みな掌中にあり。又本途に就き遂に二里広島城下藤屋一郎兵衛の家に次《やど》る。市に入て猿猴橋《ゑんこうばし》京橋を過来る。繁喧は三都に次ぐ。此日朝涼、午時より甚暑不堪《じんしよにたへず》。夜風あり。頼春水の松雨山房を訪。(国泰寺の側《かたはら》なり。)春水|在家《いへにあり》て歓晤。男子賛亦助談。子賛名|襄《のぼる》、俗称|久太郎《ひさたらう》なり。次子竹原へ行て不遇《あはず》。談笑夜半にすぐ。月|升《のぼり》てかへる。(春水年五十九、子賛二十六。)行程十里許。」
瀬の尾の条には又貞世の道ゆきぶりが引いてある。中に「もみぢばのあけのまがきにしるきかなおほやまひめのあきのみやゐは」の歌がある。
蘭軒と春水とは此日広島で初対面をしたのである。
その四十三
所謂《いはゆる》松雨山房は春水が寛政元年に浅野家から賜つた杉木小路の邸宅である。是より先春水は浅野家の世子《せいし》侍読として屡《しば/\》江戸に往来した。寛政十一年八月に至つて、世子は江戸に於て襲封した。世子とは安藝守|斉賢《なりかた》である。備後守|重晟《しげあきら》が致仕して斉賢が嗣いだのである。十二年に春水は又召されて江戸に入り、享和元年に主侯と共に国に返つた。次で二年にも亦江戸に扈随し、三年に帰国した。然るに文化元年の冬病を獲、二年に治してからは広島に家居してゐる。山陽の撰ぶ所の行状に「甲子冬獲疾、明年漸復、自是不復有東命」と書してある。蘭軒は江戸に於て春水と会見する機会を得なかつたので、此日に始て往訪したのである。即ち春水の病の治した翌年である。
春水は天明元年の冬重晟に召し出された。状に「天明元年辛丑冬、本藩有司伝命、擢為儒員、食俸三十口」と云つてあるのが即是である。其後天明八年戊申と寛政十一年己未とに列次を進め俸禄を加へられた。状に「戊申進班近士(奥詰)、己未更賜禄百五十石、班侍臣列(側詰)」と云つてある。蘭軒が往訪した時の春水の身分は、百五十石の側詰であつた。其後文化四年丁卯と十年癸酉とに春水は又待遇を改められた。状に「丁卯加禄卅石、十年癸酉進徒士将領(歩行頭)之列、職禄百二十石、并旧禄為三百石」と云つてある。春水は三百石の歩行頭《かちがしら》を以て終つたのである。
山陽の事が紀行に「子賛」と書し又其齢が「子賛二十六」と書してある。山陽の字は子成であつた。或は少時子賛と云ひ、後子成と改めたのであらうか。二十六は二十七の誤又春水の五十九は六十一の誤である。
会見の日、六十一歳の春水は三十歳の蘭軒を座に延《ひ》いて※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]待し、二十七歳の山陽が出でて談を助けた。
※[#「くさかんむり/姦」、7巻−85−上−6]斎《かんさい》詩集に「宿広島、訪春水頼先生松雨山房、歓飲至夜半」として一絶がある。「抽身※[#「馬+芻」、第4水準2−93−2]隊叩間扉。雨後園松翠湿衣。月下問奇宵已半。艸玄亭上酔忘帰。」
わたくしは此会見が春水蘭軒の初対面だと云ふ。これは確拠があつて言ふのである。客崎《かくき》詩稿に蘭軒が春水の弟春風に逢つた詩があつて、其引首と自註とを抄すれば下《しも》の如くである。「安藝頼千齢(名惟疆)西遊来長崎、訪余居、(以下自註、)其兄春水、余去年訪其家而初謁、其弟杏坪旧相識于東都、千齢今日方始面云」と云ふのである。是に由つて観れば、春水春風|杏坪《きやうへい》の三兄弟の中で、蘭軒が旧く江戸に於て相識つたのは杏坪だけである。只其時日が山陽の伊沢氏に来り投じたのと孰《いづれ》か先孰か後なるを詳《つまびらか》にすることが出来ない。次で蘭軒は文化三年に春水を広島の邸宅に往訪し、最後に四年に春風を長崎の客舎に引見したのである。春風の九州行は春水が「嗟吾志未死、同遊与夢謀、到処能報道、頼生已白頭」の句を贈つた旅である。
しかしこれは蘭軒と頼氏|長仲季《ちやうちゆうき》との会見の時日である。その書信を通じた前後遅速は未だ審《つまびらか》にすることが出来ない。
松雨山房の夜飲の時、蘭軒の春水に於けるは初見であるが、山陽は再会でなくてはならない。わたくしは初め卒《にはか》に紀行の此段を読んで、又|微《すこ》しく伊沢氏が曾て山陽を舎《やど》したと云ふ説を疑はうとした。それは「男子賛亦助談、子賛名襄、俗称久太郎なり」の数句が、故人を叙する語に似ぬやうに覚えたからである。しかし更に虚心に思へば、必ずしもさうではなからう。春水との初見も、特に初見として叙出しては無い。春水も山陽も、此紀行にあつては始て出づる人物である。父は已に顕れた人物だから名字を録することを須《もち》ゐない。子は猶暗い人物だから名字を録せざることを得ない。此の如くに思惟すれば、此疑は釈《と》け得るのである。
且山陽の伊沢氏と狩谷氏とに寄つたのは、山陽の経歴中暗黒面に属する。品坐の主客は各《おの/\》心中に昔年の事を憶ひつつも、一人としてこれを口に出さずにしまつたと云ふことも、亦想像し得られぬことは無い。
わたくしは既に述べた諸事実と、後に引くべき茶山の手柬《しゆかん》とに徴して思ふ。伊沢氏と頼菅二氏とは、縦《たと》ひいかに旧く音信を通じてゐたとしても、山陽が本郷の伊沢氏に投じたのは、春水兄弟や茶山に委託せられたのでは無からう。山陽自己がイニチアチイヴを把握したのであらう。そして身を伊狩《いしう》の二家に寄せた山陽の、寓公となり筆生となつた生活は、よしや数月の久しきに亘つたにしても、後年に至るまで関係者の間に一種の秘密として取り扱はれてゐたのであらう。
蘭軒が春水を訪うた日に、偶《たま/\》竹原に往つてゐて坐に列せなかつた「次子」は、春水の養子権次郎|元鼎《げんてい》である。
その四十四
蘭軒が旅行の第三十二日は文化三年六月二十一日である。「廿一日五更発す。城下市街をすぐるに数橋を経たり。みな砂川の大なるに架す。田路《たみち》に至て海浜に出づ。一小山あり。轎夫脚を愛して海中|潮斥《てうせき》の処を行く。又松樹千株の海浜山上を経て二里廿日市。宇佐川文好の家に休す。主人痛風|截瘧《せつぎやく》の二方を伝ふ。駅に山あり。屈曲|盤回《はんくわい》して上る。海上宮島を望こと至て近がごとし。此山を桜尾と名く。又篠尾山と名く。菅神祠《くわんじんし》あり。山伏正覚院といふもの居住す。文好云。寿永年間桜尾周防守(周防国桜尾城主)近実《ちかざね》といふ者天神七代を此山に祀《まつる》。年歴|久《ひさしう》して天満天神の祠となすのみ。時正巳なり。上村源太夫鈴木順平藤林藤吉石川五郎治及余五人舟にて宮島にいたる。海上二里間風なく波面席のごとし。午後宮島にいたる。祭事後故に市商甚盛なり。千畳敷二畳に上《のぼつ》て酒
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