道具、衣裳の借出しだけである。」
塩田氏の談話は未だ尽きない。談は此より小道具、衣裳借出しの手段、茶番当日の出来栄に入る。
その二百八十五
柏軒が此年甲寅に首唱して、矢島|優善《やすよし》、塩田|良三《りやうさん》の二人が計画し、小野|令図《れいと》の家の祝のために催す茶番の事は、塩田氏の語る所が猶残つてゐる。それは小道具、衣裳の借出しと当日上場の効果とである。塩田氏はかう云つた。
「茶番は其頃随分度々したので、小道具、衣裳を借り出す経験もあつた。それはわたくし共が矢場辰《やばたつ》と云ふ男を識つてゐて、かう云ふ事は大抵此男に頼んで辨ずるのであつた。矢場辰は両国米沢町の鈴木亭と云ふ寄席の主人である。此寄席は昼場に松林伯円の講釈を出してゐた。わたくし共は昼場の定連であつたので、矢場辰と心安くなつた。矢場辰に一人の娘があつて、其頃年は十六であつた。それが女芝居の座頭をしてゐた。原来両国に小屋掛の芝居が二つあつて、てりばと称へられてゐた。其一つは女芝居で、後に市川を名告つた岩井久米八なども此芝居に出てゐた。矢場辰の娘が座頭をしてゐたのは此芝居である。わたくし共は茶番をする時、大抵矢場辰に頼んで此女芝居から小道具、衣裳などを借り出した。そこで今度の茶番にも此手段を用ゐた。舞台を設けた小野の家は薬研堀だから、借りた品物を夜運ぶには、道の近いのが好い都合であつた。薬研堀の小野の邸は、丁度今|七色蕃椒屋《なゝいろたうがらしや》のある地所の真向であつた。借りた品物の中には切落の浅葱幕《あさぎまく》や下座の大大鼓などまで揃つてゐた。しかし中には手製をしなくてはならぬ品もあつた。譬へばお三婆を殺す時に用ゐるまるたなどである。是は細い竹に藁を被《き》せて、其上を紙貼にした。又衣裳にも女芝居から借りた品で間に合はぬものがあつた。譬へばお軽の長襦袢である。忠臣蔵に茶番の落を附けるのだから、お軽にも何か変つた長襦袢を著せたかつた。そこで所々《しよ/\》を問ひ合せて、とう/\緋縮緬の長襦袢の背中に大きな黄色い斑《しみ》の出来たのを手に入れた。さていよ/\当日になつた。最初の天一坊は頗る真面目に出来た。しかし其真面目のために茶番としての面白味が殺《そ》がれた。次にお軽勘平道行の場となつた。是は初より滑稽たつぷりに為組《しく》んだもので、役人替名も良三のおだる、道悦のわん平としてあつた。勿論滑稽は先づ隠して置いて後に顕した。落人も見るかやの歌の辺《あたり》は、真面目な著附で出た二人が真面目な科《しぐさ》をしてゐた。さて、詞《ことば》に色をや残すらむで、二人が抱き合ふと、そこへ山賊が大勢出る。うぬ等は猫間《ねこま》の落人だらう、ふざけた真似をしやがるなと云つて、二人の衣類を剥ぐ。わん平は剥身絞《むきみしぼり》の襦袢と鬱金《うこん》木綿の越中褌とになり、おだるは例の長襦袢一つになる。そしておだるはわざと後向になつて、黄色い斑を見せる。山賊はわん平を剥ぐ時、懐から出た白旗を取り上げ、こりやこれ猫間の白旗云々の白《せりふ》を言ふ。是が次の地雷太郎と弓之助とのだんまりの種になるのである。此場のおだるわん平が剥がれる処は大受であつた。」
その二百八十六
塩田氏は此年甲寅に小野|令図《れいと》の家に催された茶番の事を語ること前記の如くであつた。茶番が此の如く当時の士人の家に行はれたのは、文明史上の事実である。何れの国何れの世にも、民間藝術はある。茶番と称する擬劇も亦其一である。わたくしはその由つて来る所が知りたい。
わたくしは此に民間藝術史上より茶番を概説する余地を有せない。しかしわたくしは少くも茶番を小野の家に演じた人々が、いかにして其技を伝へたかと云ふことを問ひたい。
わたくしは塩田氏に聞いた。当時吉原の幇間に鳥羽屋|喜三次《きさんじ》と云ふものがあつて、滑稽踊と茶番とに長じてゐた。喜三次は其技を天野藤兵衛と云ふものに伝へた。天野は身分が幕府の同心で、常に狭斜に往来するものであつた。柏軒は屡々此藤兵衛を其家に招いて、酒間に技を演ぜしめた。「野呂松《のろま》の切破《きりやぶり》」、「山王祭」、「三人|生酔《なまゑひ》」、「女湯覗《をんなゆのぞき》」等はその好んで演ずる所であつた。矢島|優善《やすよし》、塩田|良三《りやうさん》等の茶番は藤兵衛より出でたのださうである。柏軒の家とは中橋の家であらう。柏軒の丸山の家を離れて中橋に住んだ年月日は記載せられてゐぬが、わたくしは既に云つた如く、仮に天保丙申の歳としてゐるのである。
茶番にも文献がある。その詳《つまびらか》なることはわたくしの知らざる所であるが、或は思ふに茶番の書の如きは、概して多く存してをらぬのではなからうか。わたくしは又塩田氏に聞いた。当時本所に谷川|又斎《いうさい》と云ふ医者があつた。又斎の子が亦斎《えきさい》で、家業を嫌ひ、篆刻を学び、後には所謂戯作者の群に投じ、雑書を著して自ら紫軒道人《しけんだうじん》と署した。此紫軒の著す所に「茶番頓智論」二巻があつて刊行せられた。書中には塩田良三の作も収められてゐた。其一は豊臣秀頼が石清水八幡宮に詣でた時、明智光秀の女《ぢよ》がこれを刺さうとすると云ふ筋の作であつたさうである。
わたくしは小野の家の茶番が、河原崎座の吾嬬下《あづまくだり》五十三|次《つぎ》興行と同時であつたことを言つた。然らば茶番の時は即ち八月狂言の時で、八月狂言の時は即ちスタアリングの率ゐた英艦隊の長崎に来舶してゐた時である。人或はその佚楽戯嬉《いつらくきき》の時にあらざるを思つて、茶番の彼人々の間に催されたのを怪むであらう。しかしそれは民衆心理を解せざるものである。上《かみ》に病弱なる将軍家定を戴き、外《ほか》よりは列強の来り薄《せま》るに会しても、府城の下《もと》に遊廓劇場の賑つたことは平日の如く、士庶の家に飲讌等の行はれたことも亦平日の如くであつただらう。近く我国は支那と戦ひ露西亜と戦つたが、其間民衆は戯嬉を忘れなかつた。啻《たゞ》に然るのみならず、出征軍陣営中の演劇は到る処に盛であつた。わたくしは従征途上に暫く広島に駐《とゞ》まつたことがある。其時人々が争つて厳島に遊んだ。「生きて還るかどうか知れないから、厳島でも観て置かう」と云つたのである。わたくしは同行を辞して、「厳島を観て死ぬるも、観ずに死ぬるも、大した違は無いやうだ」と云つて、人々に嗤《わら》はれた。
その二百八十七
此年甲寅に森枳園が躋寿館の講師にせられた。枳園は是より先嘉永紀元戊申に阿部侯に召還せられ、其年館の校正方になつてゐた。館にあること七年にして講師の命を拝したのである。
枳園の妻勝は夫の受けた沙汰書を持つて丸山の伊沢氏を訪ひ、これを榛軒の位牌の前に置いて泣いた。夫の今日あるは亡き榛軒の賜《たまもの》だとおもつたからである。榛軒の歿した時、棠軒は父の遺物として、両掛入薬籠《りやうがけいれやくろう》と雨具一式とを枳園に贈つたさうである。
此年渋江氏では抽斎の長男|恒善《つねよし》が歿した。榛軒の門人録には「渋江道陸」として載せてある。矢島|優善《やすよし》の兄である。
門田朴斎《もんでんぼくさい》の江戸より福山に帰つたのも亦此年である。四月に丸山の阿部邸を発して五月に福山に著いた。
此年棠軒二十一、妻柏二十、女長一つ、全安の女梅五つ、柏軒並妻俊四十五、妾春三十、鉄三郎六つ、洲十四、国十一、安三つであつた。蘭軒の遺女にして井戸氏に嫁した長は四十一、榛軒の未亡人志保は五十五であつた。
安政二年は蘭軒歿後第二十六年である。二月十七日に中橋の家に柏軒の第五女|琴《こと》が生れた。佐藤氏春の出である。柏軒の女《ぢよ》は洲、国、北、安、琴の順序に生れて、北に至るまでは正室狩谷氏俊の出、安より以下が春の出である。
十月二日は江戸の大地震の日である。棠軒公私略に「十月二日夜、東都大地震、四面火起」と記してある。「四面火起」とは丸山の阿部邸にあつて記したものである。阿部正弘は竜口《たつのくち》用邸にゐた。屋舎が倒れて正弘の夫人松平氏|謐子《しづこ》の侍女七人はこれに死した。正弘夫妻は幸に恙なきことを得て、正弘は直に登城した。当夜第一の登城者であつた。是は正弘が平素紋附の寝衣《しんい》を用ゐてゐたので、重臣某の曾て正弘より賜つた継上下《つぎかみしも》を捧げたのを著て、迅速に支度を整ふることを得たからである。正弘は用邸より丸山邸内の誠之館に遷つた。此誠之館は二年前癸丑の歳に落成した学校である。福山にある同名の藩学は江戸に遅るゝこと一年、甲寅の歳に落成した。
中橋の柏軒が家では前月より妻俊が病み臥してゐた。二日は講書のために人々の集《つど》ふべき夜であつた。女《むすめ》安の風邪に侵されてゐたのを、早く寝させむために、「森の祖母君」を附けて二階へ遣つた。地震は此時起つたのである。森の祖母君《おほばぎみ》は俊の病を看護しに来てゐた人だと云ふ。森全応恭忠《もりぜんおうきようちゆう》の妻、枳園の母ではなからうか。
地震の起つた時「丸山の姉君」が傍にゐたと俊は云ふ。按ずるに志保は夫を喪つた後、柏軒の家に寓してゐたと見える。
俊は「童一人」を率《ゐ》て轎《かご》に乗り、湯島の狩谷|懐之《くわいし》方へ避難したさうである。按ずるに柏軒と妾《せふ》春とは中橋に留まり、春は安、琴の二女を保護してゐたであらう。童《わらは》は鉄三郎である。森の祖母君は徒歩して俊の轎の後《しりへ》に従つた。
その二百八十八
わたくしは安政乙卯の歳の地震を叙して、当時の柏軒が中橋の家の事に及んだ。此条は柏軒の妻狩谷氏俊の記に拠つたものである。良子刀自所蔵の俊が遺文中首尾|略《ほゞ》全《まつた》きものは、此記を除く外、遊記二篇、小説二篇があるのみである。わたくしは今地震の記の全文を此に写すこととする。是は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が家女に生ませた才女のかたみである。
「長月の半よりいたう悩みて、生くべうもあらぬ程なりしに、神無月になりては、しばしおこたりざまになりぬ。されど枕|擡《もた》ぐることも懶くて、湯なども吸呑《すひのみ》てふ物より臥しながら飲みて、厠に往かむにも、人の肩に掛かりて、一人には背を押さへられつつ、虫などのはふさまして行きぬ。」
「夕《ゆふ》つかた娘の風の心地に、いと寒しと云へば、楼《たかどの》へ往きて衾《ふすま》被《かづ》きて寝よと云ひしかど、一人往かむはさうざうし、誰にまれ共に往きてよと云ふ。森の祖母君《おほばぎみ》此頃わが悩《なやみ》みとらむとて、しばし留まりゐ給ひしが、今宵講釈のあれば、夜も更けなむ、われこそ共に往きて寝めとて、楼に登り給ひぬ。」
「亥《ゐ》過る比《ころ》、天地《あめつち》も砕けぬばかりのおどろ/\しき音して地|震《ふる》ふに、枕上《まくらがみ》の燈火《ともしび》倒れやせむと心許なく、臥したるままにやをら手を伸べつつ押さへぬ。されど油皿はとくゆり落されて、押さへたる我手に当り、畳の上に落ち、あたりへ油散りたり。」
「此時女子一人走り来て、心たしかに持ち給へ、まざいらく/\と云ひつつ我上に倒れ臥しぬれば、あな苦し、そこ退きね、疾く/\と云へど、えも起き上らでゐたり。そこへ又一人肥えふとりたる女の走り来て、阿弥陀仏《あみだほとけ》の御名を唱へつつ、又倒れかかりぬれば、いよゝ重りて苦しさ言はむかたなし。されど戸障子《とさうじ》のはづるる音にや、あまりにおそろしき音すれば、物も覚えず。今の間に家も崩れ、有限の人こゝにて死ぬらむかと、目を閉ぢつつ、大慈大悲の観世音|菩薩《ぼさち》と声高う唱へぬ。今を限の命なめり、かくて世も尽きぬらむとおもひゐたり。」
「そこへ誰にかあらむ火|点《とも》して来ぬるに、あたりを見やれば、おのれは落ちたる行燈《あんどう》の油皿を何のためにか、しかと握りたり。その上に若き女どものいみじう肥えたるが二人まで倒れかゝりてゐたり。さて人ごゝち附きて見れば、家のしりへの方に、紺屋の物干す料なる広く明きたる地のあれば、そこ
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