偶《たま/\》詩を作つても稿を留めず、往々旧作を忘れて自ら踏襲した。書は榛柏の昆弟《こんてい》皆拙であつた。榛軒は少時少しく法帖を臨したが、幾《いくばく》ならぬに廃した。柏軒は未だ曾て臨書したことがなかつた。要するに二人は書を読んで中に養ふ所があつても、これを技に施して自ら足れりとし、敢て立言して後に貽さうとはしなかつたのである。
その二百七十八
わたくしは榛軒の資性を語つて、既に其寡欲と多く文事に意を用ゐざることとを挙げた。或は思ふに之《この》二者は並に皆求むる所少きに帰するもので、後者は声誉を求めざるの致す所であつたかも知れない。
わたくしは尚曾能子刀自に数事を聞いた。それは榛軒の一種特殊なる心理状態より出でたものらしい。わたくしは微《すこ》しくこれに名づくる所以に惑ふ。俚言の無頓著は此事を指すに宜しきが如くである。しかし此語には稍指す所の事の形式を取つて、其内容を遺す憾がある。已むことなくば坦率《たんそつ》とでも云はうか。
一日《あるひ》榛軒は阿部侯|正寧《まさやす》に侍してゐた。正寧は卒然昵近の少年を顧みて云つた。「良安は大ぶ髪が伸びてゐるやうだ。あれを剃つて遣れ」と云つた。少年は※[#「匚<也」、第3水準1−14−77]《はんざふ》、盥などを持ち出して、君前に於て剃刀を榛軒の頭《かうべ》に加へた。そして剃るに時を費すこと頗る多かつた。既にして剃り畢《をは》つたので、榛軒は退出した。
家に帰ると、家人が榛軒の頭を見て、皆失笑した。頭上の剃痕《ていこん》は断続してゐて、残す所の毛が文様をなし、三条の線《すぢ》と蝙蝠《かはほり》の形とが明に認められたからである。
家人は鏡を取り出して榛軒にわたした。榛軒は自ら照して又大いに笑つた。剃者の刀《たう》を行《や》るのが常に異なつてゐても、榛軒は毫も心附かずにゐたのである。是が一つである。
榛軒は庚寅の年に侯に扈随して福山に往つた時、午後屡轎中に仮寐《かび》した。そして涎が流れて襟を※[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、8巻−154−下−11]《うるほ》した。榛軒は自ら白布を截つて涎衣《よだれかけ》を製し、轎《かご》に上《のぼ》る毎にこれを腮下《さいか》に懸けた。一日《あるひ》侯は急に榛軒を召した。榛軒は涎衣《ぜんい》を脱することを忘れて侯の前に進み出た。上下《しやうか》皆笑つた。榛軒|纔《わづか》に悟つて徐《しづか》に涎衣を解いて懐にし、恬《てん》たる面目があつた。是が二つである。
榛軒は晩餐後市中を漫歩するを例とした。其時往々骨董店の前に歩を駐め、器玩《きぐわん》の意に投ずるものあれば購うて還つた。
榛軒は此の如き物を買ふに、その用に中《あた》ると否とを問はず、又物の大小を問はなかつた。さて或は携へ帰り、或は搬し至らしめた後、放置して顧みない。時に出して門人等に与へることがある。
門人等は拝謝して受ける。しかし受けた後に用途に窮することが数《しば/″\》である。
一日《あるひ》門人某は受けた物の処置に窮した。わたくしはその何の器《うつは》であつたかを知らぬが、定て甚だ大きかつただらうと推する。又某の名を知らぬが、定て率直な人であつただらうと推する。某は榛軒に問うたさうである。「此間先生に戴いた物は、どうも内ではどうにもいたしやうがございません。先生には済みませんが、あれは棄ててしまつても宜しうございませうか。」
榛軒は恬として答へた。「さうか。いらなけりやあ棄てるが好い。」是が三つである。わたくしの以て坦率となす所のものは概《おほむね》此類である。
その二百七十九
わたくしは榛軒の逸事を書き続ぐ。そして今此に榛軒の植物を愛した事を語らうとおもふ。
榛軒が蘭軒遺愛の草木を保護するに意を用ゐたことは言ふまでもない。彼吉野桜を始として、梅があり、木犀があり、芭蕉があつた。某年の春阿部侯|正寧《まさやす》は使を遣はして吉野桜の一枝を乞うた。榛軒は命を奉ぜなかつた。そして使者と共に主に謁し、叩頭《こうとう》して罪を謝した。
榛軒の蓮《れん》を愛したことは、遺言を読んで知るべきである。丸山の地は池を穿ち水を貯ふるに宜しくないので、榛軒は大瓦盆《だいぐわぼん》数十に蓮を藝《う》ゑて愛翫した。平生用ゐた硯が蓮葉形のものであつたのも、又酒器に蓮を画かせて用ゐたのもこれがためである。
榛軒は書斎と客間とに插花《いけばな》を絶やさなかつた。本郷の花総《はなそう》と云ふものが隔日に截花《きりばな》を持つて来たのである。
榛軒は父の本草趣味を伝へ、森枳園等に勧奨せられて、多く薬草を栽培した。就中《なかんづく》人参は阿部侯の命を奉じて栽ゑたのである。
榛軒も亦枳園等と同じく、子弟を率《ゐ》て近郊へ採薬に出た。曾能子刀自は当時の一笑話を記憶してゐる。或日採薬の途上に甘酒売が道を同じうして行くに会うた。随行の少年輩が一人飲み二人飲み、遂に先を争つて群り飲むに至つた。行き行きて岐路に逢ふこと数《しば/″\》であつたが、甘酒売は別れ去らない。甘酒の釜は此|夥《むれ》の行厨《かうちゆう》の如くになつた。
榛軒は酒を売る漢子《をとこ》に問うた。「貴様は一体何処へ往くのだ。」
「へえ。つい此先の方へ参ります。」
榛軒は屡問うたが、漢子の答ふる所は旧に依つた。「へえ。つい此先の方へ参ります。」
同行数里にして甘酒売の別れ去つたのは、板橋駅附近であつた。そして其釜は既に空虚であつた。
次にわたくしは少しく榛軒の飲饌《いんぜん》の事を記さうとおもふ。採薬途上の甘酒は、恰も好し、トランシシヨンの用をなした。
榛軒は病家を訪ふ時、家を出づるに臨んで妻志保をして薄茶一碗を点せしめた。
榛軒は客を饗する時、毎《つね》に上原全八郎を呼んで調理せしめた。上原は阿部家の料理人である。膾《くわい》を作るにも箸を以てした人である。渋江保さんの語るを聞けば、抽斎は客を饗する時、毎に料理店百|川《せん》の安と云ふ男を雇つたさうである。彼は貴族的で、此は平民的であつた。
飲饌の事は未だ尽きない。わたくしは曾能子刀自に豚料理の話を聞き、又保さんに蒲焼の話を聞いた。それは下《しも》に略記するが如くである。
その二百八十
わたくしは榛軒|軼事《いつじ》中飲饌の事を記して其半に至つた。剰す所は豚料理の話があり、又鰻飯の話がある。
豚は当時食ふ人が少かつた。忌むものが多く、嗜《たし》むものが少いので、供給の乏しかつたことは想ひ遣られる。豚は珍羞《ちんしう》であつた。
一日《あるひ》薩摩屋敷の訳官能勢甚十郎と云ふものが榛軒に豚を贈つた。榛軒は家にゐなかつた。妻志保は豚を忌む多数者の一人であつたので、直ちに飯田安石にこれを棄つることを命じた。安石は豚肉《とんにく》を持つて出た。
榛軒は家に帰つてこれを聞き、珍羞を失つたことを惜んだ。榛軒は豚を嗜む少数者の一人であつたからである。
志保は己の処置の太早計《たいさうけい》であつたのを悔いて、安石に何処へ棄てたかと問うた。
安石は反問した。「若し先生が召し上がるのであつたのではございませんか。」
「さうなのですよ。それで何処へお棄なすつたかとお尋するのです。」
「さうですか。それなら御安心下さいまし。あなたが棄てろと仰やいましたから、あの榎の下の五|味溜《みため》に棄てたには相違ございません。しかしあの綺麗な肉を五味の中に棄てるのが惜しかつたので、※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]冬《ふき》の葉を沢山取つて下に鋪いて、其上に肉をそつと置きました。そして肉の上にも※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]冬の葉を沢山載せて置きました。」
榛軒は傍《かたはら》より聞いて大いに喜んだ。そして安石に取つて来ることを命じた。既に夜に入つてゐたので、安石は提燈を点けて往つて取つて来た。肉は毫も汚れてゐなかつた。
榛軒は妻の忌むことを知つてゐたので、庭前に涼炉《こんろ》を焚いて肉を烹《に》た。そして塾生と共に飽くまで啖《くら》つた。
榛軒は鰻の蒲焼を嗜んだ。渋江保さんは母山内氏|五百《いほ》の語るを聞いた。榛軒は午餐若しくは晩餐のために抽斎の家に立ち寄ることがあつた。さう云ふ時には未だ五百の姿を見ざるに、早く大声《たいせい》に呼ぶを例とした。「又御厄介になります。鰻はあつらへて置きました。もう一軒往つて来ます。どうぞお粥は米から願ひます。」五百に炊かせた粥に蒲焼を添へて食ふのが、榛軒の適とする所であつた。酒は或は飲み或は飲まなかつた。
此の如き時、榛軒は抽斎の読書を碍《さまた》ぐることを欲せなかつたので、五百をして傍《かたはら》にあらしめ、抽斎をして書斎に退かしめた。
わたくしは此条を終るに臨んで、烟草の事を附記する。
榛軒は喫烟した。そして常に真鍮の烟管十本|許《きよ》を蔵してゐて、其一を携へて病家を訪うた。人が其故を問ふと、榛軒はかう云つた。「銀烟管などは失ふまいと思ふと気骨が折れる。真鍮にはそれが無い。縦《よ》し何処かに置き遺《わす》れて取りに往くにしても、無造作に問ふことが出来る。問はれたものも亦、無い時無いと云ふに気兼をしなくて済む。」
榛軒の逸事は此に終る。
その二百八十一
わたくしは此に榛軒の記を終へて、借りてゐた所の榛軒詩存を富士川游さんに返さうとおもふ。此書は清川安策の自筆本で、序を併せて半紙二十五|頁《けつ》より成つてゐる。収むる所の詩は五古一首、七古一首、五律十五首、七律十二首、七絶百十八首、計百四十七首である。
序は編録者安策の撰む所で、巻初の一頁を填《うづ》めてゐる。わたくしは此書の刊行せらるべきシヤンスは、※[#「くさかんむり/姦」、8巻−159−上−3]斎《かんさい》詩集に比して更に小なるを知るが故に、今序の全文を抄出する。
「先師榛軒先生。刀圭之暇。毎遇心愉而意会。輒発之声詩。其所吟詠頗多。而未曾留稿也。孫在塾日。或得之侍坐之傾聴。或得之壁上之漫題。或得之扇頭紙尾。或得之同門諸子之伝誦。随得随録。無復次第。積年之久。得百有余首。今茲安政戊午十一月十六日。実当先生七回忌辰矣。追憶往事。宛然在目。殆不勝懐旧之歎也。乃浄写為一冊。私名曰榛軒詩存。雖未足為全豹。亦足以窺先生風騒之一斑也已。嗚呼先生不欲存。而孫存之。縦令得罪于地下。亦所不敢辞也。其巻末存余紙者。以備続得云。安政五年歳次戊午仲冬之月。清川孫誌。」
文中に「孫」と称し、末に「清川孫誌」と署してある。清川安策、名は孫《そん》であつた。
「先生不欲存。而孫存之。」門人の師の書に序する文には、多くこれに類する語を見る。しかし其語は他書にあつては矯飾に過ぎぬが、此榛軒詩存にあつては真実である。
所謂「巻末存余紙」の余紙《よし》は九|頁《けつ》あつて、別に清川の序の後に空白六頁がある。恐くは諸友の題言を求めむと欲したものであらう。紙は医心方を写さむがために特製した烏糸欄紙《うしらんし》である。
「随得随録。無復次第。」是も亦往々他書の序跋中に見ることのある語である。しかし書を著すものは故《ことさら》に審美学者の所謂無秩序中の秩序を求め、参差《さんし》錯落の趣を成して置きながら、這般《しやはん》の語を以て人を欺くのである。惟《たゞ》清川の此八字は実録である。巻首の詩は嘉永四年辛亥元旦の作、巻尾の詩は天保元年庚寅三月|晦《くわい》の作で、二者の中間にも亦絶て安排の痕を見ない。その年月を知るべきものは、百四十七首中六十二首あるのみである。
此書には詩引に二十一人の名が見えてゐて、其過半は氏名を明にすることが出来る。多くは蘭門若くは榛門の子弟である。其他儒に渡辺|樵山《せうざん》があり、歌人に木村|定良《さだよし》がある。わたくしは上《かみ》に樵山の事を記した後、其父の誰なると其生誕の何年なるとを知ることを得た。慊堂《かうだう》日歴文政六年の下《もと》に渡辺|※[#「くさかんむり/衡」、第3水準1−91−39]園《かうゑん》の二子を挙げて、「魯助三歳、百助一歳」
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