うして登館したのである。武鑑を検するに、目見医師清川玄道の家は「木挽町」であつた。
目見医師玄道の次男安策孫は医を榛軒に学び、後兄徴の死するに至つて玄道と称した。維新後其技大いに售《う》れて、一時多く浅田宗伯に譲らなかつた。徳《めぐむ》さんは少時医を此玄道に学んだ。清川氏の裔《すゑ》は今大津に居ると云ふ。
柴田常庵は柴田|芸庵《うんあん》の子だと云ふ。柴田氏は古く幕府に仕へて、林家の文集に東皐元泰《とうかうげんたい》、竹渓元岱《ちくけいげんたい》の墓誌があり、大槻磐渓の寧静閣集に洛南元春《らくなんげんしゆん》の墓誌がある。又武鑑を検するに、麹町の元泰、三十間堀の元春、木挽町の芸庵がある。皆同族なるが如くであるが、今|遽《にはか》に其親属関係を詳にすることを得ない。
常庵は少《わか》うして榛軒に従学し、其内弟子となつた。当時常庵は家に継母があつて、常庵を遇すること甚だ薄く、伊沢氏に寓するに及んでも、衾褥《きんじよく》を有せなかつた。榛軒は悉《こと/″\》くこれを仮給した。
常庵は※[#「にんべん+環のつくり」、8巻−147−下−13]巧《けんかう》なる青年であつた。或時塾を出でて還らざること数日であつた。そして其|衣箱《いさう》を披《ひら》けば、典《てん》し尽して復一物を留めず、伊沢氏の借す所の衾褥も亦無かつた。
榛軒は人を派して捜索し、遂に常庵の蕨駅の娼家にあるを知つて率《ゐ》て帰つた。そして書斎の次の三畳の間に居らせた。数日の後、常庵は又逃げた。榛軒は再び率て帰り、三畳の間に居らせ、清川安策に其次の二畳の間にあつて監視することを命じ、纔《わづか》に其逃亡を阻ぐることを得た。時に常庵は年|甫《はじめ》て十四であつた。
常庵は長じて幕府の医官となつた。其叔母は清川玄道の妻である。
常庵は医官となつた後も、筵席に※[#「くさかんむり/(さんずい+位)」、第3水準1−91−13]《のぞ》めば必ず踊つた。「綱は上意」が其おはこであつた。維新の後、常庵は狂言作者となつて竹柴寿作と称し、五代目坂東彦三郎に随従してゐた。妻は大坂の藝妓であつた。常庵改寿作の死んだ時、甲斐性のある妻は立派な葬儀を営んで人に称讚せられた。
常庵の同族三十間堀柴田の裔《すゑ》は俳優となつて中村福寿と称し、後廃業して呉軍港に料理店を開いてゐると云ふ。
その二百七十五
石川貞白、本磯野氏、名は元亮《もとあきら》、通称は勝五郎であつた。文化八年生で、榛軒より少きこと七歳であつたことは上《かみ》に見えてゐる。父某が阿部家に仕へて武具を管してゐると、其同僚が官物を典して銭を私したので、連坐せられて禄を失つた。当時貞白は既に妻があつた。妻は公卿の女《むすめ》であつた。貞白は父母、妻、一弟二妹、一子と共に小島宝素の邸に寄寓した。
貞白は素《もと》頗《すこぶる》医薬の事を識つてゐたので、表向榛軒の門人となり、剃髪して技を售《う》ることとなつた。その石川氏を冒し、貞白と称したのは此時である。
貞白が開業の初に、榛軒は本郷界隈の病家数十軒を譲り与へて、其一時の急を救つた。一家八人は此に由つて饑渇を免れた。
渋江保さんは当時の貞白の貧窶《ひんる》を聞知してゐる。貞白は嘗て人に謂つた。「己の内では子供が鰊※[#「魚+而」、第3水準1−94−40]《かずのこ》を漬けた跡の醤油を飯に掛けて、饅飯だと云つて食つてゐる」と云つた。又或日貞白は柏軒の子鉄三郎を抱いて市に往き、玩具《おもちや》を買つて遣らうと云つた。貞白は五十文から百文まで位の物を買ふ積でゐた。すると鉄三郎が鍾馗の仮面《めん》を望んだ。其価は三両であつた。貞白は妻の頭飾《かみのもの》を典してこれを償うた。柏軒は後に聞き知つて気の毒がり、典物を受け出して遣つた。鉄三郎は榛軒の歿年に四歳になつてゐた。
貞白は機敏であつた。その伊沢分家、同又分家、渋江氏等と交つて、往々諸家の内事を与《あづか》り聞いたことは、わたくしの既に屡《しば/″\》記した所である。
貞白は学を好んで倦まなかつた。医学よりして外、国語学に精《くは》しく、歌文を作つた。榛軒の家に開かれた源氏物語の講筵には、寿阿弥と此人とが請ぜられた。又善書であつた。夜書を読んで褥に臥せず、疲るゝときは頭に羽織を被つて仮寐《かび》した。
貞白は酒を嗜《たし》んだ。そして動《やゝ》もすれば酔うて事を誤つた。榛軒は屡|※[#「にんべん+敬」、第3水準1−14−42]《いまし》めたが功が無かつた。終に「己が廃めるから一しよに廃めるが好い」と云つて、先づ自ら湯島の天満宮に祈誓して酒を断つた。貞白は大いに慙ぢてこれに倣つた。
貞白の弟は或旗下の家の用人が養つて嗣とした。二妹は一は慧《けい》、一は痴《ち》であつた。
渋江|恒善《つねよし》は抽斎|全善《かねよし》の長男である。榛軒門人録には「渋江道陸」として載せてある。塾生であつた。性謹厚にして、人の嬉笑するを見ては顰蹙して避けた。同窓の須川隆白は、同じ弘前藩の子弟であつたので、常に恒善を推重し、寝具の揚卸、室内の掃除は自らこれに任じ、恒善に手を下させなかつた。此人の事は抽斎伝に詳である。
須川隆白は弘前の人で、伊沢氏塾生の一人であつた。美丈夫であつたが、首を掉《ふ》る癖があつた。榛軒歿後には渋江抽斎に従学した。
隆白は後津軽家の表医師に任ぜられ、金十八両六人扶持を受けた。禄米に換算すれば約九十俵である。渋江恒善は同家に仕へ、三人扶持を受けてゐるうち、不幸にして早世したのである。
その二百七十六
渡辺|昌盈《しやうえい》も亦、渋江恒善、須川隆白と同じく、弘前藩の子弟で、伊沢氏の塾に寓してゐた。榛軒門人録には此人の名が「昌栄」に作つてある。わたくしは今同藩出身の渋江保さんの書する所に従ふ。
昌盈は其本姓を知らない。渡辺氏に養はるるとき、川村屋金次郎といふものが仮親となつた。是は津軽家用達たる舂屋《つきや》で、所謂|川金《かはきん》である。
榛軒は頗る昌盈を優待した。そしてこれをして久しく塾頭たらしめた。門人録には福岡の森隆仙の下《もと》に塾頭と註してある。渡辺と森との塾頭は孰《いづれ》か先、孰か後なるを知らない。
或時小島宝素と辻元|※[#「山/松」、第3水準1−47−81]庵《すうあん》とが榛軒に告げて云つた。頃日《このごろ》坊間に酌源堂の印のある書籍を見ることがある。文庫の出納を厳にするが好いと云つた。榛軒は蔵書を検して数部の喪失を知つた。そしてその何人の所為《しよゐ》なるを探るに及んで、これを沽《う》つたものの昌盈なるを知つた。
昌盈は懼れて救を川金に請うた。川金は書籍の猶書估の手にあるものを買ひ戻して伊沢氏に還した。
昌盈は後津軽家の表医師となつて禄三十人扶持を食《は》んだ。安政乙卯の地震の日に、津軽家の本所上屋敷の当直は須川隆白に割り当てられてゐた。偶《たま/\》須川は事に阻げられて、昌盈をして己に代らしめた。直舎《ちよくしや》潰《つひ》えて、昌盈はこれに死した。
飯田安石も亦門人録に見えてゐる。わたくしは前《さき》に榛軒が病《やまひ》革《すみやか》であつた時、物を安石に貽《おく》つたことを記した。そして当時未だ此人の身上を詳にしなかつたのである。
わたくしは後に徳《めぐむ》さんに聞いた所を以て此に補記しようとおもふ。しかしその応《まさ》に補ふべき所のものは、啻《たゞ》に安石の上のみではない。わたくしは先づ榛軒の妻志保の経歴を補つて、而る後に安石に及ばなくてはならない。
飯田氏志保の未だ榛軒に嫁せざるに当つて、曾て一たび藝妓たりしことは前記に見えてゐる。しかし此記には漏挂《ろうくわい》の憾があつた。志保は妓を罷めた後、榛軒に嫁した前に、既に一たび従良したことがある。
志保の初の夫を綿貫権左衛門と云つた。綿貫は長門国萩藩の留守居であつた。志保は一子を挙げた後、故あつて綿貫と別れた。そして其子を練馬村内田久右衛門の家へ里子に遣つた。
数年の後、志保は此子をして母方の飯田氏を冒さしめた。此子が即飯田安石である。
安石は十二歳にして榛軒の門に入つた。是故に安石は名は門人であつたが、実は志保の連子であつた。榛軒が臨終に物を貽つた所以である。
今按ずるに、安石の生年文政七年より推せば、志保は文政六年の頃綿貫が許にゐて、七年に安石を生み、中二年を隔てて、十年に榛軒に嫁したのであらう。安石入門の年は、其|齢《よはひ》が十二であつたと云ふより考ふるに、天保六年、即|柏《かえ》の生れた年であつたらしい。
わたくしは曾能子刀自の安石に関して語る所を聞いた。其事は猥瑣《わいさ》にして言ふに足らぬが、幕末の風俗を察する一端ともなるべきが故に、姑《しばら》く下《しも》に録存する。榛※[#「木+苦」、8巻−151−下−16]《しんこ》翦《き》るなきの誚《そしり》は甘んじ受くる所である。
その二百七十七
榛軒の妻志保の連子たり、榛軒の門人たる飯田安石の逸事にして、曾能子刀自の記憶する所のものはかうである。
森枳園は毎年友人及弟子を率《ゐ》て江戸の近郊へ採薬に往つた。大抵其方向は王子附近で、王子の茶を買つて帰り、又帰途に白山の砂場で蕎麦を喫するを例とした。渋江保さんなども同行したことがある。
某年に飯田安石が此|夥《くわ》に加はつた。安石は朝急いで塾を出る時、偶《たま/\》脇差が見えなかつた。
其頃伊沢の家には屡茶番の催があつた。狩谷|懐之《くわいし》の茶番に用ゐた木刀は、※[#「髟/休」、第3水準1−94−26]※[#「革+室」、8巻−152−上−12]《きうしつ》金環、実に装飾の美を極めたもので、懐之はこれを伊沢氏にあづけて置いた。安石は倉皇これを佩びて馳せ去つた。
此夕採薬の一行中に加はつた伊沢の塾生は皆還つたに、独り安石が帰らなかつた。榛軒は木刀の事を聞いて大いに痛心した。当時の制度は、木刀を佩びて途に死するものは、骸《かばね》を非人に交付することになつてゐたからである。
榛軒は人を四方に派して捜索せしめた。そして終に板橋駅の妓楼に於て安石を獲た。
坂上玄丈《さかのうへげんぢやう》も亦榛門の一人で、門人録中に載せてある。此人は弘化甲辰に渋江抽斎と共に躋寿館講師に任ぜられ又これと共に将軍家慶に謁した。武鑑には目見医師の下《もと》に其名が見えてゐて、扶持高住所等は未刻の儘になつてゐる。
榛軒の門人の事は此に終る。
次にわたくしは榛軒の資性に関して二三の追記を做さうとおもふ。榛軒は廉潔であつた。そして毎にかう云つた。「己は柏《かえ》のために金を遺して遣ることは出来ない。縦《よ》し出来るにしても、それは己の望む所では無い。金を貽《のこ》すのは兎角|殃《わざはひ》を貽すと同じ事になる。その代に己は子孫のために陰徳を積んで置く」と云つた。朋友の窮を拯《すく》ひ、貧人の病を療したのは此意より出でたのである。
或日榛軒は混外《こんげ》を金輪寺に訪うた帰途、道灌山に登つて月を観た。僕吉蔵と云ふものが随つてゐた。榛軒は吉蔵を顧みて云つた。「好い月ぢやないか。お前はどうおもふ。」吉蔵は答へて云つた。「へえ。さやうでございますね。ですが、檀那、此月で包か何かが道に落ちてゐるのが見附かつて、それを拾つて見ると、金の百両もはいつてゐたら、猶結構でございませう。」榛軒は聴いて不興気に黙つてゐた。さて翌日吉蔵に暇《いとま》を出した。家人が驚いて故を問うた時、榛軒は云つた。「月を観る間も利慾の念を忘れてゐられぬ男は、己の家には居かれない。」
吉蔵のこれを聞いた時の驚は更に甚だしかつた。是より先吉蔵は榛軒の愛する所の青磁の大花瓶を破《わ》つたことがある。其時は吉蔵が暇の出る覚悟をしてゐた。しかし榛軒は殆ど知らざるものの如くであつた。今忽ち暇の出たのは吉蔵のためには不可思議であつたのである。
榛軒は生涯著述することを欲せなかつた。是は父蘭軒の遺風を襲《つ》いだもので、弟柏軒も亦同じであつた。しかし蘭軒は猶詩文を嗜《たし》み、意を筆札に留めた。榛軒に至つては、
前へ
次へ
全114ページ中85ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング