つね》に高束の事を挙げて例とした。
わたくしの福田氏に借りた文書に徴するに、「慶応四戊辰五月改東席順」中「御者頭格御附御小姓頭高束応助六十三」と云ふものがある。応助は即翁助であらう。是に由つて観れば、高束は文化三年生で、榛軒より少《わか》きこと二歳であつた。
中井肥後は銀細工人で幕府の用達をしてゐた。家は湯島にあつた。中井は嘗て治を榛軒に請うて其病が※[#「やまいだれ+差」、第4水準2−81−66]《い》えた。そして謝恩のために銀器数種を贈つた。榛軒は固辞して受けなかつた。中井が其故を問うた時、榛軒は云つた。「兎角さう云ふ物は下人に悪心を起させる本になります。」しかし榛軒は必ずしも病家の器物を贈ることを拒んだのではない。蒔絵師菱田寿作は病の癒えた時、蒔絵の杯を贈つたが、榛軒はこれを受けた。
細木香以《ほそきかうい》が治を請うた時、榛軒は初め輒《たやす》く応ぜなかつた。しかし切に請うて已まぬので、遂に門人石川|甫淳《ほじゆん》をして治療せしめた。石川は榛軒門人録に「棚倉」と註してある。陸奥国白川郡棚倉の城主松平周防守|康爵《やすたか》の家来である。此人は榛門の最古参であつたさうである。或日細木は榛軒の妻志保を請じて観劇せしめた。榛軒が異議を挾《さしはさ》まなかつたので、志保は往いて観た。桟敷|二間《ふたま》を打ち抜いて設けた席であつた。細木は接待の事を挙げて石川に委ね、自分は午の刻の比に桟敷に来て挨拶し、直に又去つた。因《ちなみ》に云ふ、当時富豪にして榛軒に治を請うたものには、鈴木十兵衛、三河屋権右衛門等があつたが、皆謹厚な人物で、細木の如く驕奢ではなかつた。
笹屋千代も亦榛軒の病家であつた。榛軒の歿後に重患に罹り、棠軒良安の治を受けて歿した。徳《めぐむ》さんの蔵する所の「茶番忠臣蔵六段目役割台詞」と云ふ小冊子がある。是は千代の病が一時快方に向つた時、床揚の祝のために立案せられたものださうである。わたくしは此に一のキユリオジテエとして其役割を抄する。「母石川貞白、おかる飯田安石、勘平伊沢良安、一文字屋森養真、猟師井戸勘一郎、与一兵衛上原全八郎。」石川貞白、名は元亮《もとあきら》、本姓は磯野氏である。石川の通称は諸文書に或は貞白に作り、或は貞伯に作つてあつて一定しない。津山未亡人の説に従へば当《まさ》に貞白に作るべきである。又其名「元亮」は同じ人の云ふを聞くに「もとあきら」と訓ませたものらしい。上《かみ》に引いた東席順《とうせきじゆん》に「御広間番格奥御医師石川貞白五十八」と云つてある。然らば石川は文化八年生で、榛軒より少きこと七歳であつた。飯田安石は榛軒門人録に見えてゐる。東席順に「表御医師無足飯田安石四十五」と云つてある。然らば文政七年生であつた。此人の事は猶後に再記するであらう。森養真は枳園《きゑん》の子|約之《やくし》である。東席順に「御広間番格奥御医師無足森養真三十四」と云つてある。その天保六年生であつたことは既に記した。井戸勘一郎は柏軒の嗣子|磐《いはほ》の「親類書」に徴するに、蘭軒の女《ぢよ》長《ちやう》の夫井戸応助の子である。肩書に「御先手福田甲斐守組仮御抱入」と云つてある。上原全八郎は阿部家の料理人である。東席順に「総無足料頭上原全八郎五十六」と云つてある。然らば文化十年生で榛軒より少《わか》きこと九歳であつた。「料頭」は料理人頭歟。
その二百七十二
わたくしは既に榛軒の逸事中医治に関する事を録した。そして其末に口碑の伝ふる所の病家を列挙した。此よりは榛軒の友及榛軒時代に伊沢氏に出入した人々の事を言はうとおもふ。
森枳園は榛軒のためには父の遺弟子である。蘭門の諸子は蘭軒の在世中若先生を以て榛軒を呼び、その歿するに至つて、先生と改め呼んだことは既に云つた如くである。そして青年者《せいねんしや》は真に榛門に移つた。しかし年歯の榛軒と相若《あひし》くものは、前《さき》より友として相交つてゐたので、其関係は旧に依つた。枳園の如きは其一人である。枳園は榛軒より少《わか》きこと僅に三歳であつた。
曾能子刀自は二人の間の一事を記憶してゐる。或日榛軒は本所の阿部邸に宿直した。其翌日は枳園の来り代るべき日であつた。交代時刻は辰の刻であつた。然るに枳園は来なかつた。榛軒は退出することを得ずに、午餐を喫した。枳園は申の刻に至つて纔《わづか》に至り、深く稽緩《けいくわん》の罪を謝した。
榛軒は帰途に上つて、始めて此日徳川将軍の「お成《なり》」のために交通を遮断せられたことを聞き知つた。枳園は罪を謝するに当つて、絶てこれを口に上せなかつた。
榛軒は後に人に謂つた。「森は実に才子だ。若しあの時お成で道が塞がつて遅れたと云つたら、己はきつとなぜお成の前に出掛けなかつたと云つたに違ない。森は分疏《いひわけ》にならぬ分疏などはしない。実に才子だ」と云つた。
枳園が禄を失つて相模に居た時、榛軒が渋江抽斎等と共に助力し、遂に江戸に還ることを得しめたことは上《かみ》に見えてゐる。
渋江抽斎も亦榛軒が友として交つた一人である。そして榛軒より少きこと僅に一歳であつた。曾能子刀自はかう云ふことを記憶してゐる。或日柏軒、抽斎、枳園等が榛軒の所に集つて治療の経験談に※[#「日/咎」、第3水準1−85−32]《ひかげ》の移るを忘れたことがある。此時終始緘黙してゐたのは抽斎一人であつた。それが穉《をさな》い柏《かえ》の注意を惹いた。客散ずる後に、柏は母に問うた。「渋江さんはなぜあんなに黙つてお出なさるのでせう。」母は答へた。「さうさね。あの方は静な方なのだよ。それに今日はお医者の話ばかし出たのに、あの方はどつちかと云ふと儒者の方でお出なさるからね。」
金輪寺混外《こんりんじこんげ》は蘭軒の友で、蘭軒歿後には榛軒と交つた。榛軒は数《しば/\》王子の金輪寺を訪うた。曾能子刀自はかう云ふことを記憶してゐる。某年に榛軒は王子権現の祭に招かれて金輪寺に往つた。祭に田楽舞があつた。混外は王子権現の別当であつたので、祭果てて後に、舞の花笠一|蓋《かい》を榛軒に贈つた。
榛軒は花笠を轎《かご》に懸けさせて寺を出た。さて丸山をさして帰ると、途上近村の百姓らしいものが大勢轎を囲んで随ひ来るのに心附いた。榛軒は初めその何の故なるを知らなかつた。
行くこと数町にして轎丁《けうてい》が肩を換へた。其時衆人中より一人の男が進み出て榛軒に「お願がございます」と云つた。その言ふ所を聞けば花笠を請ふのであつた。当時此祭の花笠を得て帰れば、其村は疫癘を免れると伝へられてゐるのであつた。
寿阿弥の事は上《かみ》に見えてゐるから省く。曾能子刀自の言《こと》に拠れば、長唄の「初子」は寿阿弥の作である。
その二百七十三
わたくしは上に榛軒の友人並知人の事を列叙した。然るに嘗て曾能子刀自に聞く所にして全く棄つるに忍びざるものが、尚二三ある。姑《しばら》く其要を摘んで此に附して置く。実は鶏肋《けいろく》である。
村片相覧《むらかたあうみ》は福山藩の画師で、蘭軒の父|信階《のぶしな》の像、蘭軒の像等を画いた。相覧が榛軒の世に於て伊沢氏に交ること極て親しかつたことは、榛軒が福山に往つてゐた間、毎日留守を巡検したと云ふ一事に徴しても明である。
相覧の号を古※[#「山+壽」、第4水準2−8−71]《こたう》と云つたことは、既に云つた如く、荏薇《じんび》問答に見えてゐる。世に行はれてゐる画人伝の類には此人の名を載せない。只|海内偉帖《かいだいゐてふ》に「村片相覧、画、福山藩、丸山邸中」と云つてあるのみである。
相覧の子を周覧《ちかみ》と云つた。父は子を教ふるに意を用ゐなかつた。周覧は狭斜に出入し、悪疾に染まつて聾《みゝしひ》になり、終に父に疎《うと》んぜられた。榛軒は為に師を択んで従学せしめ、家業を襲ぐことを得しめた。曾能子刀自は家に周覧の画いた屏風のあつたことを記憶してゐる。意匠を河東節の歌曲「小袖模様」に取つたものであつた。わたくしの福田氏に借りた明治二年の「席順」に「第五等格、村片市蔵、三十九」と「第七等席、村片平蔵、廿六」とがある。榛軒の歿した嘉永五年には、天保二年生の市蔵が二十二歳、弘化元年生の平蔵が九歳であつた。周覧の子ではなからうか。初に少時の失行を云云して、後に其人の後の誰なるを推窮するは憚るべきが如くであるが、周覧の能く過を改め身を立てた人なるを思へば、必ずしも忌むべきではなからうか。
魚屋与助は伊沢氏に出入した魚商である。女《むすめ》が三人あつて、名を松《まつ》菊《きく》京《きやう》と云つた。与助の妻は酒を被《かうぶ》つて大言する癖があつて、「女が三人あるから、一人五百両と積つても千五百両がものはある」と云つた。松は榛軒の妻志保に事《つか》へて、柏《かえ》の師匠の許に通ふ供をした。後日本橋甚左衛門町の料理店百|尺《せき》の女中になつて、金を貯へた。京は常磐津の上手で、後小料理屋を出した。此二人は美人であつた。菊は目疾のために容《かたち》を損ひ、京の家に厄介になつた。力士岩木川の京に生ませた子が、後の横綱小錦|八十吉《やそきち》である。
初代|善好《ぜんかう》は榛軒に愛せられて、伊沢氏の宴席に招かれ、手品などを演じた。「日蓮の故迹に名ある石禾《いさは》ゆゑ出す薬さへ妙に利くなり」と云ふ狂歌を詠んだことがある。幇間を罷めて後、鍋屋横町に待合茶屋を出した。当時赤城横町は日蓮に賽するもののために賑ひ、鍋屋横町は人行が稀であつた。善好は客が少いので困窮し、榛軒の救助を得て存活したさうである。わたくしは幇間の歴史を詳にせぬが、初代善好とは所謂桜川善好であらうか。桜川善好は甚好の弟子、甚好は慈悲成《じひなり》の弟子だと云ふ。当時の狭斜の事蹟に精《くは》しい人の教を待つ。
榛軒の友人知人の事は此に終る。次にわたくしは榛軒の門人の事を記さうとおもふ。榛軒門人録には四十五人の名が載せてある。しかし今其行状を詳にすべきものは甚だ少い。わたくしは已むことを得ずして、只|偶《たま/\》曾能子刀自の話頭に上つたものを叙列することとする。
榛軒は門人を待つこと頗《すこぶる》厚かつた。曾能子刀自はかう云ふことを記憶してゐる。或日榛軒は塾生の食器の汚れてゐたのを見て妻に謂つた。「女中に善く言つて聞せて、もつと膳椀を綺麗に滌《あら》はせるやうにせい。諸生も内へ帰れば、皆立派な檀那だからな。」
その二百七十四
わたくしは榛軒の門人の事を書き続ぐ。門人中には往々十一二歳より十五六歳に至る少年があつた。清川安策、柴田常庵、三好泰令、雨宮良通《あめのみやりやうつう》、島村周庵、前田|安貞《あんてい》、高井元養等が即是である。
丸山の家の後園には梅林があつた。梅が子《み》を結ぶ毎に、少年等はこれを摘み取り、相擲《あひなげう》つて戯《たはむれ》とした。当時未だ曾て梅子《ばいし》の黄なるを見るに及ばなかつたのである。既にして榛軒が歿し、弟子が散じた。伊沢氏では年毎に後園の梅を※[#「酉+奄」、第3水準1−92−87]蔵《えんざう》して四斗樽二つを得た。
榛軒は少年弟子のために明《あけ》卯の刻に書を講じた。冬に至ると、弟子中虚弱なるものは寒を怯れた。そしてこれを伊沢氏の寒稽古と謂つた。
清川安策|孫《そん》は豊後国岡の城主中川氏の医官清川玄道|※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]《がい》の次男であつた。玄道は蘭門の一人で、其長男が徴《ちよう》、次男が孫である。
伝ふる所に従へば、父玄道は人となつて後久しく志を得ずに、某街の裏店《うらだな》に住んでゐた。家に兄弟十八人があつて、貧困甚だしかつた。しかし玄道は高く自ら標置して、士人の家には門がなくてはならぬと云ひ、裏店の入口に小い門を建てた。又歳旦には礼服がなくてはならぬと云つて、柳原の古著屋で紋服を買つて著た。
未だ幾《いくばく》ならぬに玄道は立身した。その目見医師の班に加はつたのは年月を詳にせぬが、躋寿館の講師に任ぜられたのは天保十四年十一月十六日である。即ち榛軒と年を同じ
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