朱点を施して糅雑《じうざつ》すること莫《な》からしめた。調合|畢《をは》れば、柏軒が門人等を神田大横町の蕎麦店今宮へ率《ゐ》て往き、蕎麦を振舞つた。大抵其員数は三十人許であつた。此より一行は神田明神社に参詣し、各人三十二文の玩具《おもちや》を買つて丸山の家に持つて帰つた。翌朝|闔家《かふか》のものが一斉に起き出で、諸弟子の遺《おく》る所の玩具を観て笑ひ興じた。

     その二百六十八

 わたくしは榛軒の世に於ける伊沢氏の年中行事を叙して歳暮に至つた。
 歳暮には幕府と阿部家とから金を賜はつた。幕府は躋寿館に書を講ずるがために賞するので、其|賜《たまもの》は毎年銀五枚であつた。
 幕府の賞を受けた日には、榛軒は往々書を買つて人に贈つた。曾能子《そのこ》刀自は柏《かえ》と呼ばれた当時|姫鏡《ひめかゞみ》、女大学、女孝経等をもらつたことを記してゐる。
 某《それ》の年榛軒は藩主の賞を受けて帰るとき、途に鳥屋の前を過《よぎ》つた。偶《たま/\》鳥屋の男の暹羅鶏《しやも》の頸を捩らうとしてゐるのを見て榛軒はそれを抑止し、受くる所の金を与へ、鶏を抱いて帰つた。黒縮緬の羽織が泥土に塗《まみ》れた。鶏は翌日浅草観音の境内に放つた。
 歳暮には受賞の祝宴と冬至の宴とがあつた。某年の歳暮の宴に、客の未だ到らざる前、榛軒は料理人上原全八郎と共に浴した。浴し畢《をは》つて榛軒は犢鼻褌《とくびこん》を著け、跳躍して病人|溜《だまり》の間を過ぎ、書斎に入つた。上原も亦主人に倣つて、褌《こん》を著け、跳躍して溜の間に入つた。然るに榛軒の既に去つて、上原の未だ来らざるに当つて、治を請はむがために訪うた一夫人が盛妝《せいさう》して坐してゐた。上原は驚いて退いた。榛軒は衣を整へて出でて夫人を見て云つた。「只今は執事が失礼をいたしました。平生疎忽な男で。」
 年中行事は此に終る。わたくしはこれに継ぐに神仏の事を以てする。榛軒は神を敬し仏を礼した。詩中にも経を誦すと云つてゐる。又遺言に誦経の事のあつたのも上《かみ》に記した如くである。其居室に関帝、菅公、加藤肥州等を祀つてゐたことは、年中行事に載せた。此敬神の傾向が弟柏軒に至つて愈《いよ/\》著《いちじる》くなつたことは後に言ふこととする。
 榛軒は啻《たゞ》に関帝等の像を居室に安置したのみならず、又庭に小祠を建ててゐた。祠には八幡大菩薩と摩利支天とを祀り、礎下《そか》には冑が埋めてあつた。其名を甲蔵《かふざう》稲荷社と云つたのは、人家の祀る所の神が多くは稲荷であつて、甲冑の二字は古来転倒して用ゐられてゐたからである。祭日には白山神社の神職を招いた。神饌《しんぜん》は酒、餅、赤飯、竹麦魚《はうぼう》、蜜柑、水、塩の七種であつた。素《もと》此祠は阿部家に於て由緒あるものであつたので、祭日には阿部侯の代拝者が来た。
 猶此に附記すべき事がある。それは榛軒の家に白木の唐櫃に注連繩《しめなは》を結ひ廻したものが床の間に飾つてあつたことである。櫃の中には後小松帝の宸翰二種と同帝の供御《ぐご》に用ゐられた鶴亀の文ある土器とが蔵してあつた。宸翰は大字の掛幅《くわいふく》と色紙とであつた。是は素榛軒の祖父|信階《のぶしな》の師武田長春院の家に伝へてゐた物であつたが、武田氏は家道漸く衰へて、これを商賈の手に委ねむとした。其時榛軒が金を武田氏に与へて請ひ受け、他日買戻を許すと云ふ条件を附して置いたのである。後榛軒の養子|棠軒《たうけん》は家を福山に徙す時、此櫃を柏軒の家に託した。柏軒の嗣|磐《いはほ》の世に至つて、世変に遭つて其所在を失つた。
 榛軒が常に追遠の念に厚い嗣子を養はむことを欲してゐたのも、此の如きピエテエの性より出でたものである。幸に養子良安は祖先を敬することを忘れなかつた。

     その二百六十九

 榛軒の軼事《いつじ》中わたくしは次に講学の事を書く。しかし其受業の師は前に載せたから今省く。
 榛軒は毎月一六の両日躋寿館に往いて書を講じた。塾生中午食の辨当を持つて随従したものは、柴田常庵、柴田修徳、高井元養、島村周庵、清川安策、雨宮良通《あめのみやりやうつう》、三好泰令等であつた。皆榛軒門人録に見えてゐる人々である。
 榛軒の家に医書を講ずる会を開いたのは、毎月九の日であつたと云ふ。天保壬辰三月の柏軒の日記に、九日に多紀※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《たきさいてい》が傷寒論を講ずることを休み、榛軒が上直《じやうちよく》したと云つてある。※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭を丸山に迎へたのであらうか。又此三月には榛軒が十日十五日に外台秘要を講じてゐる。按ずるに講書の日は必ずしも年々同一ではなかつたかも知れない。
 榛軒の家には、月六斎に塾生のために開く講筵があつた。渡辺|魯輔《ろすけ》を請じて経書を講ぜしめ、井口栄達を請じて本草を講ぜしめたのである。渡辺氏、名は魯、一の名は正風《せいふう》、樵山《せうざん》と号した。松崎|慊堂《かうだう》の門人である。当時麻布六本木に住んでゐた。明治六年に五十三歳を以て歿したと云ふより推せば、榛軒の歿した嘉永壬子には三十二歳であつた。井口は扇橋《あふぎばし》岡部藩の医官であつたと云ふ。わたくしは此人の事を詳にせぬが、日本博物学年表嘉永二年の条に下《しも》の記事がある。「泉州岸和田侯小野蘭山の本草綱目啓蒙に図なきを慨し、侍医井口三楽に命じて図譜を編輯せしめ、本草綱目啓蒙図譜山草部四巻を刻す。」按ずるに栄達は此三楽であらう。然らば岡部藩とは武蔵岡部の安部氏の藩ではなくて、和泉岸和田の岡部氏の藩であらう。武鑑を検するに、岡部氏の上屋敷は山王隣、中屋敷は霞関、下屋敷は渋谷である。扇橋は恐くは葵橋《あふひばし》の誤であらう。扇橋は当時の町鑑《まちかゞみ》を検するに、現在の深川扇橋を除く外、一も載せてないからである。
 渡辺の経義は塾生等が喜んで聴いたが、井口の本草はさうでなかつた。井口は老人で、説く所の事も道理を推論するのでなく、物類を列叙するのであつたから、塾生等は倦んで坐睡することがあつた。或時井口は其不敬を難詰して、講を終へずして席を起つた。塾生等は驚き謝して纔《わづか》に井口の怒を解くことを得た。
 榛軒は毎旦|女《ぢよ》柏《かえ》のために古今集を講じた。又柏に画を学ばせた。是は躋寿館に往く日毎に、柏をして轎《かご》に同乗せしめ、館に至つて轎を下る時、柏を轎の中に遺し、画師の家に舁き往かしめたのである。画師はなほ※[#変体仮名え、8巻−138−上−4]ぶんめいと云ふ人で、旗本の次男であつたと云ふ。わたくしは天保以後の画家中に就いて此名を討《たづ》ねたが見当らなかつた。又旗本中に就いて其氏を求めたが得なかつた。只古い分限帳に直井氏の二家がある。其邸は一は「御浜之内」、一は「湯島天神下」である。皆三四十俵取の家である。画家ぶんめいは或は直井氏ではなからうか。

     その二百七十

 榛軒の逸事は此より医業に関する事に入る。榛軒は流行医で、四枚肩の轎《かご》を飛ばして病家を歴訪した。其轎が当時の流行歌《はやりうた》にさへ歌はれたことは既に上《かみ》に記した。
 榛軒は初め轎丁《かごかき》四人と草履取二人とを抱へてゐた。しかし阿部邸内の仲間等が屡《しば/″\》喧嘩して、累を主人に及ぼすことが多かつたので、榛軒は抱の数を減じてこれを避けようとした。そこで草履取のみを留めて、轎丁は総て駕籠屋忠兵衛と云ふものに請負はせることとした。
 曾能子刀自の記憶してゐる仲間の話がある。某《それ》の年の暮の事であつた。伊沢氏では餅搗をした翌日近火に遭つた。知人《しるひと》が多く駆け附けた中に、数日前に暇《いとま》を遣つた仲間が一人交つてゐた。火は幸に伊沢の家を延焼するに及ばなかつた。其次の日に仲間の請宿の主人《あるじ》が礼を言ひに来た。「昨日はお餅を沢山頂戴いたして難有うございます。手前共ではまだ手廻り兼ねて搗かずにゐましたので、大勢の子供が大喜をいたしました」と云つたのである。榛軒が餅を調べて見させると、まだ切らずに置いた熨餅《のしもち》が足らなかつた。逐はれた仲間が背中に入れて還つたのであつた。
 榛軒は病家を択んで治を施した。富貴の家は努めて避け、貧賤の家には好んで近づいた。毎《つね》に「大名と札差の療治はせぬ事だ」と云つた。しかし榛軒が避けむと欲して避くることを得ずに出入した大名の家は、彼の輓詩を寄せた棚倉侯の外に数多《すうた》あつたことは勿論である。又札差を嫌つたのは、札差に豪奢の家が多かつたからである。因《ちなみ》に云ふ。旗本伊沢氏の如きは榛軒がためには宗族であつた。所謂「総本家」であつた。しかし榛軒は絶て往訪せずにしまつた。
 俳優は当時病家として特別の地位を占めてゐた。俳優は河原者として賤者である。目見以上の官医は公にこれをみまふことを得ない。然れども医にして技を售《う》らむことを欲するものは皆俳優の家に趨つた。
 榛軒は例として俳優の請には応ぜなかつた。「立派な腕のある医者が幾らもあつて見に往つて遣るのだから、何も己が往くには及ばない」と云つてゐた。只市川団十郎父子の病んだ時だけは此例に依らなかつた。団十郎は即七代目と八代目とである。七代目団十郎は人格も卑しからず、多少文字をも識つてゐて、榛軒は友として遇してゐたので、其継嗣にも親近したのである。
 榛軒は市川の家を訪ふに、先づ轎《かご》に乗つて堀田原《ほつたはら》に住んでゐる門人坂上玄丈の家に往き、そこより徒歩して市川の家に至つた。徳《めぐむ》さんの云ふには、前に引いた七代目の書牘《しよどく》に「坂の若先生」と云ふのは、此玄丈の子玄真ではなからうかと云ふことである。市川の家では七代目も八代目も数《しば/\》榛軒の治を受けた。河原崎権之助の女ちかが佝僂病《くるびやう》に罹つた時も、此縁故あるがために榛軒が診療した。権之助は九代目団十郎の養父である。
 榛軒の貧人を療した事に就いては種々の話があるが、今一例を挙げる。福山藩士に稲生《いなふ》某と云ふものがあつた。其妻が難産をして榛軒が邀《むか》へられた。榛軒は忽ち遽《あわた》だしく家に還つて、妻志保に「柏《かえ》の著換を皆出せ」と命じ、これを大袱《おほぶろしき》に裹《つゝ》んで随ひ来つた僕にわたした。是は柏が生れて日を経ざる頃の事であつた。稲生氏は小禄ではなかつたが家が貧しかつた。それに三|子《ご》が生れたのであつた。曾能子刀自は云ふ。「わたくしは赤子の時に著の身著の儘にせられたのですが、其後もさう云ふ事が度々あつたのでございます。」

     その二百七十一

 治を榛軒に請うた病家中、其名の偶《たま/\》曾能子刀自の記憶に存してゐるものが二三ある。それは榛軒が其家に往来した間に、特に記憶すべき事があつたからである。
 高束《たかつか》翁助は不眠を患《うれ》へた。榛軒はこれに薬を与へた時、翁助の妻を戒めて云つた。「是は強い薬ですから、どうぞ分量を間違へないやうにして下さい」と云つた。然るに或夜翁助は興奮不安の状が常より劇《はげ》しかつたので、妻は竊《ひそか》に薬を多服せしめた。翁助の興奮は増悪した。後には「己の著物には方々に鍼がある」と叫んで狂奔し、動《やゝ》もすれば戸外に跳り出でむとした。妻は榛軒の許に馳せ来つて救を乞うた。榛軒は熟々《つく/″\》聴いた後に、其顔を凝視して云つた。「薬の分量を間違へはしませんでせうね。」翁助の妻は吃りつつ答へた。「まことに済みませんが、今晩はいつもより病気がひどく起りましたので、少し余分に飲ませました。」榛軒は色を作《な》した。「大方そんな事だらうと思ひました。あなたはわたくしを信ぜないで、わたくしの言附を守らないのですから、此上は療治をお断申します。」云ひ畢《をは》つて榛軒は座を起つた。翁助の妻は泣いて罪を謝した。榛軒は将来を飭《いまし》めた後に往診した。榛軒は門人に薬量の重んぜざるべからざるを説くに、毎《
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