今後は塩田様も折々宅へお遊にお出下さるやうにと云ふことであつた。」
「わたくしは或日渋江抽斎の次男|優善《やすよし》と一しよに寿海の宅を訪うた。優善は前年以来矢島氏を称してゐた。二人が往つて見ると、寿海の宅では丁度大功記の稽古が始まつてゐた。俳優は春永坂東竹三郎、光秀四代目坂東彦三郎、蘭丸市川猿蔵であつた。竹三郎は四代目彦三郎の養子で、後の五代目彦三郎である。四代目彦三郎は後の亀蔵である。二人共明治の初までながらへてゐた人である。」
「わたくし共は暫く稽古を見てゐた。すると猿蔵の蘭丸が鉄扇で彦三《ひこさ》の光秀を打擲した後、其扇をぽんと投げた。寿海はそれを見て苦々しい顔をして云つた。猿。その投様はなんだ。まるで息抜がしてゐる。おれが遣つて見せうと云つた。そして扇を取つて起つて投げて見せた。なる程いかにも力が籠つてゐた。此時彦三が寿海に問うた。若し其鉄扇が離れた処に落ちてゐたら、どうして取り上げたものでせう。春永の引つ込んだ跡で、ゐざり寄つて取り上げたものでせうかと問うた。寿海の答はかうであつた。いや、それは見苦しくて行けない。春永の前に平伏する時、見物の気の附かぬ位鉄扇の方へゐざり寄つて、平伏ししなに素襖《すあう》の袖で鉄扇を掻き寄せればわけはない。さうして置いて頭を上げる時鉄扇を取り上げるが好いと云ふのであつた。」
「稽古が済んでから、わたくし共は寿海と話をした。其間にわたくしは寿海に問うた。舞台では随分長い間坐つてお出でせうが、※[#「やまいだれ+(鼾−自−干)」、第4水準2−81−55]《しびれ》がきれるやうな事はありませんかと問うた。これは父楊庵が二十四貫八百目の体で、主君の前に伺侯してゐて、いつも※[#「やまいだれ+(鼾−自−干)」、第4水準2−81−55]がきれて困ると云つてゐたからである。寿海は答へた。それは※[#「やまいだれ+(鼾−自−干)」、第4水準2−81−55]のきれぬやうにしてゐます。足の拇指さへ動してゐれば、※[#「やまいだれ+(鼾−自−干)」、第4水準2−81−55]はきれませぬと答へた。わたくしは帰つて父に伝授したが、其後父は※[#「やまいだれ+(鼾−自−干)」、第4水準2−81−55]に悩まされることがなくなつた。」
その二百六十五
わたくしは塩田氏の観劇談を此年嘉永壬子の事とした。それは寿海の剃髪して演じた勧進帳が其名残狂言らしくおもはれ、名残狂言の勧進帳が壬子の年に演ぜられたと聞いてゐるからである。しかし今わたくしの手元には演劇史料となるべき書は殆ど一部も無い。寿海の名残狂言の年は果して壬子であつたか。壬子ならば其何月であつたか。名残狂言の中幕に勧進帳を出した後に、四世|薪水《しんすゐ》が果して大功記を演じたか。凡そ此等の事は、極めて知り易かるべきものでありながら、わたくしはこれを検することを得ない。
わたくしは姑《しばら》く此に二三の推測を附記して置く。其一は勧進帳の演ぜられた劇場である。彼勧進帳が若し寿海の名残狂言であつたなら、是は塩田氏の談を書き取つた渋江氏の云ふ如く、必ずや河原崎座であつただらう。
其二は彼勧進帳が壬子の年の何《いづ》れの月に演ぜられたかと云ふことである。これを観た一行に榛軒が加はつてゐたことをおもへば、その九月以前なるべきことは勿論である。榛軒は十月に大病に罹つて、十一月に歿したからである。爰《こゝ》に寿海の榛軒に与へた一通の書牘があつて、是も亦文淵堂の花天月地《くわてんげつち》中に収められてゐる。其文はかうである。「新春の御祝儀万々歳御目出度、兼々御揃被遊御機嫌様宜しく入らせられ大寿至極恐悦奉申上候。誠に昨年の御蔭にて子も親もうち揃ひ、本の目出たき春に出勤仕候。有難々々御厚礼奉申上候。扨又父子へ御肴料として金五百疋御祝ひ被下、恐入々々頂戴仕候。坂の若先生昨日わざ/\御持参被成被下奉恐入候。十三日に初日出申候。ことに此度は悴事朝より出つづけにて、幕間《まくあひ》も取込居り候間、失礼ながら老筆にて御礼の御受申上候。且又|先達《せんだつて》より悴が一寸申上置候よし、甚だ※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1−94−76]末《そまつ》のささ折奉御覧入候。御笑味奉願上候。どうか此度は是非々々御見物願上候。甚子自慢も恐入候が、大役首尾能相勤居申候。乍恐御悦被遊可被下候。何とぞ/\御奥様へも山々よろしく願上候。可祝《かしく》。十五日。寿海老人白猿拝。井沢先生様。」文の首《はじめ》に「新春の御祝儀」と云ふより見れば、「十三日」は正月十三日である。榛軒が金を餽《おく》つて賀し、寿海が必ず来り観むことを請ふを見れば、此興行は廉《かど》ある興行でなくてはならない。「子も親もうち揃ひ本の目出たき春に出勤仕候」は富樫辨慶で、「甚子自慢も恐入候が、大役首尾能相勤居申候」は其富樫ではなからうか。若し然らば寿海の名残狂言の勧進帳は、壬子の年の春狂言で、其初日は正月十三日であつただらう。又寿海は辛亥の年に病んで榛軒の療治を受けたものとおもはれる。金を寿海の家に齎した「坂の若先生」とは誰か。若し柏軒ならば、何故に「坂」と云ふか。或は「若先生」は清川安策で、父玄道あるが故に云つたものか。
以上記し畢《をは》つた後、近世日本演劇史と歌舞伎新報とを小島政二郎さんに借りて看た。七世団十郎は壬子の九月と十一月とに勧進帳を演じた。新報に拠るに、一世一代は前者であつた。然れば団十郎父子の正月に演じた狂言は別である。四世薪水の大功記の事は演劇史に見えない。是等は根本資料に泝《さかのぼ》つて検せなくてはならない。
尋で小島氏は豊芥子の歌舞伎年代記続編嘉永五年の下《もと》に、四世薪水の大功記が「十一月七日より顔見世」になつたと云つてあることを報じた。しかし蘭丸は猿蔵でなくて市蔵になつてゐたさうである。是に於て壬子九月に榛軒が勧進帳を観、十月若くは十一月初に塩田、矢島が寿海の家を訪うたことが明なるに至つた。
その二百六十六
わたくしは此年嘉永壬子十一月十六日に榛軒の歿したことを叙し、次に編日の記を続いで歳暮に至り、最後に壬子年間の事にして月日を詳にせざる塩田氏の観劇談に及んだ。然るにわたくしの獲た所の資料中には、榛軒に関する事蹟にして年月日の下《もと》に繋くべからざるもの、若くは年月日不詳なるものが数多《すうた》有る。そして其大半は曾能子刀自の記憶する所である。榛軒は蘭軒の継嗣であるのに、同藩の人々と雖も、その平生を悉《つく》してゐるものが無い。是には後に記すべき弟柏軒に比するに、其生涯の波瀾に乏しかつたのも、一原因をなしてゐるだらう。又蘭軒は著述を喜ばなかつたとは云ひながら、猶若干の文字を後に貽《のこ》したのに、榛軒に至つては殆ど全く筆墨を弄せなかつたのも、一原因をなしてゐるだらう。榛軒の人となりの知り難いこと既に此の如くである。わたくしの獲た所の零砕の資料も、これを思へば軽々しく棄てられぬのである。
しかし此資料はわたくしをして頗る整理に艱《なや》ましめる。わたくしは已むことを得ずして一種の序次なき序次を立てた。そして先づ年中行事より筆を著ける。
榛軒の世には新年の発会が盛であつた。来り会するものは約百人であつた。時刻は午前より夜に及んだ。午は飯を饗し、夕は酒※[#「肴+殳」、第4水準2−78−4]《しゆかう》を饗した。少壮者は往々夜宴の開かるるを待ち兼ねて、未の下刻頃より「もう日が暮れた」と叫びつつ、板戸を鎖し蝋燭を燃やし、酒饌《しゆぜん》の出づるを促した。
曾能子刀自は当時の献立を記憶してゐる。例之《たとへ》ば午、吸物摘入、小蕪菁《こかぶ》、椎茸、平昆布、大口魚《たら》、鱠《なます》、千六本貝の柱、猪口はり/\、焼物生鮭粕漬、夕、吸物牡蠣海苔、口取蒲鉾卵|橘飩《きんとん》青海苔を塗《まぶ》したる牛蒡鯛の小串、刺身|比目魚《ひらめ》黒鰻《まぐろ》、大平《おほひら》鯛麪《たひめん》、旨煮《うまに》烏賊牛蒡|土当帰《うど》、概《おほむね》此類であつた。午は少壮者が健啖を競ふので、特に多く準備した。
宴を撤するに先だつて総踊と云ふことがある。客が一斉に起舞するのである。床板は屡踏み破られた。
三月上巳の節句は天保丙申の条に記した。
五月十三日には関帝を祭つた。関帝は蜀の関羽で、明の万暦中に「協天護国忠義大帝」の号を贈られたのださうである。榛軒の書斎には三|位《ゐ》の神像が安置してあつた。関羽、菅原道真、加藤清正である。
像には皆来歴がある。関帝の原像は本所五百羅漢寺の門にあつた。榛軒は彫工運長と云ふものに命じて※[#「墓」の「土」に代えて「手」、第3水準1−84−88]刻せしめた。按ずるに文淵堂の花天月地《くわてんげつち》に、榛軒が七代目市川団十郎所蔵の関帝像を還した時の団十郎の文がある。或は榛軒はこれを借りて家蔵の像に補刀を加へしめたのではなからうか。文はかうである。「拝見仕候。如仰梅天不正之儀に御坐候。陳者関帝御返却被下、慥に謹領仕候。遠方御人遣奉恐入候。只今講釈中貴報耳早々申上候。後刻拝趨万々可申上候。頓首。即日。寿海。榛軒先生奉復。二陳。賤姪《せんてつ》へよろしき御品御恵投、大に難有御厚礼申上候。喜気満面御遠察可被下候。」
関帝は厨子の裏《うち》に安置せられた。此厨子にも亦来歴があつて、像に比すれば更に奇である。
その二百六十七
わたくしは榛軒の毎歳五月十三日に祭つた関帝像の来歴を語つて、未だ其厨子の縁起に及ばなかつた。厨子には四具足が添へてある。香炉、花瓶、燭台、酒爵《しゆしやく》である。厨子と云ひ、什器と云ひ、皆川村伝右衛門と云ふ人の贈る所である。伝右衛門は今の第三十三銀行頭取川村|伝《つたふ》さんの祖父である。
什器は青銅で鋳たもので、酌源堂の文が鐫《せん》してある。其酒爵は聖堂に於て釈菜《せきさい》に用ゐるものを模したのである。川村氏は長崎の工人に命じて此什具を鋳造せしめた。然るにこれを載せて長崎より江戸に至る舟は覆没した。
一年の後、川村氏は既に什器の事を忘れてゐると、或日品川へ一の匣《はこ》が漂着した。幸に封緘|故《もと》の如くで、上に題した宛名も滅《き》えなかつたので、此エパアヴは川村氏の手に達した。川村氏は匣を携へて榛軒の所に至り、共に開いて検するに、四器一も毀損せずにゐた。関帝像、厨子、什器、皆現に徳《めぐむ》さんの家にある。
関帝祭器の漂著は事既に奇である。しかし此に猶一奇事の附載すべきものがある。榛軒は関帝を祭る日に、先づ本所の五百羅漢寺に詣《いた》つて原像を拝し、次で家に還つて※[#「墓」の「土」に代えて「手」、第3水準1−84−88]像を祭るを例とした。某年に本所に往つて関帝の前に拝跪し、さて身を起さむとすると、手に一物が触れた。取り上げて見れば小柄《こづか》であつた。更に熟視すれば、※[#「木+覇」、第4水準2−15−85]上《はじやう》の象嵌は関帝であつた。遺失者を訪ぬる道もないので、榛軒は持つて帰つた。此小柄は後請ふ人があつて譲り与へた。
榛軒は関帝を祭る日に、客に卓子《しつぼく》料理を饗した。円卓の一脚に機関があつて回転するやうにしてあつた。中央に円い皿一枚、周匝《めぐり》に扇形の皿八枚を置いた。扇形の皿には各別種の※[#「肴+殳」、第4水準2−78−4]《さかな》を盛つてあつて、客は卓を旋廻して好む所の※[#「肴+殳」、第4水準2−78−4]を取ることが出来た。
わたくしは前に榛軒の書斎に、関帝を除く他《た》、菅公と加藤肥州との像が安置してあつたと云つた。菅公像は太宰府天満宮の飛梅を材として刻したもの、又加藤肥州像は熊本より勧請《くわんじやう》し来つたものであつた。
七月の盂蘭盆会には毎歳大燈籠を貼らせ、榛軒が自ら達磨を画いた。
歳暮が近づけば屠蘇を調合する。其準備は十二月の半に始まる。調合の日は二十日である。是日には柏軒も来り、外弟子も来り、塾生と共に調合して、朝より夕に至る。其室には女子の入ることを許さない。幕府と阿部家とに献ずるものは、薬袋《やくたい》に題する屠字の右肩に
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