竜穏寺主許可。古き帳を大川に沈めしむ。」榛軒は自ら不起を知つたので、法諡《はふし》を撰んで識る所の僧に請うて閲《けみ》せしめた。又文書中後に貽《のこ》さざらむことを欲するものがあつたので、遺言して処分せしめた。人の秘事を与り知ることは、懺悔を聴くカトリツク教の僧を除いては、医師状師が最も多いであらう。殊に医を以て主に事《つか》へ、又幾多の貴人を診した榛軒の記録中に、人のために諱むべき事のあつたのは怪むに足らない。榛軒が簿冊を河に沈めさせたのは、恐くは諫草《かんさう》を焚《や》く意に外ならなかつたであらう。
「十二日。不眠。晩心胸下満痛。※[#「口+穢のつくり」、第3水準1−15−21]。」
「十三日。上より岡西玄亭を以て慰問せられ、又飯菜を賜ふ。上原全八郎の調理なり。」「上」は阿部侯正弘である。
「十四日。天地は我心なり、又草木の花は我心なり、桜花蓮花の開くごとに我を祭れと云ふ。」亦榛軒遺言の一部である。
「十五日。晩誦曰。繁華四十九年夢。化作寒天一夜霜。」榛軒辞世の句である。「天」は原《もと》「風」に作つてあるが、恐くは誤であらう。
病牀日記は十六日の記を闕いてゐる。しかし此日の巳刻に榛軒は絶息した筈である。棠軒公私略に「同(十一月)十六日朝四時過遂に御卒去被遊候、尤発表は翌十七日差出」と記してある。
此日榛軒門人の一人であつた塩田良三が躋寿館に於て医学出精の賞詞を受けた。良三は榛軒に師事し、其歿後に柏軒の門下に転じた人である。
当時の良三、今の真《しん》さんは渋江保さんに下《しも》の如く語つた。「わたくしの十六歳の時であつた。十一月十五日に、旧主人宗対馬守の重役から、御用有之、明十六日朝四時出頭するやうにと云つて来た。十六日に邸へ往くと、医学館へ往けと云ふことであつた。医学館に出て見ると、多紀安良、安琢が列座してゐて、安良の申渡があつた。其口上は講書聴聞久々出精一段之事に候と云ふ文言であつた。わたくしはそれを承つて、それから宗家の留守居役同道で所々へ礼廻に往つた。老中、若年寄、医学館世話役五人、手伝四人、俗事役三人の邸宅を廻つたのである。官医だけの氏名を言へば、世話役は多紀楽真院、野間寿昌院、多紀安良、辻元※[#「山/松」、第3水準1−47−81]庵、喜多村安正、手伝は谷辺《たにべ》道玄、船橋宗禎、坂尚安《さかしやうあん》、多紀安琢であつた。礼廻が済んでから、わたくしは榛軒先生の宅へ往つた。わたくしは切角先生に喜んで貰はうと思つて往つたのに、先生はもう亡くなつてをられた。丁度わたくしが宗の邸へ出頭した時瞑目せられたのであつた。」
当時の宗対馬守は義和《よしより》であつた。多紀の三人は宗家の安良が暁湖元※[#「日+斤」、第3水準1−85−14]《げうこげんきん》、分家の楽真院が※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭元堅《さいていげんけん》、安琢が雲従元※[#「王+炎」、第3水準1−88−13]《うんじゆうげんえん》である。
渋江保さんの云ふには、此賞詞は其仲兄|優善《やすよし》が共に受けて、礼廻をも共に済ませたのださうである。真さんは渋江抽斎と其長子六堂|恒善《つねよし》との教をも受けてゐたので、優善とは親善であつた。
その二百六十二
榛軒の喪は此年嘉永壬子十一月十七日に発せられた。遺骸は麻布|長谷寺《ちやうこくじ》に葬られた。墓は上《かみ》に記した如く、父蘭軒の墓と比《なら》んで立つてゐる。
葬《とぶらひ》の日は伝はらない。会葬者は甚だ衆く過半は医師で総髪又は剃髪であつた。途《みち》に此行列に逢つた市人等は、「あれは御大名の御隠居のお葬だらう」と云つたさうである。
此日長谷寺には阿部家の命に依つて黒白の幕が張られた。大目附以上のものゝ葬に準ぜられたのである。会葬者には赤飯《あかめし》に奈良漬、味噌漬を副へた辨当が供せられた。初め伊沢氏で千人前を準備したが、剰す所は幾《いくばく》もなかつたさうである。
輓詩《ばんし》は只一首のみ伝はつてゐる。誠園《せいゑん》と署した作である。「余多病、託治於福山侍医伊沢一安久矣、今聞其訃音、不堪痛惜之至、悵然有詠。天地空留医国名。何図一夜玉山傾。魂帰冥漠茫無跡。耳底猶聞笑語声。」「誠園稿」と書して、「爵」「守真」の二印がある。引首《いんしゆ》は「天楽」である。初めわたくしはその何人なるを知らなかつたが、偶《たま/\》寧静閣集を読んで誠園の陸奥国白川郡棚倉の城主松平周防守|康爵《やすたか》であることを知つた。一安は榛軒の晩年の称である。和歌は石川貞白の作一首がある。「あひおもふ君が木葉と散りしより物寂しくもなりまさりけり。元亮。」
曾能子刀自の語るを聞けば、此日俳優市川海老蔵と其子市川三升とが、縮緬羽二重を以て白蓮花《はくれんげ》を造らせて贈つたさうである。海老蔵は七代目、三升は八代目団十郎である。然るに文淵堂所蔵の花天月地《くわてんげつち》を閲《けみ》するに、榛軒の病死前後の書牘三通がある。其一は榛軒の病中に父子連署して榛軒の妻志保に寄せたもので、「御見舞のしるし迄に」菓子を贈ると云つてある。末に「霜月九日、白猿拝、三升拝、井沢御新造様」と書してある。其二は八代目一人が※[#「貝+冒」、8巻−125−上−2]《ばう》を送る文で、「此品いかが敷候へども御霊前へ奉呈上度如斯御座候」と云ひ、末に「廿二日、団栗《どんぐり》、伊沢様」と書してある。其三は又父子連署して造花を贈る文で、榛軒を葬つた日を徴するに足るものかと推せられるから、此に全文を録する。「舌代。蒙御免書中を以伺上仕候。向寒之砌に御座候得共、益御機嫌宜敷御住居|被為在《あらせられ》、大慶至極奉存候。扨旦那様御病中不奉御伺うち、御養生不相叶御死去被遊候との御事承り驚入候。野子《やし》ども朝暮之歎き難尽罷在候。別而尊君様御方々御愁傷之程如何計歟御察し奉申上候。随而甚恐入候得共|御※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1−94−76]末《おそまつ》なる造花御霊前様へ御備被下置候はゞ、親子共本望之至に御座候。只|御悔之印《おんくやみのしるし》迄に奉献之度《これをけんじたてまつりたく》如此に御座候以上。霜月廿二日。市川白猿。市川三升。伊沢様御新造さま。」八代目の一人で※[#「貝+冒」、8巻−125−上−16]を送つたのと同日である。しかし造花が二十二日に送られたとすると、此二十二日が即葬の日ではないかとおもはれるのである。
二十三日に榛軒が生前にあつらへて置いた小刀の拵が出来て来た。鞘の蒔絵が蓮花、縁頭鍔共《ふちかしらつばとも》蓮葉《れんえふ》の一本指であつた。榛軒は早晩致仕して、貴顕の交を断ち、此小刀を佩び、小若党一人を具して貧人の病を問はうと云つてゐたさうである。是は曾能子刀自の語る所である。
その二百六十三
此年嘉永壬子の十二月十三日は蘭軒の姉、榛軒柏軒の伯母《はくぼ》正宗院の一週年忌であつた。伊沢氏は尚榛軒の喪に居つたから、親戚と極て親しかつた人々とが集つて法要を営んだに過ぎなかつたであらう。「あらがねの土あたたかし冬籠、七十五歳|陶後《たうご》」と書した懐紙が徳《めぐむ》さんの蔵儲中にある。
此年森枳園が屠蘇の方《はう》を印刷して知友に頒つた。亦十二月中の事である。枳園の考証する所に従へば、屠蘇は本唐代の俗間方《ぞくかんはう》である。其配合の最古なるものは宋板外台秘要に出でてゐる。枳園は紀州藩の医官竹田某の蔵する所の宋板外台中屠蘇の方を載する一|頁《けつ》を影刻したのである。新年に屠蘇酒を飲むことは、今猶広く世間に行はれてゐるから、此に古方の薬品、分量、製法を略抄して置く。「歳旦屠蘇酒方。大黄十五銖。白朮十銖。桔梗十五銖、蜀椒十五銖汗。烏頭三銖炮。※[#「くさかんむり/拔」、第4水準2−86−30]※[#「くさかんむり/契」、第4水準2−86−45]六銖。桂心十五銖。右七味※[#「口+父」、第4水準2−3−71]咀。絳嚢盛。以十二月晦日。日中懸沈井中。令至※[#「泥/土」、第3水準1−15−53]。正月朔日平暁。出薬置酒中。」
此年には今一つの記すべき事がある。それは塩田|真《しん》さんの語る所で、榛軒等が七代目団十郎の勧進帳を観たと云ふ一事である。塩田氏の語るを聞くに、此勧進帳は七代目団十郎の所謂一世一代名残狂言であつたらしい。これを此年に繋《か》くる所以である。
塩田氏はかう云つた。「わたくしは伊沢榛軒、同柏軒、渋江抽斎、森枳園、小島成斎、石塚|豊芥子《ほうかいし》の人々と寿海老人の勧進帳を観たことを記憶してゐる。此人々は所謂|眼鏡連《めがねれん》で、毎《つね》に土間の三四を打ち抜いて見物した。是は本近眼から起つた事である。榛軒柏軒の兄弟は父蘭軒の如く近眼であつた。抽斎は伊沢兄弟程甚しくはなかつたが、是も亦近眼であつた。此日には抽斎の倅優善、清川安策、わたくしなどの青年も仲間入をして往つた。」
「勧進帳は中幕であつた。そしてわたくし共の最も看んと欲したのも亦此中幕であつた。幕の開く前に、寿海老人の口上があつた。例の如くまさかりいてふに柿色の上下《かみしも》で出て、一通口上を述べ、さて仮髪《かづら》を脱いで坊主頭になつて、此度此通頭を円めましたから、此頭に兜巾《ときん》を戴いて辨慶を勤めて御覧に入れますと云つた。」
「さていよ/\勧進帳の幕が開いた。三升の富樫、猿蔵《さるざう》の義経で、寿海が辨慶に扮したのである。猿蔵と云つたのは三升の弟で、後の九代目団十郎の兄である。」
「眼鏡連はいづれも見巧者《みがうしや》の事だから、熱心に看てゐた。わたくしは偶《たま/\》彼木場の隠居となつた四代目団十郎の勧進帳の正本《しやうほん》を持つてゐたので、それを持つて往つてゐた。そこで土間で其本を攤《ひら》いて、舞台と見較べてゐた。」
「幕を引くと直に、眼鏡連の土間へ、寿海老人の使が来た。其口上は、只今舞台から拝見いたしましたが、大そう古い本をお持になつて入らつしやるやうでございます。暫時あの本を借して戴くことは出来ますまいかと云ふことであつた。わたくしは喜んで借して遣つた。」
「芝居がはねて、一同茶屋の二階へ帰つてゐると、そこへ又寿海の使が来て本を還した。口上は、結構な御本をお貸下さつて難有うございます、お蔭を以ちまして、藝の上に種々心附きました事がございます、自身参上いたしてお返申すべきでございますが、打出し早々多用でございますので、使を以てお返申しますと云ふことであつた。そして使は大きい菓子折を出した。」
「わたくしも少し驚いたが、先輩の人々も顔を見合せて、何事か思案せられるらしかつた。さて榛軒先生がわたくしに、塩田、此返事はどうすると問はれた。」
その二百六十四
わたくしは此に塩田氏の観劇談を書き続ぐ。それはわたくしの此年嘉永壬子の事だと以為《おも》ふ談《はなし》である。塩田氏は既に七代目団十郎の寿海老人が己に四代目団十郎の演じた勧進帳の正本を返す時、菓子折を添へて茶屋の二階に送り、同行の師榛軒がこれに報復する所以を問うたことを語つて、さてかう云つた。
「其時わたくしは別にどうしようと云ふ定見もなかつたので、榛軒先生に、さやうでございます、どういたしたものでございませうかと反問した。先生は云はれた。どうだ、其本を寿海に遣らんかと云はれた。わたくしはすぐに承諾した。そこで一行の先輩の間に、これを贈るにどう云ふ形式を以てするが好いかと云ふ評議があつて、結局折り返して使に本を持たせて還すのは面白くない、幸《さいはひ》同行清川安策の父玄道は寿海を療治してゐるから、これに託して寿海の宅へ送つて遣るが好いと云ふことになつた。そこで寿海の使をば、菓子折の礼を言つて帰した。」
「わたくしは其夜一行と別れる時、正本を安策に託した。数日の後、安策はわたくしに寿海の玄道に謂《い》つた詞《ことば》を伝へた。御本は有難く頂戴いたします。お若い方がわたくしの藝を古い本に引き較べて看て下さつた御心入に、わたくしは深く感激いたしました。
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