3水準1−84−59]」との二印がある。日附は「※[#「虫+昔」、第4水準2−87−55]月《さげつ》十二日」である。徳《めぐむ》さんに質すに、清川玄策、名は※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]、号は梧陰又|藹軒《あいけん》であつたと云ふ。蘭軒門人録に「清川玄道、初安索、江戸」(安は玄、索は策か)とあり、榛軒門人録に「清川安策、岡」とある。梧陰は前者であらうか。榛軒詩存に唱和の詩数首があつて、皆「清川安策」とのみ書してあるが、それは後者であらう。渋江保さんの言《こと》に従へば、清川※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]に二子があつて、兄を玄策徴《げんさくちよう》と云ひ、弟を安策孫《あんさくそん》と云つた。此孫が順養子となつたさうである。按ずるに梧陰は蘭門の玄道で榛門の安策の父ではなからうか。梧陰の齢《よはひ》は※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]《はるか》に榛軒より長じてゐたらしい。
 曾能子刀自の語る所に拠れば、正宗院の賀筵は十二月中三日間引き続いて開かれたさうである。果して然らば十一、十二、十三日であらう。梧陰の詩は其中の日に贈られたのである。又刀自の言《こと》を聞くに、榛軒は此賀筵を催すに当つて黒田家に請ひ、正宗院を丸山の家に遷らしめたさうである。丸山の家の図に正宗院の居室のあつたことは前に云つた如くである。
 わたくしは上《かみ》に此年三事の記すべきものがあつたと云つて、榛軒の日光山の遊、正宗院の八十の賀、梅の誕生を挙げた。梅は榛軒の初に迎へた女婿全安の柏《かえ》に生ませた女《むすめ》である。わたくしは其生日を知らぬが、全安の伊沢氏を冒してゐた期間より推すに、庚戌三月よりは遅れなかつただらう。
 最後にわたくしは榛軒詩存中より、「嘉永三庚戌冬夜直舎即事」の詩を抄出する。「酔醒人散三更後。独擁銅炉臥官楼。撃柝響時寒愈急。宿鴉鳴処月将浮。尋得残酒尋残夢。憶来旧詩憶旧遊。世事初知消気力。笑看半点暁燈油。」
 此年榛軒四十七、妻志保五十一、女柏十六、孫女梅一つ、柏軒並妻俊四十一、女洲十、国七つ、柏軒の妾春二十六、蘭軒の女長三十七、蘭軒の姉正宗院八十であつた。
 嘉永四年は蘭軒歿後第二十二年である。榛軒に元旦の詩がある。「嘉永四辛亥元旦、与塾中諸子同分韻得肴、近日諸子学術頗進、後句及之。団欒児女迎新歳。更献椒杯又進肴。恰恰山禽呼屋角。暉暉旭日上梅梢。青洲従事頻通好。白水真人久絶交。諸子精研尤可喜。先生自此酔東郊。」榛軒詩存巻首の詩である。尋で「嘉永四辛亥初春偶成」の詩がある。「飽食暖衣愧此身。又逢四十八青春。少年宿志渾灰燼。遂作尋常白首人。」此詩の転結は四年前|杪冬《せうとう》の七律第七八と殆全く同じである。皆稿を留めざる矢口肆筆《しこうしひつ》の作である。「遠大思懐灰燼了。遂為売薬白頭人。」
 十月二十四日に榛軒は福山の執政|高滝《たかたき》某を旅館に訪うた。「嘉永四辛亥十月廿四日、与立夫魯直酔梅家弟柏軒、同訪高滝大夫旅館、此日大夫遊篠池、有詩次韻。昔年今日訪君家。記得林泉清且嘉。亡友共算暁星没。問齢同歎夕陽斜。詩題檠上奇於壁。酒満尊中何当茶。酔渇頻思蜜柑子。二千里外福山※[#「「貝+(やね/示)」、8巻−118−上−5]。」高滝大夫の称は樸斎《ぼくさい》詩鈔、藤陰舎遺稿等に累見してゐる。武鑑に「年寄、高滝左仲」と云ふは此人か。樸斎に「弔高滝常明君墓」の詩がある。常明《つねあき》は左仲の名ではなからうか。同行者|立夫《りつふ》は森枳園、魯直《ろちよく》は岡西玄亭である。酔梅《すゐばい》は未だ考へない。

     その二百五十九

 此年嘉永辛亥の十一月に榛軒の女柏が長刀の伝授を受けた。当時長刀の師に呈した誓約書の副本は、今猶曾能子刀自が蔵してゐる。其文は今人《きんじん》の見て奇異とすべきものなるが故に、此に写し出すことゝする。「誓約之覚。巴流長刀目録御伝授之儀、聊他見他言仕間敷候事。御相伝被下候上は、御指南之条条堅相守、稽古半に而《て》相止申間敷、且他流と藝替不仕候。右|於相背者《あひそむくにおいては》、秋葉大権現摩利支尊天、別而《べつして》鬼神之御罰相蒙可申候也。仍誓約|如件《くだんのごとし》。嘉永四年歳次辛亥十一月。伊沢柏。喜多村|増馬《ますま》殿。」
 昔妙齢にして長刀を錬習した柏が今曾能子刀自として健在せることは、わたくしの既に屡《しば/\》云つた如くである。啻《たゞ》に然るのみならず、毎《つね》に柏が長刀の対手をした少年も、今猶健在してゐる。それは当時の塩田|良三《りやうさん》で、即今の塩田|真《しん》さんである。辛亥の歳には柏が十七、良三が十五であつた。
 十二月十三日に蘭軒の姉|幾勢《きせ》、黒田家の奥に仕へた時の名|世代《せよ》、薙染《ちぜん》後の称正宗院が八十一歳を以て丸山の家に歿した。前年庚戌十二月の寿筵は此|媼《おうな》をしていたく疲れしめた。正宗院は此より垂れ籠めてのみ日を送つてゐたが、遂に寿筵後満一年にして歿したのである。正宗院は遺言に依つて、黒田家の菩提所広尾祥雲寺境内霊泉寺の塋域に葬られた。昨年黒田伯爵家の家乗編纂に従事してゐる中島利一郎さんは、わたくしのために正宗院の墓に詣でて、墓石の刻文を写して贈つた。正面中央には「正宗院湛然妙総禅定尼、」右側面には「瑤津院殿侍女、俗名世代、福山伊沢長安信階女、嘉永四年辛亥十二月十三日死、」左側面には「福山伊沢長安信厚、筑前伊沢道盛信全」と刻してある。此文中道盛信全は蘭軒の生父|信階《のぶしな》の養父信政より、信栄、一時|中継《なかつぎ》たりし信階、信美《しんび》[#ルビの「しんび」は底本では「しんぴ」]を経て信全に至る、伊沢宗家の当主で、辛亥には六十九歳であつた。
 正宗院の歿した時、石川貞白の手向けた歌がある。「正宗院のみまかり給ひけるとき禅の心を。わきがたきをしへの外の道なれどけふぞまことに君はゆくらむ。元亮。」
 此年榛軒四十八、妻志保五十二、女柏十七、全安の女梅二つ、柏軒並妻俊四十二、女洲十一、国八つ、男鉄三郎二つ、蘭軒の女長三十八、柏軒の妾春二十七であつた。
 嘉永五年は蘭軒歿後第二十三年で、其嗣子榛軒の応《まさ》に世を去るべき年である。詩存に元旦の絶句がある。「嘉永五壬子元旦。喜鶴声々対旭飛。陶然酔美弄晴暉。頼依信友悌弟力。不待来年知了非。」此日榛軒は又門人黒川|雲岱《うんたい》に次韻した。「嘉永五壬子元旦、和黒川生韻。三百六十第一辰。風声日影共新新。節遅今日尚冬季。人意酔中既識春。」門人録を検するに、黒川は「棚倉」と註してある。わたくしは榛軒詩存の或は永遠に印刷せられざるべきを思ふが故に、作者の世を去る年の詩は悉く存録することとした。上《かみ》の二首の如きも、其巧拙を問ふことなく、遺蹟に乏しい榛軒の所作として、わたくしはこれを尊重するのである。

     その二百六十

 此年嘉永壬子の冬は伊沢氏に於て事多き季節であつた。初に中橋又分家の慶事があつた。柏軒は十月七日に躋寿館の講師を命ぜられたのである。
 同月下旬に榛軒が病に罹つた。或は是より先に病を発して、此|旬《じゆん》に入つて増悪したのかも知れない。徳《めぐむ》さんの蔵する所の病牀の日記は、「十月廿一日、熱、嘔、脈数、椿庭診、柏軒診」を以て筆を起してある。椿庭《ちんてい》は山田|昌栄業広《しやうえいげふくわう》である。弟柏軒も亦中橋から来り診した。
「廿二日。乾嘔甚。夜信重診。」弟が夜に入つて来た。
「廿三日。薬下。嘔少止。」
「廿四日。嘔少止。壮熱。午後※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭診。晩清吉老診。」多紀※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《たきさいてい》が来診した。「清吉老」は未だ考へない。
「廿五日。壮熱如前。※[#「山/松」、第3水準1−47−81]庵診。晩汗微出。」辻元※[#「山/松」、第3水準1−47−81]庵《つじもとすうあん》が来診した。此年の武鑑に「辻元※[#「山/松」、第3水準1−47−81]庵、奥御医師、二百俵高、御役料三十人扶持、下谷長者町」と記してある。
「廿六日。嘔止。熱少衰。夜与立夫議転方。」転方《てんはう》は榛軒が自らこれを森枳園に諮《はか》つたのであらう。
「廿七日。招請椿庭議方。」薬方は原本に註してあるが、今総て省略する。
「廿八日。清吉老診。」
「廿九日。煩熱。心下鞭満甚。」
「十一月三日。良安と信重に刀を贈る。信重のものは後鉄三郎に与へしむ。」良安は榛軒が女柏に配せむとしてゐる青年田中|鏐造《りうざう》である。田中氏は当時松川町に住んでゐた。良安は六歳にして父を失つた孤《みなしご》であつたと云ふから、父|淳昌《じゆんしやう》は天保十年に歿したであらう。榛軒詩存に「嘉永五壬子冬月示良安」と云ふ詩がある。「医家稽古在求真。千古而来苦乏人。万巻読書看破去。応知四診妙微神。」或は此日の作ではなからうか。此年十月は小であつたから、二十九日の後記事の無い日は、十一月|朔《さく》と二日とである。
「四日。御食進。夜中も一度御食事有之。此夜養子婚儀。」合※[#「丞/巳」、8巻−121−上−6]の日は榛軒の心を安んぜむがために急にせられたのであらう。此日に良安は十九歳にして伊沢良安となつた。即ち後の棠軒である。媒《なかうど》は梧陰清川安策であつた。「棠軒公私略」には「嘉永五年壬子十一月四日、養家に引移、整婚儀、名改良安、時府君在蓐」と記してある。是に由つて観れば、良安は榛軒の命じた名である。
「五日。楽真院来診。養子来り、忝しと挨拶あり。」楽真院は※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭である。此年の武鑑を検するに、向柳原《むかうやなぎはら》の多紀宗家は「多紀安常、父安良、御医師方子息」と記してある。安良《あんりやう》は暁湖元※[#「日+斤」、第3水準1−85−14]《げうこげんきん》、其子安常は棠辺元佶《たうへんげんきつ》である。元佶は実は暁湖の季弟である。矢の倉の多紀分家は「多紀楽真院法印、父安長、奥御医師、二百俵高、御役料二百俵、両国元矢の倉」、「多紀安琢、父楽真院、御医師方子息」と記してある。安長は桂山元簡《けいざんげんかん》、楽真院は※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭|元堅《げんけん》、安琢は雲従元※[#「王+炎」、第3水準1−88−13]《うんじゆうげんえん》である。「養子来り、忝しと挨拶あり」と云ふより推すに、榛軒が田中淳昌の遺子を迎へて女婿とした時、※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭は其間に周旋したと見える。
「六日。昨夜発熱。汗出。※[#「りっしんべん+正」、第3水準1−84−43]※[#「りっしんべん+中」、第3水準1−84−40]有之。但小水快利。椿庭来診。」
「七日。夜安眠。」
「八日。清吉老来診。言談過る故、終夜不眠。」
「九日。※[#「山/松」、第3水準1−47−81]老診。夜快眠。四時熱退。」
「十日。椿庭診。※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭診。清吉老診。岡西、成田来。」岡西は蘭軒門人録に「岡西玄亭、藩、」榛軒門人録に「岡西玄庵、福山」があり、成田は彼に「成田元倩、藩、」此に「成田竜玄、九鬼」がある。「藩」は福山藩である。岡西玄亭は渋江抽斎の妻《さい》徳《とく》の兄で、当時尚存命してゐた。玄庵は玄亭の長男、岡寛斎の兄で、此年十八歳であつた。問安のために来たのは、父子|孰《いづ》れなるを知らない。成田の事は不明である。

     その二百六十一

 わたくしは嘉永壬子の冬榛軒が致死の病に染まつたことを語つて、当時の病牀日記を抄し、十一月十日の条に至つた。今其後を書き続ぐ。
「十一日夜不寐。推枕軒安安信厚居士。先生自命。
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