。」転結は此日の朝の事を用ゐたものである。
「八日、晴。松万《まつまん》と共に磯浜に行、鰺網を見る。(舟に乗らむとするに、)波高(して)はたさず。」松万は榛軒を福住に訪うた知人である。紀行は此に終る。わたくしは榛軒と其家族との江戸に還つた日を知らない。
九月十六日に榛軒は菊を岡西氏に贈つた。詩存に「弘化四丁未九月十六日、贈菊花於岡西玄亭及次子貞次郎」の七絶がある。「分贈君家同癖童」の結句より推すに、貞次郎は玄亭の次男で、中ごろ岡西養玄と云ひ、後に岡寛斎と云つた人である。わたくしは此詩を読んで、始て寛斎の小字《をさなゝ》を貞次郎と云つたことを知つた。天保十年生の貞次郎は此時僅に九歳であつた。「同癖」の二字は人をして其夙慧を想見せしめる。
詩存には尚此頃の作と覚しき七絶一首が載せてある。其題「途上口占」の下《しも》に「弘化四丁未」と註してある。「鎮在綿衾梧枕中。孤※[#「筑」の「凡」に代えて「卩」、第3水準1−89−60]試歩出城東。金剛寺畔幽渓路。頼有残楓一樹紅。」
十月にも亦一絶がある。「同年(丁未)初冬偶成」が即是で、瓶《へい》に菊花を插して茶に烹《に》ると云つてある。
十二月|朔《ついたち》に榛軒は初て徳川家慶に謁した。伊沢氏では此時阿部正弘が家臣の恩を受けたのを謝するために、老中以下の諸職を歴訪したと伝へてゐる。此より後の武鑑には「御目見医師、本郷阿部内、伊沢長安」の名が載せられてゐる。
尋で阿部家では榛軒を目附格に進め、禄卅石を加増した。従来百二十石であつたので、此より百五十石になつた。医官に禄を与ふることが多きに過ぎて、其技術の低下を見るは、当時武家の通患であつた。それゆゑ阿部家の如きは特に医官の禄を微にしてゐた。榛軒の百五十石は最高の給額であつたさうである。因《ちなみ》に云ふ。岡西玄亭の家は百石、森枳園の家は三十人扶持であつた。
榛軒は既に目見医師の班に加はつたので、登城することとなつた。其供廻の費《つひえ》は阿部家が供給したさうである。
榛軒詩存には尚此月に「丁未杪冬病中述懐」の七律がある。是は頗る榛軒当時の境界を窺ふに足る作で、此詩と曾能子《そのこ》刀自の記憶する一話とを対照するときは、人をして坐《そゞろ》に榛軒の畏敬すべきを覚えしむるのである。
その二百五十五
わたくしは榛軒弘化丁未|杪冬《せうとう》の詩と、曾能子刀自の記憶する一話とを此に併せ録する。詩に云く。「邇来量減病酲頻。孤枕小屏日相親。嚢物常無半文儲。盆梅頼報一分春。家中長短宜封口。世上嘲戯足省身。遠大思懐灰燼了。遂為売薬白頭人。」
次に刀自の語る所はかうである。刀自が十三歳の時の事であつた。父榛軒は数日来感冒のために引き籠つてゐて、大晦《おほつごもり》を寝て暮した。そこへ石川貞白が訪ねて来たが、其|云為《うんゐ》には周章の状《さま》が著かつた。そして榛軒に窮を救はむことを請うた。榛軒は輒《すなは》ち応へずして、貞白をして一組の歌がるたを書せしめた。貞白は已むことを得ずして筆を把つたが、此時|上下《かみしも》の句二百枚を書くのは、言ふべからざる苦痛であつた。しかし書き畢《をは》つた比は、貞白が稍落著いた。榛軒は方纔篋《はうざんけふ》を探つて、金三十両を出してわたした。貞白は驚喜してこれを懐にして去つたと云ふのである。
推するに榛軒は貞白の神《しん》定まるを候《ま》つて金を授けたのであらう。自ら「嚢物常無半文儲」を歎じつゝも、友を救ふがためには、三十金を投じて惜む色がなかつた。此三十金は必ずや事ある日のために蔵してゐて、敢て自家のために徒費しなかつたものであらう。榛軒の生涯は順境を以て終始したので、その人と為《なり》を知るべき事実が少い。わたくしが刀自の此一話に重きを置く所以である。
此年猶榛軒詩存中に「賀関氏子」の七絶がある。関某の誰なるかは未詳であるが、榛軒は其子の「廟堂器」たらむことを期してゐる。
北条霞亭の養嗣子|進之《しんし》が始て仕籍に列し、舎を福山に賜つたのも亦此年である。会々《たま/\》進之の妻山路氏|由嘉《ゆか》が病んで歿した。跡には十歳の子|念祖《ねんそ》が遺つた。
此年榛軒四十四、妻志保四十八、女柏十三、柏軒と妻俊とは三十八、女洲七つ、国四つであつた。蘭軒の女長は三十四、蘭軒の姉正宗院は七十七であつた。
嘉永元年には榛軒詩存に、「弘化五戊申初春偶成」の七絶がある。「去歳漫蒙債鬼窘。嚢中払尽半文無。先生私有遊春料。柑子一双酒一壺。」丁未杪冬の頷聯《がんれん》と併せ読んで伊沢氏の清貧を想ふ。
次に詩中月日の徴すべきものは、「嘉永元戊申十二月朔夜作」の七絶である。「畏縮去年今日栄。野人浪上玉京城。酔濃客散三更後。一枕水声睡味清。」詩は何《いづ》れの地にあつて作られたかを知らぬが、末句の水声には山中に宿したらしい趣がある。
柏軒身上には此年種々の事があつたらしい。先づ事の重大にして蹟《あと》の明確なるものより言はむに、柏軒は十月十六日に「医学館医書彫刻取扱手伝」を命ぜられた。次にわたくしは側室佐藤氏春の柏軒に仕へたのが此年よりせられたであらうと推測する。次年己酉の四月には春が嗣子|磐《いはほ》を生んでゐるからである。
その二百五十六
わたくしは柏軒が妾《せふ》佐藤氏春を納れたのが、此年戊申の事であらうと言つた。正妻狩谷氏俊は丙申に来り嫁してより、此に至るまで十三年を経てゐて、其間に長男棠助、長女洲、次女国、三女北の一子三女を生んだ。此四人の中能く長育したものは、只国一人のみなるが故に、余の三人の生歿は家乗に詳密なる記載を闕いてゐる。
柏軒が春を納れたのは、俊の請《こひ》に従つたのだと伝へられてゐる。推するに女丈夫にして妬忌《とき》の念のなかつた俊は、四人の子を生んだ後、身の漸く疲※[#「卒+頁」、第4水準2−92−29]《ひすゐ》するを憂へて此請をなしたのであらう。
春は明治六年に其子|磐《いはほ》の公《おほやけ》に呈した書類に、「文政八年六月十九日生、東京府平民狩谷三右衛門叔母」と記してある。当時の三右衛門は矩之《くし》であるが、其親族関係の詳《つまびらか》なるを知らない。始て柏軒に事《つか》へた時の春の歯《よはひ》は二十四歳である。
此年伊沢氏の親交ある人々の中、寿阿弥が死に、森枳園が阿部家に帰参することを許された。
寿阿弥の入寂は八月二十九日であつた。其詳なることは別に著す所の「寿阿弥の手紙」に譲つて贅せない。わたくしは此に曾能子刀自の記憶一条を補記して置く。「寿阿弥さんは背の高い大坊主でございました。顔立は立派で、鼻が大そう高うございました。鼠木綿の著物を著て、お天気の日も雨の降る日も、足駄を穿いて歩きました。浅草で亡くなる前に、わたくしも病気見舞に連れて行かれました。」
森枳園の阿部家に帰参したのは五月である。此帰参が主として伊沢氏の助を藉りて成就し、又渋江抽斎等も力を其間に尽したことは、既に抽斎伝に記した如くである。
此年榛軒四十五、妻志保四十九、女柏十四、柏軒と妻俊とは三十九、女洲八つ、国五つ、蘭軒の女長三十五、蘭軒の姉正宗院七十八であつた。
嘉永二年には榛軒に元旦の詩があるが、詩存中に載せられない。わたくしは良子刀自所蔵の掛幅《くわいふく》に於てこれを読むことを得た。「笑迎四十六年春。椒酒三杯気愈伸。弟有悌兮児有孝。奉斯懶病不材人。己酉元日口占。源信厚。」
四月は丸山の榛軒が家にも、中橋の柏軒が家にも事のあつた月である。
榛軒は十七日に女《ぢよ》柏《かえ》のために婿を迎へた。婿は池田京水の七男全安である。文政八年生の全安は二十五歳になつてゐた。渋江保さんが此時父抽斎の榛軒に物を贈つた書の下書を蔵してゐる。「一筆啓上仕候。今般全安様御事、伊沢家へ御養子御熟談相整重畳愛度奉存候。右御祝儀申納度、真綿一台進上仕候。聊表志之印迄に御座候。御祝受被下候ば、本懐之至奉存候。恐惶謹言。」
柏軒の家では九日に妾《せふ》春が次男鉄三郎を生んだ。後|徳安《とくあん》と改称し、立嫡《りつてき》せられて父の後を襲ぎ、磐安《ばんあん》と云ひ、維新の時に及んで磐《いはほ》と称した。
穉《をさな》い鉄三郎は春を「春や」と呼び、春も亦鉄三郎を「若様」と呼んだが、維新後の磐は春を嫡母《てきぼ》として公に届け、これに孝養を尽した。
その二百五十七
榛軒詩存中に尚此年己酉四月の作と認べきものがある。それは「嘉永二己酉偶成、次高束子韻」の七絶三首である。わたくしは此にその四月の作たるを徴すべきもの一を節録する。「点滴声中送尽春。麦秋寒犯病酲身。矮屏孤枕昏昏臥。羨望多餐健歩人。」既に元日の詩に「懶病」と云ひ、今又此詩がある。榛軒は此頃心身の違和を覚えてゐたとおもはれる。
五月には榛軒の女婿全安が離縁になつた。そして柏は不幸にして妊娠してゐた。全安の伊沢氏を去つたのは、医術分科の上に於て、養父榛軒と志す所を異にしたのだと伝へられてゐる。全安は此より自立して池田氏の「又分家」を成した。即ち宗家霧渓瑞仙|晋《しん》、分家天渓瑞長、又分家全安である。
小島氏では此年四月十五日に、春庵宝素の子|春沂《しゆんき》抱沖が躋寿館《せいじゆくわん》の寄宿寮頭取になつた。尋で閏《じゆん》四月二十九日に宝素が歿し、七月三日に抱沖が家督相続をし、十月二十八日に奥医師になつた。
此年榛軒四十六、妻志保五十、女柏十五、柏軒並妻俊四十、女洲九つ、国六つ、男鉄三郎一つ、蘭軒の女長三十六、蘭軒の姉正宗院七十九であつた。柏軒の妾春は二十五であつた。
嘉永三年は蘭軒歿後第二十一年である。伊沢家には三事の記すべきものがあつた。其一は榛軒が日光山に遊んだこと、其二は正宗院が八十の賀をしたこと、其三は榛軒の女柏が全安の遺子梅を生んだことである。
日光山の遊は榛軒詩存に七絶五首が見えてゐる。榛軒は是より先、既に此山に登つたことがあるらしい。「売酒老翁旧相知。竹欄沿例先把巵。」庚戌の此遊は夏の初で、途上四月八日に某寺を訪うた。「紫屋紅軒尽是花。禅房新造小龕家。媼翁各伴児孫去。競酌香湯灌釈迦。」途《みち》に藤の花の盛に開いてゐるのをも観た。「水奔渓石白如噴。風擺藤花紫欲篩。」五首の題は「嘉永三庚戌日光道中口占」である。
阿部正弘事蹟を按ずるに、下《しも》の如き記事がある。「此年(嘉永二年)九月、日光東照宮其他の修繕工事総奉行を命ぜらる。翌年(三年)三月、勝手掛勉励の労を賞せられ、且つ東照宮修繕の為に日光に発向するを以て、葵章鞍覆を賜はる。四月、日光に赴き、十余日にして帰る。」是に由つて観れば、榛軒庚戌の遊は正弘に随行したものと見える。
次に正宗院の八十の賀は、わたくしは今二物の存するあるに由つて知つた。徳《めぐむ》さんは小島成斎の書幅を蔵してゐる。全唐紙に「如南山寿、不騫不崩」の八字が二行に大書してある。末には「奉賀正宗院君八秩、知足」と署してある。禿筆《とくひつ》を用ゐて作つた草体が奔放を極めてゐる。引首印《いんしゆいん》と知足の下《しも》の印一顆とがある。是が一つである。今一つは清川安策の五古で、是は文淵堂の花天月地《くわてんげつち》中に収められてゐる。
その二百五十八
わたくしは此年庚戌の正宗院八十の賀に、清川安策の五古があつたと云つた。今これを下《しも》に写し出す。「賀正宗尼君八十初度、漫賦十韻以代戯話。天錫無疆寿。譬諸松栢栄。繁枝庇百草。心堅而操貞。昔日絶世累。晩節傲玄英。窮陰無衰態。足以慰物情。仙鶴棲其上。有雛揚家声。二字誰所命。称其宗之正。請看甘冽酒。与君同美名。老後最多福。奉養有両甥。松下聞鶴唳。筵間金尊盈。雲仍遶膝坐。交起挙賀※[#「角+光」、第3水準1−91−91]。梧陰廃叟拝具。」花天月地の同巻中に榛軒に此詩を寄せた時の添書《そへしよ》があつて、「口上茶番に代候《かへそろ》例の譫言《たはこと》」とことわつてある。此書状には※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]《がい》と署してあり、又詩箋にも「清川」と「※[#「りっしんべん+豈」、第
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