巳元旦偶成。随例今朝祭恵方。団欒尽酔幾巡觴。僕歓婢笑皆愚樸。此是儂家大吉祥。」
 三月十七日に蘭軒第十七回忌の法会が営まれた。真野陶後《まのたうご》の句がある。「蘭軒先生十七回忌。花の下に酔うて笑ふを手向哉。」陶後|頼寛《よりひろ》は屡改称した人である。群蔵、仲介《なかすけ》、幸次郎、佐次兵衛と三たびまで改めたのである。其孫幸作さんの蔵する文書に徴するに、陶後は安永七年八月十三日に阿部伊勢守|正倫《まさとも》の家臣|竹亭頼恭《ちくていよりゆき》の嫡男として生れた。「寛政六年三月九日、非常之節御寄場に差出。七年二月九日、御供番不足之場に被召出、二人扶持被下置。九年十二月廿三日、御宛介十二石被成下。寛政十一年十二月十七日、御簾番下馬纏被仰付。享和元年六月廿八日、御広間番被仰付。文化元年七月十三日、罷出候而罷帰不申、行衛不相知。(以上正倫代。)文化六年八月十六日、帰住被差許。七年十月五日、御供番無足之場に御雇形被召出、二人扶持被成下。文化九年五月七日、佐竹右京大夫様御家来小倉亘妹縁談願之通被仰付。十年十二月十七日、十二石御直し被成下。十一年九月十三日、御簾番下馬纏兼被仰付。十四年四月十二日父群左衛門(頼恭)病死、六月五日、亡父跡式無相違被成下、御広間番被仰付。(以上正精代。)文政十年六月廿八日、大手勤番被仰付。七月十七日、大手御帳面調被仰付。(以上正寧代。)天保九年閏四月廿八日、大手勤番加番面番被仰付。六月十一日、大手勤番水之手被仰付。天保十三年六月廿七日、上下格大殿様(正寧)附奥勤被仰付。(以上正弘代。)」蘭軒第十七回忌の時は、陶後は六十八歳で、大殿《おほとの》正寧附上下格《まさやすづきかみしもかく》奥勤であつた。
 小島氏では此年十月十三日に、宝素の子|春沂《しゆんき》が躋寿館の素読の師を命ぜられた。
 此年|寿阿弥《じゆあみ》が七十七の寿宴を催した。蘭軒の歿後に、寿阿弥は毎月十七日に伊沢氏を訪うて読経した。それ故榛軒は寿宴の配物《くばりもの》として袱紗数百枚を寄附した。袱紗は村片相覧《むらかたあうみ》に亀を画かせ、寿阿弥をして歌を題せしめたものであつた。書画は白綸子に写させ、それに緋綸子の裏を著けた。
 頼氏では此年山陽の女《ぢよ》陽《やう》が十六歳で早世した。跡には復《ふく》と醇《じゆん》との二子が遺つたのである。
 此年榛軒四十二、妻志保四十六、女柏十一、柏軒及妻俊三十六、女洲五つ、国二つ、蘭軒の女長三十二、蘭軒の姉正宗院七十五であつた。
 弘化三年は蘭軒歿後第十七年である。此丙午の歳には伊沢氏に事の記すべきものが無い。只曾能子刀自がわたくしにかう云ふ事を語つた。「十一か十二になつた頃の事でございました。わたくしは丸山の宅の縁におもちやを出して遊んでゐて、どうかしてそれを置いたまゝ奥にはいりますと、跡へ内弟子の中の若い人達が出て来て、わたくしのおもちやを持つて遊びます。その賑やかな声を聞いて、わたくしが縁に出ますと、弟子達は皆逃げてしまひます。わたくしは本意《ほい》なく思つて、或時父に愬《うつた》へました。すると父はかう申しました。それは、お前、喜ばなくてはならない事だ、柏《かえ》ちやんのやうな小い子を、門人が師匠の子として敬つて、遠慮して引き下るのだ。お前はいつまでも今のやうに、門人に遠慮をさせて育たなくてはならないと申しました。」
 此年榛軒四十三、妻志保四十七、女柏十二、柏軒及妻俊三十七、女洲六つ、国三つ、其他長は三十三、正宗院は七十六であつた。

     その二百五十二

 弘化四年は蘭軒歿後第十八年である。榛軒詩存に「丁未早春途上詠所見」の七絶と、「丁未上元後一日、次豆日小集韻、兼似柏軒」の五律とがある。今其|辞《ことば》を略す。
 六七月の交《かう》に榛軒は暇を賜つて函嶺《はこね》に遊んだ。徳《めぐむ》さんの蔵する所の「湘陽紀行」一巻がある。其書には年号もなく干支もないが、渋江保さんが此年の著だと云ふことを鑑定した。何故と云ふに、書中に須川隆白《すがはりうはく》の齢《よはひ》を二十歳としてある。須川は保の兄|恒善《つねよし》よりは少《わか》きこと二歳であつた。其二十歳は丁未の歳となるのである。前《さき》にわたくしは蘭軒の長崎紀行の全文を載せたが、榛軒の此紀行は要を摘むに止める。彼は蘭軒の手定本であつたために割愛するに忍びなかつたが、此は草々筆を走らせて辞に詮次《せんじ》なく、且首尾全からぬために字句をいたはることを要せぬのである。
 六月「廿四日、晴、暑甚し。暁六時細君|柏児《はくじ》を伴ひ、須川隆白二十歳、田中屋忠兵衛、僕吉蔵をしたがへ出立す。(中略。)中橋にて小憩し、(中略、)日野屋に立寄、(中略、)本芝にて肩輿を倩《やと》ひ、柏児と交互に乗る。(中略。)佐美津《さみづ》川崎屋にて昼食、酒旨魚鮮、風光朗敞、風涼最多。(中略。)鈴森《すゞがもり》にて少息す。炎熱|可※[#「火+共」、第3水準1−87−42]《あぶるべし》。六郷を渡り、(中略、)生麦にて鮓を食し酒を飲む。家は左側(なり。)加奈川宿奈古屋に投宿す。妓四人来終夜喧噪す。婢徳の妓と同枕(せむこと)を抽斎に強ふる事(あり、)絶倒す。」括弧内の文字は読み易からしめむがために、わたくしが加へた。「中橋」は柏軒の家である。佐美津は鮫津である。曾能子刀自の言《こと》に従へば、奈古屋に舎《やど》つた此夜、妓を畏れて遁れ避けたものは、渋江抽斎、山田|椿町《ちんてい》、須川隆白の三人であつた。此中須川は年|甫《はじめ》て二十であつたから、羞恥のために独臥したのであらう。抽斎と椿庭とは平生謹厳を以て門人等に憚られてゐたのださうである。
「廿五日、陰晴|相半《あひなかばす》。(中略。)柏軒、二陶、天宇《てんう》と別る。」弟柏軒、石川二陶、天宇の三人は送つて此に至り、始て別れ去つたのである。天宇は渋江保さんの言《こと》に拠るに、抽斎の別号ださうである。「程谷駅中より左に折れ、金沢道にかかる。肩輿二を倩ひ、三里半の山路屈曲高低を経歴す。左右|瞿麦《なでしこ》百合の二花紅白粧点す。能見堂眺望不待言。樹陰涼爽可愛。立夫《りつふ》の教にて、町屋村入口にて初て柳を見る。相州中人家柳を栽るを忌む。自《おのづから》土地に少しと云ふ。」立夫は枳園の字《あざな》である。阿部家を逐はれて、当時尚相模国に住んでゐた。推するに微行して江戸に入り、榛軒の案内者として此に来てゐるのであらう。「瀬戸橋畔|東屋《あづまや》酒楼にて飲す。(中略。)楼上風涼如水。微雨|偶《たま/\》来り、風光|頓《とんに》変り、水墨の画のごとし。隆白小柴の伯父を訪ふ。待つ間に一睡す。隆白帰。雨亦晴。又出て日荷《につか》上人を拝し、朝比奈切通の上にて憩ひ、崖間の清泉を掬し飲む。此辺|野葛《のくず》多し。枝柄《えから》天神祠前を過ぐ。日欲暮、疲倦甚しく、(往いて詣ること能はざるが故に)遙拝す。雪下大沢専助旅店に投宿す。終夜|濤声《たうせいあり》。不得眠。」一行は既に鎌倉に入つたのである。枝柄天神は荏柄天神に作るべきである。前日の記中よりわたくしの省略したのは、遠近種々の地まで送つて来た人名等であつたが、此日の記に至つては、駕籠賃がある。又酒店東屋の献立が頗る細かに書いてある。悉く写し出すことを欲せざる所以である。

     その二百五十三

 わたくしは弘化丁未の榛軒の旅を叙して、湘陽紀行六月二十五日の条に至つた。榛軒は此日鎌倉雪下に投宿したのであつた。
「廿六日、晴、風《かぜあり》、午時|微過雨《びにくわうあり》。(中略)江島に到り、橘屋武兵衛酒店にて午餐を辨じ(中略)藤沢の宿に到る。」
「廿七日、晴。駅の出口にて立夫《りつふ》に別る。(中略。)小田原入口にて午餐す。(中略。)夕方宮下奈良屋に投宿す。」枳園は別れて僑居に帰つたのであらう。寿蔵碑に拠れば津久井県であらうか。函嶺の第一日である。
「廿八日、晴。塩《しほ》柏《かえ》を伴ひ、隆白吉蔵をしたがへ、木賀松坂屋寿平治寓宿の於久《おひさ》の病を診し、(中略、)一宿す。(中略。)隆白二僕は宮下に留守す。」榛軒は宮下に行李を置いて、木賀の病家を訪ひ、松坂屋に舎《やど》つた。函嶺の第二日である。
「廿九日、晴。午後木賀より帰る。」宮下に復《かへ》つたのである。函嶺の第三日である。
「晦日《つごもり》、晴。暑甚。隆白を伴ひ、底倉|堂島《だうがしま》等遊行す。」函嶺の第四日である。
「七月|朔日《ついたち》、晴。(中略。)蘆湯に行く。」函嶺の第五日である。
「二日、雨。(中略。)木賀|古島久婦《こたうきうふ》の病を訪ふ。宿主松坂屋寿平治より蕎麦|麪条《さうめん》を贈。」「宿主」と云ふより推すに、再び木賀に舎つたのであらう。「古島久婦」の四字は解し難い。前の「松坂屋寿平治寓宿の於久」と同じ人なることは明である。揣摩《しま》して言へば、画師|村片相覧《むらかたあうみ》は古島と号した。其妻を久と云つた。久が病んで函嶺に来り浴してゐた。木賀の松坂屋は其旅寓である。しかし此推測の当れりや否やは、わたくしの能く保《はう》する限でない。函嶺の第六日である。
「三日、雨。(中略。)終日|聴雨《あめをきく》、無聊頼《れうらいなし》。」木賀に留まつてゐたものか。函嶺の第七日である。
「四日、晴。山花《さんくわ》(山あぢさゐ)を折り、渓水にて茶を煮(霜の花)、墨形落雁(古※[#「山+壽」、第4水準2−8−71]所贈《こたうのおくるところ》)、並に香華燈燭を以て※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]翁を祭る。夕方盃を酌む。日野両老人、浦安二女、主人平治等也。」上《かみ》の両括弧は自註である。「霜の花」は茶の銘であらう。「古※[#「山+壽」、第4水準2−8−71]」は、若し上《かみ》の推測の如くだとすると、病婦久の夫であらう。是日は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の第十三回忌であつた。浦と安とは二女の名である。初め江戸を発した日に、「日野屋に立寄る」の文があつた。「日野屋両老人、浦安二女」は江戸の尾張町の日野屋の家族であらう。「主人平治」は松坂屋寿平治である。その「主人」と云ふを見れば、榛軒の松坂屋に舎《やど》つてゐたことが知られる。函嶺の第八日である。
「五日、晴、残炎甚。(中略。)宮城野より明神嶽へ上り、最上寺《さいじやうじ》に参詣。上路屈曲、深谷危径、一人も逢ふ人なし。途中桃を里に運ぶ老人に逢ふ。数顆を買ひ、水漿《すゐしやう》に代て渇を医す。山上に小田原在の民馬を牽来り草を苅る。満山あせび、ぶな、うつ木にて大木はなし。最上寺下り口に石長生《せきちやうせい》多し。一丁程大石の挾路《みちをさしはさむ》所あり。右の方に聊の寒泉あり。氷寒|沁骨《こつにしんす》。最上寺にて茶を乞、行厨《かうちゆう》を開く。近辺|細辛《さいしん》多し。帰路山上にて冷酒一杯を飲む。(中略。)此日塩柏葦湯に行。木賀の辺にて逢伴帰。」わたくしは榛軒の父蘭軒と同じく本草に通じてゐたことを示さむがために、多く上文を刪《けづ》らなかつた。榛軒の妻子を伴ひ帰つた家は、木賀の松坂屋ではなくて、宮下の奈良屋である。函嶺の第九日である。

     その二百五十四

 わたくしの抄する所の弘化丁未の湘陽紀行は、既に七月五日榛軒が函嶺宮下奈良屋に舎《やど》つた日に至つてゐた。榛軒は山中にあること既に九日であつた。
「六日、晴。奈良屋出立。(中略。)湯元の福住九蔵の家に投宿す。」宮下より湯元に遷つたのが、函嶺の第十日であつた。
「七夕、晴。渓石を拾ひ、新筆墨にて五彩箋に書し、二星に供す。塩柏隆白忠兵衛を送り三枚橋に到り別る。(中略。)暮合《くれあひ》福住を出で、風祭《かざまつり》より松明《たいまつ》にて(道を照し、)小田原大清水家に投宿す。元小清水泊の所、指合《さしあひ》にて、隣家にて食事を辨じ、一宿す。」山中にあること十日の後、此日先づ妻子をして帰途に就かしめ、尋《つい》で山を下つて小田原に舎《やど》つたのである。榛軒詩存に「山水自画賛」の七絶がある。「分松寸石雲烟冷。政是山渓欲暁時。記来当日函関路。三枚橋辺別女児
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