に至つた。その山陽門人たる時に草した詩文にも、亦石川成章の自署を留めてゐる。成章は藤陰の名である。然るに山陽病歿の前後に頼氏に寓してゐて、山陽の命を受けて其著述を校訂し、山陽の易簀《えきさく》するに及んで、後事を経営した関五郎と云ふものがある。藤陰と此関五郎とは同一人であるらしい。只その同一人たる確証が無い。且藤陰と関五郎とが果して同一人ならば、殆六十年の久しき間石川氏を称してゐた藤陰が、何故に其中間に於て忽ち関氏を称し、忽ち又石川氏に復したか。一説に関五郎は関氏五郎に非ずして、石川氏関五郎であると云ふ。しかし士人たる関五郎が何故に自署に其氏を省いたか。是が問題の大要である。
 わたくしは今藤陰|解褐《かいかつ》の事を記するに当つて、此問題を再検しようとおもふ。それは藤陰の孫国助さんが頃日《このごろ》其蔵儲の秘を発《ひら》いてわたくしに示したからである。

     その二百四十八

 文化の初より明治の初に至るまで、石川氏を称してゐた藤陰成章《とういんせいしやう》と、頼山陽の易簀前後に水西荘に寓してゐた関五郎とが、同一人であると云ふことには、初より大なるプロバビリテエがある。しかし証拠が無い。矧《まし》てや確証とすべきものは無い。又試みに石川成章は何故に、何時より何時に至るまで関五郎と称したかと問はむに、何人もこれに答ふることが出来ない。
 此時に当つて藤陰の孫国助さんが所蔵の文書を写してわたくしに寄示したのは、実に感謝すべき事である。文書は書牘《しよどく》二通で、其他に封筒一枚と書籍一巻とがある。わたくしは左に逐次にこれを録することとする。
 第一の書牘の全文は下《しも》の如くである。「一昨夜|者《は》大酔、久々にて散鬱候《うつをさんじそろ》。偖《さて》三木三郎君事、昼後は日々あとくり有之候様、公より御加鞭被下候様奉希候。後室よりは被申候ても不聞者に御坐候。此義乍御面倒奉煩候。不一。三郎。五郎様。」
 此書はいかに看るべきであらうか。単に謄本のみに就いて判断し得らるべきものを此に註する。三郎は児玉|旗山《きざん》、五郎は関五郎で、書は旗山の関五郎に与へたものである。「あとくり」は復習である。旗山は醇《じゆん》の午後に復習せざるを憂へて、関五郎にこれを督励せむことを請うた。何故に午前の受業を説かずして、午後の復習を説いてゐるか。午前は旗山が自ら授読してゐるからである。
 書には月日が無い。しかし右の判断にして誤らぬ限は、旗山のこれを裁した月日は略《ほゞ》知ることが出来る。山陽が歿して五十日を経た後、未亡人里恵は醇を旗山の家に通学せしめた。書は此日より後に作られた。即ち天保三年十一月十四日より後に作られた。次で里恵は同年|閏《じゆん》十一月二十五日に書を広江秋水夫妻に与へて、「せつかく此せつ(児玉方へ)遣候(はむ)と存候」と云つた。里恵にして期の如く醇を旗山の家に託したとすると、書は閏十一月の末より前に作られた。
 此書の関藤氏に伝はつてゐるのは、明に関五郎の藤陰たるべきプロバビリテエを加ふるものである。
 わたくしは又特に旗山が「三郎」と自署して、藤陰を呼ぶに「五郎」を以てしたのに注目する。五郎は既に山陽の口にする所にして、又旗山の筆にする所である。五郎は恐くは二字の通称であらう。関五郎は関氏五郎であらう。縦《たと》ひ師が弟子を呼ぶとしても、又朋友が相呼ぶとしても、何五郎の称を省いて五郎となすことはなささうである。
 第二の書牘は頼杏坪《らいきやうへい》の関五郎に与へたもので、其文は極て短く、口上書と称すべき際《きは》のものである。「何ぞ御贐《おんはなむけ》に差上度候へ共有合不申、此鄙著二冊致呈上候。御粲留《ごさんりう》被成可被下候。八月十一日。杏坪。関五郎様。」
 此書には国助さんの考証がある。「此手紙は天保四年頼塾を去り帰省、九月江戸昌平黌に遊学する前、広島に赴ける時の事と推定す」と云ふのである。仮に関五郎を以て藤陰とするときは、わたくしは此考証に異議を挾むべき所以を見ない。
 わたくしは此書の関藤氏に伝はつてゐるを見て、藤陰の関五郎たるプロバビリテエが更に加はること一層なるを思ふ。
 書は猶わたくしに一の新事実を教へる。それは関五郎が若し藤陰ならば、藤陰は京都を離れた後にも暫く此称を持続してゐたと云ふことである。

     その二百四十九

 わたくしは上《かみ》に関藤国助さんの所蔵の書牘二通を挙げた。それは児玉旗山と頼杏坪とが関五郎に与へたものであつた。そしてわたくしは此を以て関五郎の藤陰成章たるプロバビリテエの加はつたことを承認した。しかし此を以て関五郎の藤陰たる証拠とせむには、少しく物足らぬ心地がする。況や此を以て確証とすべきではあるまい。何故と云ふに、人の関五郎に与へた書が関藤氏の家に伝はつてゐると云ふだけの事実は明であるが、藤陰が同門の人の受けた簡牘を蔵してゐたと云ふことも考へられぬことは無いからである。わたくしは只関五郎が藤陰であるらしいと云ふプロバビリテエの、疇昔に比して分明に其大さを加へたことを認むるに過ぎない。
 わたくしは猶望を将来に属する。わたくしの求むる所の証拠は、縦《たと》ひ今藤陰の裔孫の手に無くとも、他日何処からか現れて来はすまいかと云ふのである。証拠とは奈何《いか》なるものであるか。関五郎の藤陰なることが、藤陰自己若くは其友人の口若くは筆に藉《よ》つて説かれてゐるものを謂ふ。わたくしは猶進んでかう云ふことが知りたい。当時の石川成章が何等かの故があつて、某《それ》の年某の月日に関氏を称し、又五郎と称し、次で某の年某の月日に元の石川氏に復したと云ふことが知りたい。
 国助さんのわたくしに示した所のものは猶二種ある。それは上の書牘二通に比すれば価値の少いものではあるが、わたくしはこれを下《しも》に記して置く。
 其一は一枚の空《くう》封筒である。「京寺町本能寺前大和や喜三郎様御内石川関五郎様。状ちん相済。秋山伊豆。」此秋山伊豆は藤陰に文章の添削を乞うたことのある人ださうである。
 わたくしは上《かみ》に児玉旗山の書を見て、重て関の氏にして、五郎の二字の通称なるべきことを言つた。今此封筒はこれが反証に充《あ》つべきが如くである。しかしわたくしは此の如き反証を認むることを得ない。わたくしはかう判断する。石川成章はある時忽ち関氏五郎と名告つた。秋山伊豆は相識の間ではあつたが、山陽旗山の如く親しくなかつたので、関の氏なるを知らず、錯つて「関五郎」と云ふ三字の通称となした。秋山は恐くは後に続出した三字通称説の元祖であらうと。
 今一つは頼山陽の「南北朝論」である。此書には篠崎小竹の跋があつて、「天保四年癸巳八月、小竹散人篠崎弼書」と署してある。そして此跋は愈《いよ/\》人をして藤陰の関五郎なるべきを想はしめる。「子成喀血。自知不起。昼夜※[#「てへん+參」、8巻−101−上−7]筆。綴記其政記十数巻。衆医沮不聴。君達侍奉。随綴随写。子成喜曰。此子助成吾業者矣。因授此稿。稿在君達。乃伝道之衣鉢。」此数句は、試に嘗て引いた山陽の未亡人里恵の書牘を取つて対比するに、殆ど人に迫つて成章君達《せいしやうくんたつ》の関五郎なるべきを認めざること能はざらしめむとする。里恵の書中に見えてゐる関五郎の所為と、小竹の跋文中に見えてゐる君達の所為とは、殆ど別人の事とは見做されぬのである。
 わたくしは前《さき》に云つた。政記校訂の事を以て関五郎と藤陰とを結び附くる糸とするは、余りに薄弱であると云つた。小竹の此跋は此糸をして太からしめ強からしむるもので、是も亦他の方面より関五郎が藤陰であるらしいと云ふプロバビリテエを加ふるものとせざることを得ない。其価値は固より彼空封筒の比では無い。
 以上記し畢《をは》つた時、浜野氏は江木鰐水《えぎがくすゐ》の日記を抄して寄示した。「天保四年客中日記。四月十六日、石川五郎伴頼三木三郎及高槻慶次郎来。午後余与五郎。訪後藤世張。不在。遂航遊天保山。及晩帰。又遊新町帰。」五郎は果して石川氏であつた、藤陰であつた。鰐水は此に新なる称と故《もと》の氏とを併せ用ゐたのである。わたくしは遂に一の証拠を得た。

     その二百五十

 わたくしは此年天保癸卯に関藤藤陰が解褐《かいかつ》したことを記して、藤陰と関五郎との同異の問題を覆検した。そして二人の同一人物なる証拠を江木鰐水の日記中に獲た。
 此年狩谷氏では懐之《くわいし》が四十歳になつて、後に其養嗣子となるべき三右衛門|矩之《くし》が斎藤氏の家に生れた。
 此年榛軒は既に云つた如く四十歳になつた。歳晩偶成の絶句は「四十余年一場夢」を以て起つてゐるが、余の字は全く余つてゐる。妻志保は四十四、女《ぢよ》柏《かえ》は九つであつた。柏軒夫妻は共に三十四、女|洲《しう》三つであつた。長は三十、正宗院は七十三になつた。
 弘化元年は蘭軒歿後十五年である。榛軒に「天保十五年甲辰元旦」の七律がある。「暁拝新年謁我公。帰来始見旭光紅。梅花千点玉皆琢。黄鳥一声簧未工。践事唯期伝世業。虚名却怕墜家風。坐賓尊酒両盈満。尽在君恩優渥中。」
 正月五日に榛軒兄弟は蘭門の人々と共に本庄村に遊んだ。榛軒詩存に五古一篇がある。「天保十五年甲辰正月五日、同渋江六柳、小野抱経、石川二陶曁家弟柏軒、遊本庄村、恒吉、道悦二童跟随焉、用靖節斜川韻。潜雨膏潤物。及晨俄爾休。幸有旧日約。相伴作春遊。童子疲遠道。買舟泝平流。風加堤上柳。水暖渚辺鴎。停棹拝関廟。散策歩草丘。傾尽瓢中酒。礼数罷献酬。酔歓良無極。山境亦同不。心交如我輩。四海皆良儔。縁是生太平。未知干戈憂。一生如此酔。名利又何求。」 本庄村とは何処か、又其地に関帝廟のありやなしやも、わたくしは未だ考へない。同遊者の渋江|六柳《りくりう》は抽斎である。小野|抱経《はうけい》は富穀《ふこく》である。抱経と号したには笑ふべき来歴があるが、事の褻《せつ》に亘るを忌んで此に記さない。石川二|陶《たう》は貞白《ていはく》であらう。二童中恒吉は未詳であるが、道悦は富穀の子で、此時九歳であつた。陶淵明の遊斜川詩は「開歳※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2−1−57]五日、吾生行帰休」云々を以て起る。晋安帝の隆安五年辛丑正月五日の作である。本荘村の遊が偶《たま/\》正月五日であつたので、榛軒は其韻を用ゐたのであらう。辛丑は淵明三十七歳の時であつた。
 九月十四日に榛軒は中川に遊んだ。「天保十五甲辰季秋十四日、与諸子同遊中川七首」の詩が詩存中にある。其体は七絶である。暖い小春日和であつた。「風光恰是小陽春。」お茶の水から舟に乗つて出た。「茗水渓頭買小船。」吾妻森《あづまのもり》で陸に上つて蓑笠を買つた。「吾妻祠畔境尤幽。出艇間行野塢頭。筍笠莎蓑村店買。先生将学釣魚流。」網を打たせ、獲《えもの》を※[#「肴+殳」、第4水準2−78−4]《さかな》にして飲んだ。「漁師撤網篁師割。」逆井《さかさゐ》で門人|安分《あんふん》某の家に立ち寄つて、里芋の煮染を菜にして飯を食つた。恒吉等は庭の柿を取つて食つた。「過逆井安分生家」と註した一首に、「芋魁香飯当鶏黍」、「童子争把紅柿実」の句がある。以上わたくしは単に事実を徴すべき句を摘んだ。
 榛軒は此中川の遊に先つて、多摩川へ鮎漁に往つたらしい。又中川の遊の後に、病に臥したらしい。詩存に「病中偶成」の七古があつて、其初六句にかう云つてある。「玉川香魚中川鯉。罟風網雨得佳期。両日勝遊協素願。報酬併算酒千巵。如何天稟蒲柳質。風寒相襲似兵師。」推するに病は感冒であつただらう。
 此年柏軒の次女|国《くに》が生れた。後に狩谷矩之に嫁する女《むすめ》である。
 池田氏では此年京水の五男直吉が歿した。二世全安さんの蔵する過去帳に「六月十一日、本源院真直居士、俗名直吉」と記してある。
 此年榛軒四十一、妻志保四十五、女柏十、柏軒及妻俊三十五、女洲四つ、国一つ、長三十一、正宗院七十四であつた。

     その二百五十一

 弘化二年は蘭軒歿後第十六年である。榛軒に元旦の作があつて、詩存中に見えてゐる。「弘化二乙
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