と弟との報に由つて詳にすることを得た。墓碣と水盤とに名を列してゐる四人の弟子は、皆京都奈良等の人で、中にも佐井聞庵は恐くは錦橋の三人目の妻沢の仮親佐井圭斎の族であらう。自ら猶子《いうし》と称する仲元益《ちゆうげんえき》が「南都」と書してゐるを見れば、近藤玄之も亦奈良の人かと推せられる。
吉永氏が弟と檗山に相見たのも奇とすべく、並河氏の書が弟の書と共に至つたのも奇とすべきである。
その二百四十一
わたくしは蘭軒歿後の事を叙して天保七年に至り、池田京水が此年に歿したと云つた。是は柏軒を始として、蘭門の渋江抽斎等が痘科を京水に学び、又後に至つて京水の七男全安が一たび榛軒に養はれて子となるが故である。
わたくしは京水を説き、其父文孝堂玄俊、其伯父錦橋、錦橋の妻沢、錦橋の養嗣子霧渓等に及び、これがために多くの辞《ことば》を費した。是は曩《さき》に錦橋等の事を説いて、未解決の問題を貽《のこ》して置いたので、新に得た材料に由つてこれが解決を試ようとしたためである。
今錦橋初代瑞仙の家を池田氏の宗家とすれば、京水の家は其分家である。分家は宗家の霧渓二世瑞仙が幕府に京水の「別宅願」を呈して聴許せられた日に成立した。しかし京水は京都に於て一たび絶えた文孝堂の後を襲《つ》いだものと看做すも亦可であらう。
京水歿して、嫡子瑞長直頼が分家を継いだ。宗家三世瑞仙直温繕写の過去帖及二世全安儲蔵の過去帳に拠るに、此瑞長の後に猶一人の瑞長があつたらしく、法諡《はふし》用ゐる所の文字より推するに、初の瑞長は天渓と号し、後の瑞長は三矼《さんこう》と号したらしい。しかし此分家の存滅はわたくしの未だ考へぬ所である。
わたくしの識る所の二世全安の家は此分家と別であるらしい。初代瑞長直頼の弟初代全安は、後に一たび伊沢氏に養はれて離縁せられ、此に始て家を成した。伊沢氏の例を以て言へば、即ち「又分家」である。
是故にわたくしは竊《ひそか》に謂《おも》ふ。彼|生祠記《せいしき》、本末記、遺言録の三書は、或は伝へて瑞長の家にあつたのではなからうか。初代全安がこれを二世全安に伝へなかつたのは、これがためではなからうか。
此推測にして誤らぬならば、そこにかう云ふポツシビリテエが生ずる。即ち瑞長の裔は今猶|何処《いづく》にか存続してゐて、三種の佚書もそこに埋伏してゐると云ふ場合である。わたくしは初に宗家の裔鑑三郎さんを尋ね得て、次に「又分家」の裔二世全安さんを尋ね得た。そして二家は曾て相識らなかつたのである。此より類推すれば、其中間なる分家の裔も亦、鑑三郎にも識られず、二世全安にも識られずして、何処にか現存してゐはすまいか。
京水と其近戚遠族との事は一応此に終る。わたくしは此より下《しも》に伊沢氏に縁故ある家々に於ける、此年天保七年の出来事二三を記す。
宝素小島春庵は前年天保六年に奥詰に進められ、此年の暮に法眼に叙せられた。是が其一である。
阿部家では此年十二月二十五日に正寧《まさやす》が致仕し、正弘が十万石の福山藩主となつた。是が其二である。
わたくしは此に天保丙申の記事を終らむとして、端《はし》なく近藤俊吾さんの書を獲た。そして榛軒の嘗て催した尚歯会が此年に於てせられたことを知つた。尚歯会の事は、わたくしも夙《はや》く知つてゐたが、未だその何れの年に繋くべきものなるかを知らなかつたのである。
その二百四十二
伊沢氏の尚歯会は蘭軒が曾て催さむと欲して果さずに歿したものである。既にして蘭軒の賓客中に加ふべかりし狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎も亦歿した。それゆゑ榛軒は此年天保丙申の九月十日に急にこれを催して亡父の志を遂げたのである。
此日に丸山の榛軒の家に来り会した老人の誰々なるかは、今知ることが出来ない。初めわたくしは只松崎|慊堂《かうだう》が客中にあつただらうと云ふことを推測してゐた。それは慊堂の会に赴くことを約した書が文淵堂の花天月地《くわてんげつち》中に収められてゐるからである。此慊堂の書は会に先つこと五日に裁したものである。想ふに慊堂は必ずや約を履《ふ》んで席に列したことであらう。
既に云つた如く、此会の年月日は近藤氏の教ふる所である。そしてわたくしは啻《たゞ》に此に由つて会の年月日を知ることを得たのみではなく、又客中に館柳湾《たてりうわん》のあつたのを知ることを得た。
近藤氏の抄して寄せたのは、「柳湾漁唱詩第三集」である。「伊沢朴甫宅尚歯会。故友伊沢蘭軒嘗擬招親交中高年者、設尚歯之宴、未果而歿、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎在其数中、而亦尋物故矣、今茲天保丙申秋九月十日、賢嗣朴甫設宴召集、蓋終其先志也、余亦与之、座間賦一律、似朴甫及※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎後之少卿。雨晴楓葉菊花天。招集高堂開綺筵。尚歯漫誇頭似雪。延齢共酌酒如泉。新詩吟就徒為爾。旧事談来已惘然。不見当時盧与狄。衰顔慚対両青年。自註、延齢備州酒名、是日席上侑之、盧狄謂蘭軒※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎、二人皆少於余十数歳。」両青年は蘭軒の子|信厚《しんこう》、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の子懐之で、懐之は主人信厚を助けて客をもてなしたことであらう。
柳湾が蘭軒と往来したことは、此詩引を除いても尚証跡がある。某《それ》の年正月十六日に、柳湾は蘭軒等と雑司谷の十|介園《かいゑん》と云ふ所に遊んで梅を看た。其時蘭軒は柳湾に謂つた。「宅の庭には雑木が多いが、あれを皆伐らせて梅を栽ゑようかとおもふ」と云つた。翌日雪中に柳湾は詩を賦して蘭軒に寄せた。徳《めぐむ》さんの蔵する詩箋は下《しも》の如きものである。「正月十六日、伊沢先生及諸子同遊雑谷十介園、園中野梅万余株、花盛開、鬮韻得八庚。十里城西試聴鶯。村園花満玉瑩々。共言今歳歓遊好。先卜梅郊爛縵晴。又得三肴。百樹梅花照暮郊。花間吟酔倒長匏。村翁也解留連意。折贈黄昏月一梢。翌日大雪、戯呈伊沢先生、又用前韻。料峭春寒歇囀鶯。満林飛雪鎖晶瑩。天公為掩仙遊跡。不使俗人躡嫩晴。昨日尋梅酔晴郊。今朝対雪酌寒匏。満園雑樹君休伐。留看瑤花綴万梢。(自註)先生謂余曰、欲悉伐家園雑樹、而植梅花。館機再拝具草、笑政。」引首印《いんしゆいん》は「石香斎」、名の下《しも》の二印は「館機」、「梅花深処」である。尚歯会に列した年、柳湾は七十五歳であつた。慊堂遺文の二序を閲《けみ》するに漁唱詩の初集二集は当時既に刊せられてゐた。
わたくしは此より尚歯会の今一人の客松崎慊堂の事を言はうとおもふ。
その二百四十三
わたくしは此年天保丙申九月十日に榛軒の催した尚歯会の事を言つて、其客の一人たる館柳湾の詩を挙げた。当日の客は幾人であつたか知らぬが、わたくしの知る限を以てすれば、柳湾を除非して只一の松崎|慊堂《かうだう》あるのみである。
わたくしは未だ慊堂の此会に赴いた確証を得ない。わたくしは唯会に先つこと五日に、慊堂がこれに赴くことを約したのを知つてゐるのみである。そして慊堂が必ず此約を履《ふ》んだだらうと推するのである。
わたくしは先づ慊堂の書を花天月地《くわてんげつち》中に得てこれを読み、後に近藤氏に由つて柳湾の詩を見た。会日の「重陽明日」即ち九月十日であるべきことは、慊堂が既に云つてゐる。しかしその丙申九月十日なることは、柳湾が独りこれを言つてゐるのである。啻《たゞ》に然るのみならず、厳密に言へば、九月十日を期した会が果して期の如くに行れたと云ふことも、又柳湾が独り伝へてゐるのである。
慊堂の書に拠るに、初め榛軒は慊堂を請じ、慊堂は略《ほゞ》これを諾した。唯或は雨ふらむことを慮《おもんぱか》つて云々した。榛軒は肩輿《けんよ》を以て迎へようとした。是に於て慊堂は書を裁して肩輿を辞したのである。是がわたくしの目睹した唯一の慊堂の尺牘《せきどく》である。
「手教拝読。秋冷盈至之処、益御清穆起居奉賀候。然者《しかれば》兼而御話御坐候老人会、弥《いよ/\》重陽明日御催に付、拙子も罷出候様先日令弟御入之所、不在に付不得拝答。此間小島子来臨、因而《よつて》御答相頼、乍然《さりながら》雨天なれば老人には定而《さだめて》迷惑可仕と可有御坐心得に而《て》、雨天の事申上候。雨天に而皆々被参候事に御坐候得ば曾而《かつて》不苦、草鞋《さうあい》布韈《ふべつ》尤妙に御坐候。遠方竹輿など被下候には及不申、此儀は堅御断申上候。但止宿之事は此節|奈何《いかゞ》可有御坐、此は臨時之事と奉存候。此段※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]奉答仕候。頓首。九月端五。松崎慊堂、伊沢長安様。尚以竹輿之事はくれ/″\も御断申上候也。」
「令弟」は柏軒である。榛軒は初め慊堂を請ぜむがために、弟を羽沢《はねざは》へ遣つたのである。慊堂の初の答を榛軒に取り次いだ「小島子」は宝素か抱沖か。「老人には定而迷惑可仕と可有御坐心得」は稍解し難い。しかし末の「止宿之事は此節奈何可有御坐」と対照して其義を暁《さと》ることが出来る。老人は多分迷惑するだらうとおもふ懸念より云々したと謂ふのである。推するに此「可有御坐」は慊堂特有の語ではなからうか。
慊堂の書は紅色の巻紙に写してある。字体勁にして潤である。絶て老人の作る所に似ない。
尚歯会の年、慊堂は六十六歳であつた。
わたくしは未だ慊堂日暦の丙申の部を閲することを得ない。伊沢氏尚歯会に来集した館松崎以外の老人の誰々なるかが、或は日暦中に見出されはせぬだらうか。わたくしはそこに一縷の望を繋いで置く。
此年伊沢氏では榛軒三十三、妻志保三十七、長女|柏《かえ》二つ、柏軒二十七、妻|俊《しゆん》も同じく二十七、蘭軒の遺女長二十三、蘭軒の姉正宗院六十六であつた。
その二百四十四
天保八年は蘭軒歿後第八年である。此年の元旦は、阿部家に於ては、新主正弘の襲封初度の元旦であつた。正弘は江戸邸に於て家臣に謁を賜ふこと例の如くであつたが、其間に少しく例に異なるものがあつて、家臣の視聴を驚かした。
先例は藩主出でて席に就き、前列の重臣等の面《おもて》を見わたし、「めでたう」と一声呼ぶのであつた。然るに正弘は眸《まなじり》を放つて末班まで見わたし、「いづれもめでたう」と呼んだ。新に添加せられたのは、唯「いづれも」の一語のみであつた。しかし事々皆先例に遵《したが》ふ当時にあつては、此一語は能く藩士をして驚き且喜ばしめたさうである。想ふに榛軒も亦此挨拶を受けた一人であらう。是は松田道夫さんの語る所で、渡辺修二郎さんの「阿部正弘事蹟」に見えぬが故に書いて置く。伊勢守正弘は此時十九歳であつた。
伊沢氏には此年特に記すべき事が少い。已むことなくんば夏季榛軒等が両国に遊んだ話がある。是は昔の柏《かえ》、今の曾能子《そのこ》刀自が三歳の時の事として記憶してゐるのである。
川開の夕であつた。榛軒は友人門弟等を率《ゐ》て往いて遊んだ。其時門弟の一人が柏を負うて従つた。一行は茶屋|青柳《あをやぎ》に入つて藝者小房等を呼んで飲んだ。
一行の中に石川貞白がゐた。貞白は本姓磯野、名は元亮《もとあきら》、俗称勝五郎である。石川は家に帰つて妓の宴に侍したことを秘してゐた。
翌日伊沢の乳母が柏を伴つて石川に往つた。忽ち柏が云つた。「をぢさん、きのふは面白うございましたね。かつつあんの前だがおやそかね。」
何さんの前だが、おや、そかねと歌ふのは、当時柳橋の流行であつた。石川は頭を掻いて笑つた。「どうも内証事は出来ないものだ。」是が記事の一である。
榛軒の三女|久利《くり》は此年に生れたが、其月日を詳《つまびらか》にしない。久利は後|幾《いくばく》もなくして世を早うする女《むすめ》である。是が記事の二である。
渋江氏では此年抽斎が小島成斎に急就篇《きふじゆへん》を書せしめて上木した。抽斎の跋は七月に成つた。前漢書藝文志に徴するに、古の小学の書には、史※[#「竹かんむり/「擂」の「雨」に代えて「亞」から下の横棒を取り
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