がんしやう》が死んだのは、瑞英四十歳の時である。

     その二百三十七

 わたくしは京水池田瑞英の事蹟を叙するに、文政四年に至る前半は其自記の文に拠ることを得た。しかし後半の資料はこれを参正池田家譜中所々に散見する細註に仰がざることを得ない。わたくしの続貂《ぞくてう》の文は既に八年に及んでゐた。
 文政九年には瑞英の長男が籍を躋寿館《せいじゆくわん》に置いたらしい。家譜に「文政壬戌入于医学館」と云つてある。壬戌は恐く丙戌の誤であらう。此年長男雄太郎は十八歳であつた。既に直頼《なほより》と名のり、瑞長と称してゐた筈である。父瑞英四十一歳の時である。
 十年には次女|俶《よし》が生れた。家譜に「文政十丁亥八月十五朝出生、名俶、よし、小久原権九郎奥方幼名を贈らる」と云つてある。字書を検するに「俶」には昌六切《しやうりくのせつ》と他歴切《たれきのせつ》との二音があつて、彼には「又善也」と釈してある。小久原《をくはら》の何人なるかは未だ考へない。此年瑞英四十二歳であつた。
 十二年には八男|剛《かう》十|郎《らう》が生れた。家譜に「文政己丑十一月七日生、幼名浅岡益寿贈ところ」と云つてある。浅岡の何人なるかも亦未だ考へない。此年瑞英四十四歳であつた。
 天保元年には長男瑞長が妻を娶《めと》つた。家譜に「妻青木貞勝妹、文政庚寅八月嫁来」と云つてある。庚寅は改元の年であつた。又六男末吉の縁談があつて、成らずして罷んだ。「文政庚寅松浦肥前守殿医師嵐山某え縁談之処、同年破談致す、後改て程安と称」と云つてある。当時の肥前国平戸の城主松浦肥前守は朝散大夫熈《てうさんたいふひろし》であつた。瑞長の外舅《ぐわいきう》青木と、程安《ていあん》の養父たらむとして寝《や》んだ嵐山《あらしやま》との事は未だ考へない。此年瑞英四十五歳であつた。
 三年には八男剛十郎が四歳にして夭した。「天保壬辰十一月十七日卒、(中略)仏諡玄剛」と云つてある。此年瑞英四十六歳であつた。
 四年には瑞長の長男敬太郎|直《ちよく》が生れた。「天保四癸巳四月二日誕生、母青木氏女」と云つてある。瑞英の初孫である。此年瑞英四十七歳であつた。
 五年には六月十三日に九男政之助が生れ、越て十五日に次男斎藤瑞節が死んだ。彼は「天保五甲午六月十三暁子誕生」と云ひ、此は「天保五甲午六月十五日卒、葬于本所法恩寺内善行寺、法名夏山院日周信士、年二十三」と云つてある。二世全安さんの家の過去帳には、「本所報恩寺中祥善寺」に作つてある。善行寺若くは祥善寺は養家斎藤氏の菩提所であらう。諸子中此人は嶺松寺に葬られざるが故に、わたくしは特に寺名を抄出した。此墓は或は今猶存してゐるかも知れない。此年瑞英四十八歳であつた。
 六年には六月二十二日に瑞長の長男敬太郎が死し、七月|朔《さく》に其次男が生れ、二日に死した。彼は「天保六乙未六月廿二日卒、(中略)仏諡知幼」と云ひ、此は「天保乙未七月朔生、二日卒、仏諡泡影」と云つてある。泡影の死が京水自筆の巻物の最後の記載である。此年瑞英四十九歳であつた。
 七年十一月十四日に京水瑞英は五十歳で歿した。法諡《はふし》宗経軒京水瑞英居士である。文政四年の自記に「仏諡可用宗経」と云つてあつた。此|諡《おくりな》には僧侶の撰んだ文字は一字も無い。跡には九子二女を生んだ四十三歳の妻常、二十七歳の嫡子瑞長、二十三歳の三男生田玄俊、十九歳の五男直吉、十七歳の六男程安、十二歳の七男全安、十歳の次女俶、三歳の九男政之助が遺つた筈である。三男玄俊は父京水が祖先の氏を襲《つ》がしめたものであらう。

     その二百三十八

 わたくしは池田京水自筆の巻物を得て、錦橋初代瑞仙の祖先、錦橋自己乃至其子孫の事蹟を覆検し、就中《なかんづく》錦橋の弟文孝堂玄俊と、其実子にして一たび伯父錦橋に養はれ、後廃せられて自立した京水瑞英との事蹟は、その未だ曾て世に公《おほやけ》にせられなかつた史実なるが故を以て、特にこれを細叙した。
 然るに彼巻物の内容にして、わたくしの此に補記せざるべからざるものが猶一つある。それは巻物の主要部分たる参正池田家譜の来歴である。初め京水は伯父錦橋の幕府に呈した系図即ち錦橋本系図を蔵してゐた。文化十三年、伯父錦橋の歿する年に至つて、京水は料《はか》らずも系図の一異本を観た。即|水津本《すゐづぼん》系図である。京水は此水津本を用ゐて、錦橋本に訂正を加へ、新に参正池田家譜を編した。即京水本系図である。
 此故に参正池田家譜の来歴を語らむとするには、溯つて水津本の来歴を語らなくてはならない。
 既に云つた如く、池田氏は古く水津氏と聯繋してゐる。錦橋十八世の祖|頼氏《よりうぢ》の弟|信吉《のぶよし》は水津重時の家を継いだ。降つて錦橋の高祖父信重は、実は信吉十二世の孫水津信道の子であつた。信重の子|嵩山正直《すうざんまさなほ》の弟|杏朴成俊《きやうぼくなりとし》は、信道五世の孫|光《ひかる》の養子となつて水津氏に復《かへ》り、成俊の子成豊は水津氏を継ぎ、其弟正俊が又養はれて嵩山の子となつた。即ち錦橋の祖父である。
 水津本に成豊の子が信成《のぶなり》、信成の子が官蔵となつてゐて、京水本はこれを襲用してゐる。
 然るに水津本の序に、京水は官蔵を「富小路殿御内斎藤平蔵悴也」と書してゐる。今再び水津本を検するに、水津光の弟政之助が今出川家の家人斎藤|帯刀《たてはき》の養子となつて、子平蔵をまうけた。推するに此平蔵が富小路家に仕へて、子官蔵をまうけ、官蔵が信成の後に一たび絶えた水津氏を冒したのであらう。同じ序文にかう云つてある。「平蔵の実子なれども、斎藤氏を称へず、水津を称候は本家相続の心なるべし。」
 官蔵は同じ序に拠るに、名を「官大夫と改、武家奉公の望有て、相模国何某といふ剣術名誉之人をたより、弟子となつて兵法免許をも受たれども、不仕合にて可然奉公在付も無之、再度帰京して近衛公に奉公」した。
 官蔵の妻《さい》は序に、「今出川殿御奉公人にて、生国は大津成よし」と云つてある。此妻は一女を生んで歿した。「寛政九年死去、其月は不覚、法名は円浄、七日の忌日なり」と云つてある。「不覚」とは其|女《ぢよ》が記憶してをらぬを謂ふ。
 官蔵の女《むすめ》は恃《はゝ》を失つた後十一年、「文化五甲子夏故ありて此江戸に来」た。然るに女が江戸に来た後三年、文化八年に官蔵は歿した。そして水津系図を女に譲つた。「形見とて此一軸を大事にせよと被申遺」と云つてある。推するに官蔵は京都にあつて、近衛家の家人として歿し、系図を江戸へ送つたのであらう。
 此女が京水に邂逅するのである。

     その二百三十九

 わたくしは京水本系図の来歴より泝《さかのぼ》つて水津本系図の来歴に及び、水津本が京都で歿した水津官蔵の手より、江戸にゐる女《むすめ》の手にわたつたことを言つた。
 京水が官蔵の女に遭つて水津本を借抄したのは文化十三年である。京水は水津本の序にかう云つてゐる。「文化十三年水津家系図を所持の女人に逢て、(中略、)其一軸を仔細申聞て仮受写畢。」
 京水は序に此女の末路を叙して云つた。「此女の身分世話をも致遣可申心底之処、元来風と所持の一軸の表書を見たるまゝに懇に申懸候迄にて、昨今の事なれば、猶折も可有之と思ひ居候処、女子不幸にして病死、其後右一軸の事申て看病之者等へ尋候へ共、一切分り不申候。但此女不幸にして遊女となり候て、終に死したり。」
 以上が京水の水津本に序して、斎藤平蔵、水津官蔵、水津氏某女の三世の事を記した文の梗概である。わたくしの文は京水の原文に比すれば、稍長きを加へた。或はわたくしは初より原文を写し出した方が好かつたかも知れない。しかしわたくしは京水の文の解し難きに苦んだ故に、読者をして同一の苦を嘗《な》めしむるに忍びなかつたのである。
 京水は水津本を重視し、これを藉り来つて錦橋本の愆《あやまり》を繩《たゞ》さうとした。水津本は記載素樸にして矯飾の痕が無い。京水の重視したのも尤である。しかし水津本と雖も、多少の疑ふべき所がないでもない。池田氏は信重より霧渓晋《むけいしん》若くは京水に至るまでが六世、水津氏の信重の兄信武より斎藤平蔵に至るまでも亦六世である。然るに後者の水津官蔵に至るまでは九世である。今その各世の寿命の脩短《しうたん》を細検せむとするに、歿年及年歯の記註不完全なるがために能はない。しかしわたくしは強ひて深く此等世系の問題に立ち入ることを欲せぬのである。
 わたくしは最後に水津官蔵の女《ぢよ》の薄命と、その京水との奇遇を一顧して置きたい。京水の文に由つて、覊旅の女の語つた所を窺ふに、女の父官蔵が早く既に舛命《せんめい》の苦を閲《けみ》し尽したらしい。そして其女に至つては実に言ふに忍びざる悲惨の境に沈淪したのである。仮に此女は母の死んだ年に生れたものとすると、その怙《ちゝ》[#ルビの「ちゝ」は底本では「ちち」]を失つたのが十五歳、覊旅に死したのが二十歳である。実は此より多少長じてゐたのであらう。女にして若し偶《たま/\》京水に邂逅しなかつたら、其祖先以来の事は全く闇黒の裏《うち》に葬り去られて、誰一人顧みるものもあるまい。知らず、水津本系図の一軸は何者が奪ひ去つたか。
 わたくしの京水自筆の巻物中より得た資料は概ね此に尽きた。わたくしは最後に此に附載するに黄檗山の錦橋が碑の事を以てしたい。

     その二百四十

 蘭軒歿後の叙事中、わたくしは天保七年池田京水の死を語つて、其養孫二世全安さんの蔵する京水自筆の巻物の事に及んだ。そして其末に黄檗山にある京水の伯父錦橋が碑の事を附することとする。
 錦橋は江戸駿河台の家に歿して向島嶺松寺に葬られた。然るに嶺松寺の廃絶した時、錦橋の墓はこれに雕《ゑ》つてあつた杉本仲温撰の墓表と共に湮滅《いんめつ》し、錦橋は惟《たゞ》法諡《はふし》を谷中共同墓地にある一基の合墓上に留め、杉本の文は偶《たま/\》江戸黄檗禅刹記中に存してゐること、既に云つた如くである。
 しかし錦橋のために立てられた石は、独り嶺松寺の墓碣《ぼけつ》のみではなかつた。わたくしは黄檗山に別に錦橋の碑のあることを聞いた。そして其石面に何事が刻してあるかを知らむと欲した。
 一日《あるひ》京都より一枚の葉書と一封の書状とが来た。先づ葉書を読めば、並河《なみかは》総次郎さんがわたくしに黄檗の錦橋碑の事を報ずる文であつた。「先日檗山に参り候節、錦橋先生の墓にも詣候。墓は檗山竜興院の墓地、独立《どくりふ》の墓の側《かたはら》に立居候。前面には錦橋池田先生墓、(此一字不明)弟子近藤玄之、佐井聞庵、竹中文輔奉祀、右側には文化十三年丙子九月六日と有之候。其他何も刻し無之候。竜興院には位牌も有之候へども、何事も承知不致居候。同院主は拙家|続合《つゞきあひ》にて、錦橋先生の伝記等一見致度様申居候。」
 次にわたくしは封書を披いた。是は弟潤三郎が同じ錦橋碑の事を報じた書であつた。「好天気にて休館(京都図書館の休業)なるを幸《さいはひ》十時頃より黄檗なる錦橋の墓を探りに出掛候。若し碑文にてもあらば、手拓して御送申度、其用意も致候。先づ寺務所を訪ひ、墓の所在を問はむと、刺を通じ候処、僧俗二人玄関に出候。僧は名を聞きしことある学僧にて、倉光治文《くらみつちぶん》師に候。俗の方は昔日兄上に江戸黄檗禅刹記の事を報ぜし吉永卯三郎君に候。吉永は恰も好し昨日門司より来りたる由にて、奇遇を喜候。さて二人に案内を請ひて墓の所に至るに、墓は尋常の棹石《さをいし》にて、高さ二尺七寸、横一尺、趺《ふ》は二重に候。」弟は此に刻文を写してゐるが、上《かみ》の並河氏の報ずる所と同じ事故略する。年月日を刻してある右側は「向つて右」ださうである。「墓前に幅一尺二寸、高さ七寸の水盤を安んじ、其前面には横に「錦橋先生墓前置」と刻し、左側面に「玄之猶子南都仲元益拝」と刻し有之候。誌銘なきに失望致候へども、墓の模様大概記して差上候。寺務所に帰りて暫く談話し、吉永君には兄上の研究を援助せられ候様頼置候。」
 黄檗山の錦橋碑の事は、此並河氏
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