、寛政辛亥だとすると、当時|菱谷沢《ひしたにさは》は二十七歳であつた。沢の錦橋に嫁した時、夫は六十に近かつた。沢は佐井某を仮親として嫁したのである。寛政丁巳に錦橋が江戸に入つた時、夫は六十二、妻は三十三であつた。錦橋が文化丙子に八十一歳で歿した時、妻沢は五十二になつてゐた。沢には子は無かつた。わたくしは後に京水の事を言ふに至つて、此婦人の事を一顧しなくてはならない。
錦橋の家は何処であつたか。錦橋自己は何の記載をも遺してゐない。行状に拠るに、大坂では「西堀江隆平橋南涯」に住んだ。京都では「東洞院」に寓した。江戸の居処は墓誌に杉本仲温が書してゐる。仲温は自己と錦橋との交《まじはり》を叙するに当つて、霧渓の行状に拠らなかつた。是が墓誌に見えてゐる唯一の新事実だと云つても好からう。「其始来江都也。住市中。後厭其煩囂。卜居駿河台。屋後築小楼。楼下陳酒尊。楼上貯痘疹書。(中略。)常謂人曰。有酒盈尊。有書插架則足矣。其他無所求。」江戸に来て先づ行李を卸した家は「市中」と云つてある。恐くは下町であつただらう。次で駿河台に遷《うつ》つた。即ち年々武鑑に記された住所である。その地面を柳原岩井町《やなぎはらいはゐちやう》に拝領したのは瞑目した後であつた。
錦橋は誰を識り誰に交つたか。その江戸に於る交際は書上と墓誌とに徴して知ることが出来る。書上に拠るに、錦橋は始て躋寿館《せいじゆくわん》に往つて逢つた人々を列記して、「多紀永寿院、同安長、吉田快庵、野間玄琢、千田玄知、山本楊庵、曲直瀬正隆等」と云つてゐる。武鑑を検するに、多紀永寿院《たきえいじゆゐん》は「法印、奥御医師、御役料二百俵、向柳原、」同|安長《あんちやう》は「法眼、奥御医師、向柳原、父永寿院」と云つてある。永寿院は藍渓元徳《らんけいげんとく》、安長は桂山元簡《けいざんげんかん》である。錦橋がデビユウとして痘書を講じた時、其差図をしたのは藍渓であつた。其他の人々中吉田快庵「法眼、奥御医師、御役料二十人扶持、両国若松町、」千田玄知「表御医師、後寄合、二百俵、駿河台、」此二者は武鑑に見えてゐる。野間|玄琢《げんたく》は「野間安節、寄合御医師、二百俵、呉服橋、」山本楊庵は「山本宗英、法眼、奥御医師、御役料二十人扶持、小川町、」曲直瀬正隆は「曲直瀬養安院、寄合御医師奥詰、千九百石、神田橋外」であらうか。しかし錦橋の親しく交つたのは前記の数人ではなくて、杉本仲温、渋江|至公《しこう》である。杉本仲温は「表御番医師、後奥詰、下谷御成小路」と、武鑑に見えてゐる。渋江至公は必ずや武鑑の「渋江長伯、寄合御医師奥詰、後奥詰御医師、三百俵十人扶持、新道一番町」であらう。並に錦橋が奥詰医師となつた後の同僚である。仲温は「池田錦橋先生、蒙召自京師至焉、与余同僚于内班者十年矣」と云ひ、又「渋江至公及予、与先生交最深」と云つてゐる。
その二百二十六
わたくしは既に池田京水自筆の巻物に拠つて、錦橋初代瑞仙、其妻、其僚友の事を叙した。妻には子が無かつた。宗家を継いだ三世瑞仙|直温《ちよくをん》の親類書錦橋の条には、末に「善卿総領、池田瑞英善直、母は家女」と記し、其廃嫡、其全快と別宅住ひとの事、其死が註してある。是が直温に由つて書かれた京水の事蹟である。錦橋は池田|杏仙正明《きやうせんまさあき》の実子であつたに、「家女」に子を産ませたと云ふは、何の義なることを知らない。
錦橋の養嗣子にして直温の生父なる霧渓《むけい》は、養父の行状にかう云つてゐる。「嘗游于藝華時。妾挙一男二女。男曰善直。多病不能継業。二女皆夭。」錦橋の子を問へば、其|妾《せふ》を併せ問はざることを得ない。此には京水を生んだものが「家女」ではなくて妾だとしてある。そして此妾には猶二女があつたとしてある。
直温の繕写《ぜんしや》した所の過去帖には、「憐山院粛徳玄俊居士、信卿、瑞仙弟、京水父、同(寛政)九丁巳八月二日、(中略)六十歳」と云ひ、「宗経軒京水瑞英居士、五十一歳、初代瑞仙長男、実玄俊信卿男、天保七丙申十一月十四日」と云つてある。此には京水が錦橋の弟玄俊|信卿《しんけい》の実子、錦橋の養子だとしてある。錦橋が「家女」に産ませた子でもなく、妾に産ませた子でもない。
わたくしは嘗て再び京水を説いた時、以上の諸説を並べ挙げて疑を存して置いた。しかし三説中妾の子とする霧渓の説に重きを置いたのは、父霧渓の行状を結撰したのが、子直温の過去帖を繕写したより古いからである。何ぞ料《はか》らむ、京水自筆の巻物に拠るに、直温の過去帖には一の虚構だになくして、其他の文書は皆虚構であらうとは。京水が池田玄俊の子で、玄俊が錦橋初代瑞仙の弟であつたことは、今や争ふべからざる事実となつた。
わたくしは此より玄俊京水父子の伝に入ることとする。是は未だ曾て世に公《おほやけ》にせられざる事実である。
周防国|玖珂郡《くがごほり》通津村《つづむら》に住んでゐた池田杏仙正明に三男一女があつた。男子は幾之助、久之助、丹蔵の三人で、長は後の初代瑞仙、仲は玄俊である。季《き》は夭折した。長は元文元年に生れ、仲は中一年隔てて元文三年に生れた。
久之助、名は信郷《のぶさと》、長じて玄俊と称した。号は文孝堂と云つた。
玄俊は天明二年壬寅四十五歳にして故郷を離れ、八月二日に大坂に至り、二十一日に夜舟に乗り込んで、二十二日巳刻に伏見に著き、それより京都東洞院姉小路に住むこととなつた。
玄俊の都に上つたのは医術を修めむがためであつた。故郷にある時|夙《はや》く医業をなし、殊に家学の痘科には精通してゐたので、京都に来てからは本道と産科との師を求めた。本道の師は清水荘介と云つて、新町通丸太町下る西側に住んでゐた。此人は後名を祥助と改め、家も同じ町の東側に移つた。玄俊は此人に就いて、主に傷寒の治法を学んだ。産科の師は賀川玄吾《かがはげんご》で、四条通東洞院西へ入る所に住んでゐた。産論の著者玄悦の孫、産論翼《さんろんよく》の著者|玄迪《げんてき》の子である。
その二百二十七
玄俊が京都に上るに先《さきだ》つて、其兄幾之助は大坂に来てゐた。それが何年であつたか不明であることは、既に云つた如くである。推するに明和安永の間の事であらう。幾之助は当時早く瑞仙と称してゐたのであらう。家は京水の記載に拠れば平野町であつた。霧渓は「西堀江隆平橋南涯」と記してゐるが、是は同一の家を指すものと見ることが出来よう。玄俊が京都に上つた時、大坂にゐた瑞仙は四十七歳、玄俊は四十五歳であつた。
京都の玄俊は独身であつたが、大坂の瑞仙は妻があつて九歳になる女《むすめ》を一人連れてゐた。わたくしは池田宗家三世瑞仙直温の書いた過去帖の正確なことを、種々の方面より看て知つたから、今此に拠つて初代瑞仙の妻の事を記する。瑞仙は早く安永三年に妻があつて長女千代を生ませてゐる。安永二年若くは三年に大坂にゐて妻があつたことは明白である。此妻は正行寺《しやうぎやうじ》の女《むすめ》であつた。此妻は次で安永五年に次女を生んだ。そして八年に死んだ。過去帖の「釈妙仙信女」である。九年に次女が死んだ。過去帖の「智瑞童女」である。玄俊が京都に上つた時連れてゐたのは後妻で、千代のためには継母であつた。推するに霧渓二世瑞仙の所謂「嘗游于藝華時、妾挙一男二女、(中略)二女皆夭」の文中、妾《せふ》と一男とは虚で、二女は実であつた。
玄俊は京都に来た翌年、天明三年に妻を娶《めと》つた。近江国|栗太郡《くりもとごほり》草津の人宇野杢右衛門の姉|秀《ひで》と云ふものであつた。婚姻をしたのは春の初であつただらう。此年の内に長男が生れた。
天明四年に玄俊の長男は夭して、次男が生れた。翌五年に次男も亦死んだ。次で六年五月五日に三男が生れた。名は貞之介であつた。是が後の京水である。貞之介の母秀は此月二十六日に死んだ。恐くは産後の病であつただらう。法諡《はふし》は光岳林明信女、五条高倉の宗仙寺に葬られた。此法諡は正しく宗家三世瑞仙直温の書いた過去帖に載せてある。そして「三十六歳」と注してある。此に由つて観れば宇野氏秀は宝暦元年生で、三十三歳にして玄俊に嫁したのである。京水の貞之介は父五十一、母三十六の時の子である。
貞之介は恃《はゝ》を失つた直後に、伯父瑞仙の養子にせられて大坂に往つた。自筆の巻物に「善郷養て兄弟二人を祐ると云意を用て祐二と改む」と云つてある。「兄弟二人を祐る」とは、玄俊は家に女子が無いので、赤子《せきし》を兄に託して祐けられ、兄瑞仙は男子が無いので、貞之介の祐二を獲て祐《たす》けられたと云ふ意であらう。瑞仙は後妻があり、先妻の生んだ長女千代も既に十四歳になつてゐたので、貞之介の世話をすることは容易であつただらう。
その二百二十八
京部東洞院姉小路に住んでゐる池田|玄俊《げんしゆん》の三男祐二は、母宇野氏|秀《ひで》が死んで、大坂平野町の伯父池田瑞仙に養はれた。時に天明六年で、玄俊は長男、次男が共に夭折して、祐二は其一人子であつたが、家に女の手がなかつたのである。これに反して瑞仙の家には後妻《こうさい》があり、又十四歳になる先妻の女《むすめ》千代がゐて、当歳の祐二の世話をする便《たつき》があつた。
中一年置いて、天明八年に祐二は始て生父の許《もと》に来た。京水自筆の巻物に、「里帰の祝の為に入京」と書してある。是が正月二十九日であつたと推測せられる。何故と云ふに、其次に「大火に因て次の日再大坂に帰る」と書してあるからである。「大火」とは正月|晦日《つごもり》の団栗辻《どんぐりのつじ》の火事なることが明である。三歳の祐二の此往復は、定《さだめ》て養母が連れて往き連れて復《かへ》つたことであらう。
わたくしは玄俊の姉小路の家は必ず焼けたものと思ふ。そして次の移転の記事を以て、火後の新居を謂つたものとする。「其後信郷居を御池通車屋町西に入北側より二軒目に卜す。」鰥夫《くわんぷ》玄俊は恐くは此家に独居してゐたであらう。しかし土著の人の信任は厚かつたものと見える。「其町の年寄役を兼ぬ」と云つてあるからである。
わたくしは此所《このところ》に瑞仙の書上《かきあげ》を参照しなくてはならない。「時天明八戊午年人始て曼公の術あることを知る」と云ふ文である。是に由つて観れば、周防国から出た池田氏兄弟は、兄は大坂にあつて技術を以てし、弟は京都にあつて徳望を以てし、同時に地方の信任する所となつたのである。此時兄は五十三、弟は五十一であつた。
尋《つい》で改元の年を中に置いて、寛政二年に瑞仙の後妻が死んだ。此人も亦先妻と同じく名は伝はらぬが、諡《おくりな》が伝はつてゐる。三世瑞仙直温の書した過去帖に、「釈寿慶信女、同(瑞仙)後妻、寛政二庚戌十月廿四日」と云つてあるのが是である。瑞仙の家は主人五十五歳、長女千代十七歳、養子祐二五歳の三人世帯となつた。
わたくしは瑞仙の後妻の死を此に插叙して置いて、さて京水の記に戻る。「時寛政二年善郷居を京に移すの志あるに因て、先づ善直を信郷が家に贈」と云ふ文である。瑞仙|善郷《よしさと》は自ら京都に入らむと欲して、先づ養子祐二を弟玄俊|信郷《のぶさと》の車屋町《くるまやまち》の家に遣つたのである。
京水の記は次に「同(寛政)三年善郷女於千代を従え、共に信郷が家に寓すること半年を尽し、始て居を油小路の裏店に求」と云つてある。
瑞仙が祐二を車屋町に遣つたのは、誰に託して遣つたか知らぬが、其時は後妻|寿慶《じゆけい》の歿日より後であらう。十月二十四日より後であらう。瑞仙は二年の暮近くなつて、先づ祐二を京へ遣り、三年に入つて自分も千代を率《ゐ》て京に入り、弟の家に寄寓した。そして此より半年を過した後、即ち三年の秋の頃京都油小路の裏店《うらだな》に住むこととなつた。
是が瑞仙の書上に「寛政二年辛亥(中略)請邀る者あり、因て暫く京都に寓」すと云ひ、二世瑞仙晋撰の行状に「後君厭浪華市井之囂塵、寛政壬子秋、游于京師」と云つてある事蹟の真相である。「辛亥」は二年にあらずして三年、「壬子」は四
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