の記載に拠るに、京水は上野三枚橋の畔《ほとり》の家にあつて書したのである。しかし京水は此時全巻を書したのでは無い。彼「善直誌」と署した部分の如きは、これに先《さきだ》つて書したものと覚しく、又これに後れて追書《つゐしよ》した文字は天保六年七月二日に及んでゐる。即ち終焉に先つこと僅に一年である。
 此巻物の内容は極て豊富である。わたくしをして奈何に其梗概を読者に伝ふべきかに惑はしむる程豊富である。わたくしは此に内容の梗概に筆を著けむとするに臨んで、先づ読者に一|事《じ》を告げて置きたい。それはわたくしの曾て懐いてゐた疑が、未だ全くは解けぬまでも、半《なかば》以上此に由つて解けたと云ふ事である。此巻物が略《ほゞ》わたくしを属※[#「厭/食」、第4水準2−92−73]《ぞくえん》せしめたと云ふ事である。
 わたくしの筆を著くることを難んずるのは、此巻物の内容が啻《たゞ》に豊富なるのみではなく、又極て複雑してゐて、その入り乱れた糸の千筋を解きほぐすに、許多《きよた》の思慮を要するからである。此巻物は首に「参正池田家譜」と題してあつて、其体裁より言へば系図である。しかし単に系図として看ても、全巻には三種の系図を包容してゐる。
 第一は初代池田瑞仙が寛政十二年庚申四月に幕府に呈した系図である。わたくしは早く此にその頗る杜撰のものであつたことをことわつて置く。今便宜上これを錦橋本と名づける。第二は初代池田瑞仙の曾祖父|嵩山正直《すうざんまさなほ》、初代瑞仙は誤つてこれを祖父とした。此嵩山正直の弟|成俊《せいしゆん》の玄孫|水津《すゐづ》氏某女の有してゐた所の系図である。是は体裁の整はぬものでありながら、書法真率にして牽強の痕がない。今これを水津本と名づける。第三は京水が水津本を用ゐて錦橋本を訂正した系図で、所謂|参正《さんせい》池田家譜である。今これを京水本と名づける。
 わたくしは前《さき》に再び京水を説いた時、初代瑞仙の宗家を襲《つ》いだ霧渓晋《むけいしん》の姻家窪田氏所蔵の「池田氏系図」を引用した。今よりして看れば、是は前三本とは全く別で、錦橋本の本づく所である。初代瑞仙の曾祖父嵩山正直の妹が溝挾《みぞはさ》氏に嫁した。其裔溝挾瀬兵衛が此系図を有してゐた。初代瑞仙は系図を幕府に呈せむがために、これを借抄したのである。今これを溝挾本と名づける。

     その二百二十二

 池田京水自筆の巻物の事を叙して、わたくしは池田氏系図の三本が其中に収めてあると云つた。しかし巻物の内容中尊重すべきものは、独り系図のみではない。
 第一に初代瑞仙の伝がある。是は寛政庚申の書上《かきあげ》で、極て杜撰なものではあるが、京水の校註あるが故に尊い。第二に京水自家の履歴がある。苟《いやし》くも京水を知らむと欲するものは、此に由らざることを得ない。第三に系図錦橋本の書後《しよご》がある。是は数行の文ではあるが、一読人をして震慄せしむべきものがある。第四に系図水津本の序記がある。若し紙背に徹する眼光を以て読むときは、其中に一箇の薄命なる女子の生涯が髣髴として現れるであらう。此女子の運命は実に小説よりも奇である。
 わたくしは初め二世池田全安さんの手より此巻物を受けて披閲した時、京水の轗軻不遇の境界をおもひ遣つて、嗟歎すること良《やゝ》久しかつた。わたくしは借留数月にして、全文を手抄した。
 記事は此より巻物の梗概に入る。梗概は原本の次第に拘らずに、年月を逐うて記する。錦橋の祖先の事は努めて省略し、錦橋の事も亦これに準じ、京水の事に至つて稍《やゝ》詳叙する積である。
 系図は京水本に従へば生田頼宗から起つてゐる。天児屋根命《あめのこやねのみこと》二十二世の孫が藤原鎌足で、鎌足十四世の孫が忠実《たゞざね》である。忠実の子が悪左府頼長、頼長の子が兼長、兼長の子が生田頼宗である。
 頼宗は蒲冠者範頼《かばのくわんじやのりより》に仕へた。頼宗の女《ぢよ》は範頼の子頼信を生んだ。頼宗はこれを養つて嗣となした。嫡孫承祖である。錦橋本は此頼信より起つてゐる。此故に生田氏は京水本に従へば藤原氏となり、錦橋本に従へば清和源氏となるのである。しかし此遠祖の事は、わたくしはこれを批評の範囲外に置く。
 頼信十六世の孫が嵩山正直《すうざんまさなほ》である。此世数は京水本に従つて記し、復た諸本の異同を問はない。亦わたくしの評することを敢てせぬ所だからである。
 嵩山正直は始て池田氏を称した。明人《みんひと》戴笠《たいりつ》の痘科《とうくわ》を伝へたと称するものは此嵩山である。此授受の年月には疑がある。嵩山は戴笠が岩国に淹留してゐた時、其治法を伝へたと云ふ。然るに戴笠の岩国に来たのは、僧となつて独立《どくりふ》と号した後で、寛文中の事となるらしい。嵩山の歿年万治二年と云ふに契《かな》はない。戴笠は或は万治元年に江戸に来た前に、既に一たび岩国に往つたであらうか。京水は疑を存してゐる。
 嵩山正直の子は正俊《まさとし》、正俊の子は杏仙正明《きやうせんまさあき》、正明の子は即ち錦橋である。是は京水本に従つたもので、錦橋本は正俊を脱してゐる。

     その二百二十三

 わたくしは池田京水の祖先を説いて鼻祖より京水の養父錦橋に至つた。其間に生じた所の旁系は一々挙ぐることを要せない。しかし彼系図|水津《すゐづ》本と溝挾《みぞはさ》本との来歴を明にせむがために、此に水津溝挾両家の事を略記する。
 生田氏の始祖頼宗の子が頼信で、頼信の子が頼氏である。頼氏の弟に信吉と云ふものがあつて、水津重時の家を継《つ》いだ。生田氏の支流に水津氏あることは此に始まる。降つて嵩山正直の父信重は、実は信吉十二世の孫水津信道の子であつた。次に正直の弟を杏朴成俊《きやうぼくなりとし》と云ひ、これが信道五世の孫|光《ひかる》の養子となつて水津氏に復《かへ》り、成俊の子に成豊《なりとよ》、正俊があつて、兄成豊は水津氏を継ぎ、弟正俊が又養はれて嵩山の子となつたのである。成豊の孫を水津官蔵と云ふ。系図水津本を有してゐたのは此官蔵の女《ぢよ》である。是が旁系水津氏である。
 次に溝挾氏は嵩山正直の妹、成俊の姉が往いて嫁した。是は京水本の記する所である。これに反して溝挾本に従へば、此女は正直の妹にあらずして成俊の子成豊の妹である。此女の所出が溝挾氏を嗣いでゐる。是は旁系溝挾氏である。
 わたくしは此より京水自筆の巻物に拠つて、初代瑞仙の事蹟を覆検する。しかし巻物の収むる所の錦橋瑞仙寛政庚申の書上《かきあげ》は、極て杜撰なる文書である。わたくしは曾て再び京水を語つた時、錦橋の養子二世瑞仙|直卿《ちよくけい》の実子三世瑞仙|直温《ちよくをん》の先祖書を引き、此先祖書中錦橋の条は錦橋自己の書上を用ゐたものであらうと云つた。わたくしの此推定は誤らなかつた。しかし錦橋書上と直温先祖書の錦橋の条とは、広略《くわうりやく》大に相異なつてゐる。そして錦橋書上は其文|愈《いよ/\》長うして其矛盾の痕は愈|著《いちじる》しい。直温は祖父書上の矛盾の大なるものを刪《けづ》り去つたと謂ふも可なる程である。然るに京水は別に養父錦橋の文を校訂すべき材料を有せなかつたと見えて、其矛盾の所はこれに評註を加へたに過ぎない。
 錦橋初代瑞仙は小字《せうじ》を幾之助と云つた。名は善郷《よしさと》、一の名は独美《どくび》、字《あざな》は善卿《ぜんけい》、錦橋は其号、瑞仙は其通称であつた。わたくしは前《さき》に錦橋が公文に字善卿を書したのを怪んだ。京水はこれを辨じてゐる。「善郷。或作善卿者。以字混名乗也。」
 錦橋の年齢は京水の記載を得て一層の紛糾を加へて来る。系図京水本の下《もと》に「実以元文元年生、一伝享保二十年生」と註してゐる。按ずるに所謂「一伝」は錦橋の養嗣子直卿撰の行状、嶺松寺の墓表等と符する。江戸|黄檗禅刹記《わうばくぜんさつき》を閲《けみ》するに、墓表は「文政戊寅仲夏、江都侍医法眼杉本良仲温撰、孝子池田晋直卿謹書併建之」と署してあつて、全く直卿撰行状に依拠して草したものである。既に行状を読んだものは、墓表中より殆ど一の新事実をも発見することが出来ぬのである。

     その二百二十四

 錦橋初代池田瑞仙は、系図諸本及|書上《かきあげ》に拠るに、寛保二年壬戌に怙《ちゝ》を喪つた。書上は此を「八歳」の時だとしてゐる。実は七歳である。此より錦橋は槇本坊詮応《まきもとばうせんおう》に就いて痘科《とうくわ》を学んだ。書上に詮応を「叔父」と称してある。系図錦橋本に従へば、詮応は嵩山《すうざん》の孫である。京水本に従へば信重の女《ぢよ》、溝挾《みぞはさ》氏室に瀬兵衛某と信之《のぶゆき》との二子があり、信之に信吉《のぶよし》と詮応との二子があつた。即ち信重の曾孫、錦橋の従祖父である。
 錦橋は書上に拠るに、二十歳にして桑原玄仲に雑病の治術を受けた。二十歳は宝暦五年である。しかし前の「八歳」の誤を承《う》け来つたとすると、宝暦四年十九歳の時となるであらう。
 錦橋は書上に拠るに、二十八歳にして母と共に安藝国に往つた。行状に此を宝暦十二年壬午の事としてゐる。享保二十年生として推算したものである。前例に従つて訂正すれば、宝暦十二年二十七歳の時の事となる。
 錦橋は安藝より大坂に移つた。書上は此を「寛延三庚午年」としてゐる。非常なるアナクロニスムである。京水が「按此年善郷年十五なり、未郷里を離ざるの前にあり、恐くは年号書損あるべし」と註した。養子|霧渓《むけい》は行状に「安永丁酉冬(中略)年四十」と書した。何の拠《よりどころ》あつての事か不詳である。安永六年丁酉に錦橋は、享保二十年生として四十三、正説元文元年生として四十二になつてゐた。わたくしは錦橋の大坂に往つたのは、安永三年より前でなくてはならぬと思ふが、其理由は下《しも》に挙げよう。
 錦橋は書上に「天明八戊午年人始て曼公の術ある事をしる」と云つた。大坂にあつて人に信ぜらるゝに至つたことを謂ふのである。「戊午」は戊申の誤であらう。正説元文生として五十三歳の時である。
 錦橋は書上に「寛政二辛亥京都痘瘡大に流行、予家治痘之術ある事を聞て請邀る者あり、因て暫く京都に寓」と云つてゐる。辛亥は寛政三年で、元文生として五十六歳の時である。霧渓は「寛政壬午(中略)年五十五」と改めた。その拠る所を知らない。寛政四年壬午は享保生として五十八、正説元文生として五十七である。
 錦橋は書上に拠るに、「寛政八丙辰十二月廿六日」に江戸の召命を受け、翌年入府した。行状には入府の時を「丁巳正月(中略)年六十四」としてゐる。享保生とすれば六十三、正説元文生とすれば六十二である。
 錦橋の歿日は京水が下《しも》の如くに書してゐる。「今按文化十三年丙子閏八月左之地面拝領仕度願出候処、同九月十九日柳原岩井町代地高坂茂助上り地七拾八坪余願之通被仰付候旨、植村駿河守殿御書附を以て被仰渡候。此実は先人御死去之後なり。実は同月六日死。」此文化丙子九月六日の歿日は霧渓も亦正しく書してゐる。しかし年「八十三」は誤である。享保生とすれば八十二、正説元文生とすれば八十一である。
 要するに錦橋書上の原文に従へば、年次と錦橋の年齢とは一も符合せぬのである。霧渓撰行状中その偶《たま/\》符合してゐるのは、享保乙卯生と云ふことと、宝暦壬午二十八歳と云ふこととの二である。そして此乙卯と壬午とは錦橋が書せずして、霧渓が始て書したものである。

     その二百二十五

 池田京水自筆の巻物はわたくしの新に獲た資料である。わたくしは此に由つて痘科池田氏累世の事蹟を覆検し、錦橋初代瑞仙の死に至つた。
 錦橋の妻の事は書上《かきあげ》に見えない。養嗣子霧渓撰の行状に至つて、始て「君在于京師時、娶佐井氏、而無子」と云つてある。霧渓の子|直温《ちよくをん》の繕写《ぜんしや》した過去帖には「芳松院殿緑峰貞操大姉、同人(初代瑞仙)妻、佐井氏、実菱谷氏女、嘉永元戊申年十二月六日卒、葬于同寺(嶺松寺)」と書してある。名は後に引くべき京水の文に沢と書してある。
 錦橋の京都に入つた年を
前へ 次へ
全114ページ中70ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング